レオーベンへの道 24:ロイス将軍による目的地の変更とチロル軍のブレッサノネへの後退
Road to Leoben 24

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

ロイス将軍によるタルヴィジオからクラーゲンフルトへの目的地の変更

 1797年3月23日、ロイス将軍はリュブリャナ周辺の州境に移動していた。

 ゼッケンドルフ将軍とホーエンツォレルン将軍はロガテツ(Logatec)で合流した。

 ゼッケンドルフ将軍はロガテツでホーエンツォレルン旅団に騎兵を引き渡し、代わりに大砲8門を受け取り、旅団の歩兵とともに後衛として軍主力の後退を支援しなければならなかった。

 さらに、倉庫内の物資を運び出す時間を確保するために、できる限り長くロガテツを保持する必要があった。

 一方、ロイス将軍は、強力なフランスの部隊がタルヴィジオに向かって移動しているという連絡を受けていた。

 そのため、もしフランス軍がタルヴィジオを占領していた場合、イェセニツェ(Jesenice)とフジーネ・イン・ヴァルロマナ(Fusine In Valromana)を経由しての行軍中に山の盆地に閉じ込められるのではないかという懸念があった。

 ロイス将軍の目にはタルヴィジオへの行進は危険に映った。

 リュブリャナを始点としタルヴィジオとクラーゲンフルトの2つを終点とした場合、クラーゲンフルトへの道の方が1日早く到着するということもあり、3月23日、ロイス将軍は目的地をタルヴィジオではなくクラーゲンフルトへと変更した。

◎ロイス師団のタルヴィス(タルヴィジオ)からクラーゲンフルトへの目的地の変更

 リュブリャナからクラーゲンフルトへはローイブルタール(Loibltal)を通るルートで進軍することとなった。

 一方、ベルナドット師団はこの時点までにリュブリャナ方面への追跡を停止し、アイドフシュチナ(Ajdovščina)から派遣した分遣隊がイドリヤ(Idrija)で水銀貯蔵庫を発見していた。

※当時、水銀は金や銀の製錬や梅毒などの治療薬、化学実験用の材料として使用されていた。特に金や銀の製錬に使用される水銀は国家運営に関わる重要なものだった。ナポレオンは翌24日にイドリヤの水銀鉱山の発見をフランス政府に報告している。

 ドゥガ将軍はトリエステに入り、ピットーニ将軍は命令に従って物資を持ってリエカに後退した。

カール大公のチロル方面の部隊への命令

 3月23日夜明け頃、タルヴィスの戦いの開始前、カール大公はチロル軍司令官ケルペン中将に、「エイサック(Eisack)渓谷とプステリア渓谷への入り口を確保すること」、「クロイツベルク(Kreuzberg)周辺に駐留しているスポーク師団を介してカール大公率いる主力との連絡線の維持を考慮に入れること」を命じた。

 そしてライン川から来る次の列の指揮官にも書簡を送り、インスブルックに到着しているはずのソマリヴァ大佐とアウエルスペルグ大佐(Franz Xaver Johann Sarkander Alois Graf von Auersperg)に対し、フィラハへの行軍速度を可能な限り上げるよう命じた。

 しかし、この時点ですでにケルペン師団はブレッサノネに向かっており、サロルノからブレッサノネまで僅か4日(20日~23日の間)で約70㎞もの後退を余儀なくされていた。

エイサック渓谷での小さな戦闘

 3月23日朝、ジュベール師団の前衛は竜騎兵隊を従え、秩序を保ってボルッツァーノを通り抜け、前線に陣取った。

 正午、ジュベールはすべての分遣隊の集結を完了させ、前衛を前進させた。

◎サンタ・トリニタでの戦闘

 途中、オーストリア軍の落伍兵と荷物を拾い上げ、サンタ・トリニタ(Santa Trinità)の前に到着した。

 サンタ・トリニタではケルペン師団の後衛と民兵で構成されるチロル州兵数百人が周辺の防衛に当たっていた。

 ヴィアル将軍は左側の山に第4半旅団から1個大隊を切り離し、第4半旅団の騎兵隊に正面の村の入り口を攻撃させた。

 そして山で待ち伏せし、前衛の前進を妨害したチロル州兵を追い出すために、2個中隊が橋を渡り、右側に向かった。

 その後、オーストリア軍は後退してコルマに前哨部隊を残して防御を固め、ヴィアル将軍はそれを追跡した。

 23日午後、ジュベールはコルマにあるオーストリア前哨基地を、騎兵隊に支援された1,000人の歩兵によって偵察させた。

 そしてこの機会を利用して前哨部隊を可能な限り前進させ、翌朝の攻撃に備えてテルラーノを占領することを望んでいた。

 ロイ(Loy)騎兵隊長率いる少数の騎兵隊は、すべての攻撃を撃退することでフランス軍の意図を妨害していた。

 このコルマでの小規模な戦闘は夜明けまで続いた。

 その間、ケルペン師団の後衛はキウーサで防衛準備を整えた。

 前衛の小競り合いの間、ジュベールは師団全体を率いてサンタ・トリニタ(Santa Trinità)まで進み、そこで野営した。

 ジュベールは、左側のメラノへの道を監視し、攻撃を恐れていたラウドン将軍に対して師団の左側面と後部をカバーするために、1個旅団だけをボルッツァーノに送り返した。

 ケルペン中将は、チロル軍が布陣しているブレッサノネ近くの位置の防御に懸念を持っていたため、リオ(Rio)に後退ことをすでに決定していた。

 しかし、フランス軍がキウーサの峠を突破することに成功した場合に備えて、前衛(キウーサの後衛)を支援するために近くに留まる必要であることに気づいた。

 そのため、ケルペン中将は翌24日もブレッサノネに留まった。