レオーベンへの道 14:ヴァルヴァゾーネの戦い
Road to Leoben 14

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

フランス軍によるタリアメント川左岸側への威力偵察とその周辺のオーストリア軍の配置

 1797年3月16日早朝、強い抵抗を予想していたボナパルトは、ギウ、ベルナドット、セリュリエの3個師団とドゥガ騎兵隊を率いて、ヴァルヴァゾーネを通り、タリアメントに向かい、ギウはそこに午前11時に到着した。

 セリュリエ師団は距離があったため遅れていた。

 総司令官はすぐに副官であるクロワジエ(Croisier)に、第27軽半旅団に支援された25人の騎兵とともにタリアメント川に沿って布陣するオーストリア軍の位置を偵察するように命じた。

 しかし、渡河点は堤防と砲兵によって防衛準備が整っていた。

 この勇敢な士官は川に身を投げ、塹壕の近くに到着したが、ブドウ弾の下で任務を遂行し、第27軽半旅団は左岸への後退を余儀なくされた。

 第27軽半旅団はその後タリアメント川を北上し、最左翼の位置に移動した。

 この行動はオーストリア軍全体を警戒地点に移動させた。

 ギウ師団は、コドロイポの北西に位置するトゥッリダとリヴィスの近くの河岸に接近した。

 ベルナドット師団はギウ師団の後をヴァルヴァゾーネに向かって前進していた。

◎ヴァルヴァゾーネの戦い前の両軍の状況

 コドロイポとカミーノの間の左岸では、シュルツ将軍指揮下にある騎兵隊が2列で配置され、トゥッリダ、リヴィスの町にはロイス師団の歩兵が、ポッツォ(Pozzo)、コドロイポの町にはゼッケンドルフ将軍の歩兵が配置されていた。

 そして堤防で覆われたいくつかの砲台が左岸に沿って分布していた。

 オーストリア軍右翼はいつ来るか分からないフランス軍を待ち構え、左翼はセリュリエ師団の機動により担当地域を離れることはできなかった。

 カール大公はその中央のみでフランスの3個師団と戦うことを余儀なくされた。

ヴァルヴァゾーネの戦い

 1797年3月16日正午頃、ベルナドットはヴァルヴァゾーネに到着すると、ボナパルトからコドロイポのほぼ反対側に降りるよう命令を受け、ギウ将軍はその左のトゥッリダ(Turrida)とリヴィスの間に移動するよう命じられた。

 同時に、ギウ将軍は右岸の橋頭保を保護し左岸側のオーストリア軍の橋頭保に対応するために、合計12門の大砲が配備された2つの砲台を設置した。

 タリアメント川はどこでも渡河できるため、フランス兵は自由に最高の渡河点を見つけることができた。

 ベルナドット師団とギウ師団が指定された地点に移動している間、騎兵隊が先行して戦場に接近しつつあるセリュリエの師団は予備として機能し、ドゥガ将軍は騎兵隊を右翼に戦闘隊形で1列に並べた。

◎ヴァルヴァゾーネの戦いの開始

 午後3時、ギウは、副官デュポーが第27軽半旅団と共にリヴィス側でボン将軍が指揮する歩兵の支援下でタリアメント川を渡ることを許可され、コドロイポ側ではミュラ将軍が第21軽半旅団とともに川を渡るための配置につき、その後ろに歩兵を率いるシャブラン将軍が続いた。

 大砲の発射の合図で右翼と左翼が整列し、前面に軽歩兵の半旅団が並び、後方を歩兵の2個大隊に支えられ、それらの間と両翼に騎兵隊が配置されていた。

 ギウ師団のドマルタン将軍とベルナドットの師団のレスピナス将軍は、活発に大砲を発射した。

 フランス軍の前衛はオーストリアの騎兵隊に攻撃されたが、すぐに部隊を集結させて攻撃を撃退した。

 後ろに控えていた各半旅団は前衛の後に突進し、散兵の群れが川床に遠くまで伸びた。

 イタリア方面軍がこれほど整然とした秩序で現れたのはこれが初めてだった。

 与えられた状況と教育の欠如により、これまで整然とした指揮を許されなかったのである。

 その日、サンブレ・エ・ムーズ軍に決して劣らないように見えるという名誉を持って、イタリア方面軍はよく訓練されているかのような機動を示した。

 第27軽半旅団の先頭にいるデュポー将軍は、ギウ師団の前衛を形成し、腰まで水に浸かって川を渡り、オーストリア軍の射撃や砲撃にもかかわらず、ボン師団に支援されて左岸を勝ち取った。

 第21軽半旅団を率いるミュラ将軍はシャブラン(Chabran)将軍の命令の下、ベルナドット師団の支援を受けてコドロイポ側で同様の動きを実行し左岸へと渡った。

 その後、オーストリアの騎兵隊が出撃し、水から出てきた2つの師団の前衛に突撃した。

 フランス軍は冷静にそれらの攻撃に騎兵隊で対処し、オーストリア騎兵隊を追い返した。

 騎兵はフランス軍の方が数が多く、オーストリア騎兵隊は思うような活躍ができなかった。

 カール大公は夜明けまでタリアメント川で戦いフランス軍の前進を遅らせることを考えており、もしタリアメント川での防衛が不可能となった場合、危険なパルマノヴァへの後退を開始することを余儀なくされることが予想された。

 そのため、この状況を打破するためにシュルツ将軍の騎兵隊をベルナドット師団の右側面に向かわせ、ギウ師団とベルナドット師団の間に騎兵隊の代わりに歩兵隊を派遣した。

 しかし、ドゥガ将軍の騎兵予備隊の目の前で川を渡っているとき、副官であるムニエ将軍の歩兵隊に支援されたケレルマン将軍が騎兵隊とともにシュルツ騎兵隊に突撃を仕掛けた。

 そして騎兵隊を撃沈し、シュルツ将軍を捕虜にし、大砲5門を撤去した。

 この瞬間から少しづつ押し込まれていたオーストリア軍は後退を加速させた。

 ロイス将軍の歩兵は、トゥッリダ(Turrida)とリヴィス(Rivis)から後退した後、後退をカバーするためにグラディスカ(Gradisca)にバリケードを築いた。

 ギウは夜にもかかわらずロイス将軍の後衛をグラディスカから追い出し、4kmの範囲まで追跡した。

 オーストリア軍の後衛はかなり圧迫され、混乱しながらパルマノヴァを目指した。

 ヴァルヴァゾーネの戦いでフランス軍はオーストリア軍の大砲6門を鹵獲し400人以上を捕虜としたが、シュルツ将軍率いる騎兵隊との戦いでケレルマン将軍が何度かサーベルでの攻撃を受けて負傷した。

ヴァルヴァゾーネの戦い時のナポレオンとベルナドットのエピソード

 ヴァルヴァゾーネの戦い前、ボナパルトはオーストリア軍の大砲の射程の範囲外に野営地を設営し、昼食の準備を始めるよう命じた。

 カール大公は、「フランス軍は今日は攻撃しないだろう」という結論に達し、少し離れた野営地に軍隊を撤退させた。

 オーストリア軍が野営地に戻ると間もなく、ボナパルトが攻撃命令を下した。

 兵士たちは鍋やフライパンを落とし、武器に向かって走った。

 そして急速に隊列を作り、部隊ごとに縦隊を組んで前進し、すぐに水際に向かった。

 敵に向かって川を渡るべき時が来たとき、ベルナドットは師団にいくつかの心を揺さぶる言葉を投げかけた。

 「兵士たちよ!」と呼びかけ、「あなたたちがサンブレ・エ・ムーズ軍の出身であることを忘れないでください。そしてイタリア方面軍の目があなたたちに注がれていることを!」と叫んだ。

 しかし最初の連隊は水に入るのをためらった。

 ベルナドットの目的は、軍隊を広いタリアメント川の向こう側に到達させることであり、橋のない川を急速に通過するには、演説以上の何かが必要だった。

 ベルナドットは乗馬したまま「川の流れは緩やかだ!」と兵士達に向かって叫んた。

 しかし兵士達は「我々は馬に乗っていません!」と叫び返した。

 ベルナドットは流れの真ん中で下馬し、「前進せよ!」と叫んだ。

 (ベルナドット師団の)兵士達は「我々の将軍万歳!」と大声で叫びながら続き、(ギウ将軍指揮下の)デュポー将軍とアンドレオシー将軍もまた、川に突っ込んだ。

 それは厳しい3月の寒い日であり、空気は突き刺さり、水は冷たかった。

 しかし、将軍たちが模範を示したとき、誰が文句を言うことができようか?

 ラ・ヴァレッテ将軍はベルナドットを「最も凶悪な砲火の下で川の支流をいくつも渡った」と描写している。

 敵がより効果的な攻撃のために集結する前にバリケードを越えてフランス軍は左岸に集結した。

「Bernadotte, the First Phase, 1763-1799」Sir D Plunket (Dunbar Plunket) Barton(1914) の一部翻訳である。

ヴァルヴァゾーネの戦いの前後におけるマッセナ師団の動向の考察

◎ベッルーノからカサソーラまでのマッセナ師団の道程

 マッセナは3月13日に翌14日夕方までにアヴィアーノに到着するよう命令を受けている。

 しかし3月15日夜9時、ナポレオンはマッセナに「できるだけ早くセッラヴァッレを離れ、サチレとポルデノーネを経由してコルデノンスに行進するよう、そして、もし師団が1日の行軍でコルデノーネに到達できなかった場合、この地点にできるだけ接近するよう」命じた。

 その後ナポレオンは、16日夜11時にスピリンベルゴに行くよう命じ、3月17日午後7時に「サン・ダニエーレ、オソッポ、ジェモナを占領して、敵を見つけたらどこでも攻撃し、モッジョを偵察し、キウーサ砦を占領するよう」命じる書簡をベルティエを通じてマッセナに送っている。

 そのため、14日、周辺を偵察してアヴィアーノへの道を諦め、15日にベッルーノからおよそ28㎞離れているセッラヴァッレに到着し、16日にはセッラヴァッレからおよそ35㎞の距離にあるコルデノンスに向かっており、17日にはコルデノンスからおよそ25㎞の距離にあるスピリンベルゴに向かっていたと推測できる。

 そして恐らく17日深夜~18日未明までにナポレオンの命令がマッセナの元に届いて18日にはスピリンベルゴを通過したのだろう。

 マッセナは午後7時(日付不明)にカサソーラへの攻撃を行っているが、スピリンベルゴからカサソーラまではおよそ50㎞の距離である。

 50㎞という距離は通常2日間かけて行軍する距離でありジェモナより先はアルプス山脈であるため1日で行くことは不可能だと考えられる。

 そしてマッセナは3月20日にポンテッバを経由してタルヴィジオに進出している。

 そのため、18日にスピリンベルゴを通過し、19日午後7時にカサソーラを攻撃してキウーサ砦を占領し、20日にキウーサ砦からおよそ30㎞の距離にあるタルヴィジオに進出したのだろう。

 これらのことからマッセナ師団はヴァルヴァゾーネの戦いには関与しておらず、カール大公が撤退した後にタリアメント川を渡ったことが分かる。

オーストリア軍の夜間の撤退

◎オーストリア軍の夜間の撤退

 夜の間に、バヤリッヒとロイス、ゼッケンドルフ師団がパルマノヴァ近くの野営地に移動した。

 オクスカイ将軍は峠を保持するためにポンテッバに後退し、ゼットウィッツ少佐は、2個大隊を率いてトルメッツォ(Tolmezzo)を占領した。

 コボロス将軍は、砲弾と弾倉の撤収作業をカバーするために1個大隊とともにオソッポに留まり、作業が完了したらすぐにウディネの東に位置するシヴィダーレ(Cividale)に戻るように命じられていた。

 軍の後衛はコルモール川(Torrente Cormor)に配置された。

 本部はパルマノヴァの裏のヴィスコ(Visco)に移動した。

ドミニク・ジャン・ラレー(Dominique Jean Larrey)の空飛ぶ救急馬車

◎空飛ぶ救急馬車

Larrey's Flying Ambulance Baron Larrey's Flying Ambulance,1809 Paris, Le musée du Service de santé des armées (SSA) dans l'ancienne abbaye royale du Val-de-Grâce

※ラレーの空飛ぶ救急馬車は、資料で確認できる中で世界初の救急車と言われている。

 ヴァルヴァゾーネの戦いの翌日、ナポレオンは次のような命令を発している。

「本部、Valvasone、27 Ventôse V 年 (1797 年 3 月 17 日)。
今後、活動中の師団に所属する救急車に対する総司令官の命令は、戦闘の日には必要な支援を提供できる範囲内で常にそれぞれの師団の背後に置かれなければならない。
これらの救急車に加えて、列の中央に戻る本部の救急車がある。
この救急車に配属された医務官は、次の者と同様に負傷者が救急車を要求できる場所ならどこへでも行かなければならない。
軍医-少佐は死傷者を救急車で集め、必要な場合は、本部に向かうことを拒否することはできない。」

 この救急車は「空飛ぶ救急馬車」と呼ばれ、1792年にドミニク・ジャン・ラレーがライン方面軍に配属されていた時に作成したものである。

 1796年、ラレーはナポレオン率いるイタリア方面軍を視察のために訪れ、医療体制などを指導したと言われている。

 ナポレオンがこのような命令を出したということは、ヴァルヴァゾーネの戦いにおいて救急医療体制の不備を感じて改善しなければならないと考えたか、逼迫している救急業務の中で軍医の命令拒否があったのだと推測できる。