レオーベンへの道 36:チロル軍による大規模攻勢の開始
Road to Leoben 36

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

チロル軍による大規模攻勢の開始

◎ケルペン師団の前進

 1797年4月2日、ケルペン中将は、デゲルマン中佐にフラウエンフェルト(Frauenfeld)の前衛とともに午前10時に散兵戦を行いフランス前哨部隊と交戦し、ムレス(Mules)を奪取するよう命じた。

 ヴィピテーノの陣地に予備砲を備えた1個大隊を残し、ヴィピテーノへの出入口を守るライフェンシュタイン(Reifenstein)城とシュプレッヒンシュタイン(Sprechenstein)城には以前からの守備隊を残した。

 そしてケルペン師団本体は残りの部隊を2つの縦隊に分け、午前7時に前進した。

 1つ目の縦隊はフェンツル・フォン・シュプレッヒンシュタイン(Fenzl von Sprechenstein)大佐が率い、2個大隊で構成され、高地からヴォルフェンシュタイン(Wolfenstein)城に進み、城の前でエイサック川左岸に整列して塹壕を築いた。

 2つ目の縦隊はビカソビッチ将軍が率い、5個大隊とともに、ライフェンシュタイン城から脇道を通ってニーダーリート(Niederried)に進軍し、エッガー(Egger)川の深い渓谷の背後に陣取った。

 クロアチア人部隊と軽騎兵はムレスを偵察し、ムレス奪還後はケルペン中将がムレスで州兵軍の計画の第一段階目の結果を待つ予定となっていた。

リオ(ミュールバッハ)の戦い

◎リオ(ミュールバッハ)の戦い

 リッツァイル(Ritzail)川周辺に集結した州兵軍左翼約5,000人はヴァルス渓谷を越えてリオ(Rio)に向けて前進し、シュピンゲス(Spinges)でフランス軍と対峙し、これを撃退した。

 しかし、非常に混乱しながらフランス軍を追跡したため、リオに駐屯していたフランス軍の予備兵力によって追い返された。

 州兵軍左翼の大部分は散り散りになり、夕方になると、元来た高地に集まっていたのはわずか500人だった。

 州兵軍中央はヴァルナ(Varna)からフランス部隊を追い出し、エイサック渓谷の主要道路に侵入し、ミットヴァルト近くのジュベール師団前衛部隊とブレッサノネの町を結ぶすべての連絡路を占領した。

 それにともないブレッサノネにいるジュベール師団主力は警報を発した。

 しかし、午後2時、これらの優位な位置を獲得したとき、突然、隊列の間に混乱が発生した。

 数千人の農民が散り散りになり、クロアチア人ライフル兵150人は農民たちと分かれ、午後3時にミハイロヴィッチ中尉に連れられてペンネスに戻った。

 サレン渓谷にいた州兵軍右翼は、フランスが優勢な兵力でボルッツァーノの北に位置するアフィング(Afing)に進軍しているという誤報を聞き、出発する前に狼狽えて前進を拒否し、活動を停止したままだった。

 プステリア渓谷と近隣の自治体の住民は州兵として立ち上がることは無かった。

 立ち上がってフランス軍を攻撃するよう奨励したが、オーストリア軍の呼びかけに従う勇気がなく、連絡が遮断された場合に民衆を満足させるほどの分遣隊を派遣することができなかったのある。

 4月2日午前10時、デゲルマン大佐はフランス軍前哨部隊と戦闘を開始した。

 デゲルマン大佐はサック(Sack)村近くのフランス軍陣地を最も勇敢な1個大隊によって攻撃するとフランス軍前哨部隊は逃亡して行った。

 フランス軍前哨部隊はバリケードや城壁に至るまで火を放ちミットヴァルトを通過して逃亡した。

 サック村を襲撃したデゲルマン旅団の1個大隊はそのままの勢いでジュベール師団前衛が待ち構えるミットヴァルトまで追跡した。

 この大隊は無謀にも要塞化された陣地に突入したがあえなく撃退された。

 後退する際にも砲撃され、追撃を受けた。

 そのため、この1個大隊は無秩序かつ混乱した状態でサックに戻ってきた。

 この時、ケルペン中将が支援のために派遣した3個大隊はサックに到着したばかりだった。

 恐怖と混乱はこれらの3個大隊にも伝搬し、ムレスに撤退した。

 フランス軍の追撃はムレスまでしか行なわれなかった。

 ケルペン師団の全軍はヴィピテーノの以前の陣地に撤退し、後衛を再びフライエンフェルト(Freienfeld)に配置した。

 この戦いにおけるケルペン師団の損害は、死亡、負傷、捕虜を合計して、士官4人、兵士395人だったと言われている。

ボルッツァーノでの戦闘<1日目>

 ラウドン旅団側では、ケルペン中将率いる主力軍がラウドン旅団の3縦隊(ラウドン旅団左翼)の指針となるはずの任務に失敗したため、成功は期待できなかった。

◎ボルッツァーノでの戦闘<1日目>

 第1縦隊(ラウドン旅団右翼)はテルラーノの橋を勝ち取ったが、第2縦隊(ラウドン旅団中央)の一部はサレン渓谷の高地にまで進み、そこで500人のフランス軍分遣隊と遭遇した。

 派遣された哨戒部隊からは州兵軍右翼がサレン渓谷から前進しているというオーストリア軍にとって望ましい情報がもたらされず、ラウドン旅団の作戦の合図である大砲6発は発射されなかった。

 そのため第1縦隊と第2縦隊はテルラーノ橋で停止した。

 しかし第3縦隊は夕方まで続いた活発な戦闘を行い、フランス軍をルングルシュタイン(Runglstein)、ラフェンシュタイン(Rafenstein)、グラニングから追い出した。

 前哨基地はグラニングの近くに設置され、この縦隊の主要部分はイェネーシエンの近くで野営し、その間、ヴィンチュガウ(Vintschgau)とパッセイヤー渓谷の多数の州兵がそこに集まっていた。

 ラウドン将軍は翌3日も再度攻撃を行うことを決定した。

 サレン渓谷の州兵軍右翼は、4月2日に予定されていた作戦の一部を3日に実行する計画だった。