レオーベンへの道 09:カール大公の前線への到着とフランス軍の侵攻準備
Road to Leoben 09

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

オーストリア軍によるパルマノヴァ要塞及びオソッポ要塞の占領とカール大公の前線への到着

 3月3日夜明け前、夜間に要塞から移動していたオーストリアの8個中隊がパルマノヴァの前に現れ、門と城壁を占領した。

 コッラルト伯爵及びヴェネツィア軍司令官はオーストリア軍に対し書面で抗議を行った。

 しかし、遠征隊を指揮していたコルティ少佐は、アルヴィンチからの謝罪の書簡を届け、パルマノヴァ占領の主な理由として軍の弾薬倉庫の安全な場所を確保する必要性を伝えた。

 以降、オーストリア軍とヴェネツィア軍はこの要塞で警備任務を分担した。

 同日、サン・ジュリアン大佐がピンツァーノ橋の防御を補強するために2個中隊とともにジェモナから出発した。

 しかし、オソッポの近くに到着するとサン・ジュリアン大佐は突然向きを変え、外壁を占領し、門の守備隊を降伏させ、オソッポ要塞を占領した。

 オーストリア軍が明らかな力で2要塞を占領しようとしているのを見てヴェネツィア政府は喜んだと言われている。

 3月4日、カール大公がウディネの本部に到着し、アルヴィンチから軍の指揮を引き継いだ。

 一方、チロル軍側では、リプタイ将軍の健康状態が悪化し、軍の指揮を行うのは困難となっていた。

 そのため、チロル軍の指揮権をライン方面から来た、中将に昇格したばかりのケルペン(Wilhelm Lothar Maria von Kerpen)将軍に引き継いだ。

オーストリア領への侵入の決断

 フランス軍がオーストリア領に侵入するには大きく分けて3つの道があった。

 1つ目はチロルへの道、2つ目はウディネから北東方面にあるフィラハに通じる道、3つ目はパルマノヴァの先にあるトリエステやリュブリャナ(Ljubljana)に通じる道である。

 ボナパルトはフリウーリからタリアメント川に向かう主要道路を進軍する準備をし、マッセナ、ギウ、セリュリエ、ベルナドットの各師団とドゥガ将軍の騎兵予備隊と共に、2,700騎兵と36門の大砲を含む32,000人を集結させた。

◎1797年3月5日時点でのフランス軍の強度

 そしてフランス政府の意向に沿うように計画を立案し、オーストリア領への侵入を決意した。

オーストリア側の要衝の状況

 ヴェンツォーネ(Venzone)、サン・ダニエーレ(San Daniele)、カルパッコ(Carpacco)、コドロイポ(Codroipo)、サン・ヴィドット(San Vidotto)などのタリアメントの交通の要所は、防御準備が行われた。

 オソッポ要塞には800人の守備隊が配備され、4週間分の食糧、銃や弾薬はもちろん、かまども作られることになった。

 パルマノヴァ要塞で少なくとも数日間防衛ができるようにするために、主壁と城壁を改善することが提案された。

 もしタリアメント川を放棄しなければならない場合、イゾンツォ(Isonzo)川の背後へ後退することが予想されるため、イゾンツォ川沿いの交通の要所であるゴリツィア(Gorizia)とグラディスカ(Gradisca)の後ろに技術者が要塞を建設するために派遣された。

 グラディスカは1,000 人の兵士と8門の大砲で占領されることになっており、少なくとも8日間の抵抗に備えることになっていた。

 カナル(Kanal)とコバリド(Kobarid)の近くの交通の要所は防御に適した地形であり、要塞化することも提案された。

※Kanal、Kobaridはスロベニア語での呼び名であり、イタリア語ではCanale、Capolettoと呼ぶ。コバリドは、アメリカの作家であるアーネスト・ミラー・ヘミングウェイの第一次世界大戦のイタリア戦線を描いた著作「武器よさらば」に「カポレットの戦い」の舞台として登場する。

 イゾンツォ渓谷上部では、ボヴェツ(Bovec)の北東にあるコリトニツァ(Koritnica)川とクルジェ砦(Kluže Fortres)によって守られた狭い峠を越えて、プレディル湖(Lago del Predil)に向かって道が続いていた。

 クルジェ砦は3門の大砲で武装しており、近隣の農民が召集され、峠の両側に広がる通行不能な高山を警備し、必要に応じて防御した。

 タルヴィジオ(Tarvisio)の位置も防御に適しており、以前に構築された塹壕によって補強されていた。

 タルヴィジオは、プレディル湖からの道とポンテッバからフィラハに続く道が交差する要衝だった。

ピアーヴェの前衛部隊からの報告

 カール大公がこれらの防衛計画を手配して準備を行っている間、フランス軍の攻撃が差し迫っているという情報が、偵察やフランス軍を快く思っていない住民を通じてオーストリアの本部に届いた。

「すでにフランス軍は最高司令官のためにトレヴィーゾに本部を用意しました。ライン川から来た軍(ベルナドット師団)がヴィチェンツァに到着し、バッサーノのマッセナ軍はかなり強化されています。トレヴィーゾには大規模な野戦病院が建設されており、近隣では重要な要請が発表されていました。セリュリエ師団の最前線の半旅団は、チッタデッラとカステルフランコで宿営地における編成で分割され、大部分は後方をヴィチェンツァに向けています。ギウ師団はトレヴィーゾにあり、大部分はロヴァディナとカリタ(Carità)近くのピアーヴェの前哨基地にあり、右岸に沿って一連の駐屯地を維持しています。」

 この情報はヴェネツィアの英国大使の連絡によっても裏付けられ、他の多くの状況下で、フランス軍によって住民に配布された印刷物やフランスの最高司令官の宣言と軍への命令が、攻撃的な作戦が開始されることを示していた。

 知り得る状況から、攻撃が最初に山の側面、つまりピアーヴェ上流の前哨基地を防衛する右翼に向けられることは明らかだった。

 3月6日頃、ピアーヴェ川を守るホーエンツォレルン将軍からも「敵がネルヴェーザ、ロヴァディナ、ポンテ・ディ・ピアーヴェに集中しており、全会一致で翌日に3列で総攻撃を行うつもりである」という内容の報告が届いた。

 ピアーヴェ川上流を守るルシニャン将軍からも同様の報告が届き、その報告の中でルシニャン旅団の後退を願い出ていた。

「3月2日以降、ピアーヴェ川上流にあるこの地域では、雪がより頻繁に降るようになりました。前衛は厳しい天候と重労働の苦難にとても苦しんでいます。病気が続き、仕えることができる人の数は日を追うごとに減少しています。そのため、旅団の主要部分をさらに後方の宿営地に移動させることを提案します。歩兵の一部をピエーヴェ・ディ・カドーレ(Pieve di Cadore)に移動させてロンガローネの峠に覆われるよう配置し、旅団の残りはコルデヴォーレ渓谷をアゴルディーノ城(Il Castello Agordino)で防衛することができるアゴルド(Agordo)に移動させる予定です。ですが騎兵隊は、サン・ヴィートとセッラヴァッレの連絡路を監視し、ピアーヴェに到着する軍の右翼をカバーするために、コルデヴォーレ(Cordevole)川沿いのマス(Mas)とベッルーノの間の平坦な地域に配置する予定です。」

※アゴルディーノ城のあった場所は、1866年以降サン・マルティーノ要塞(Forte di San Martino)となっている。

◎サン・マルティーノ要塞概要図

ウディネの本部からの命令

 ウディネの本部からホーエンツォレルン将軍に次の命令が出された。

「ホーエンツォレルン将軍は深刻な戦闘を避けるべきである。もし敵の全体的な前進によって撤退を余儀なくされた場合、将軍はフォンタナフレッダの平野の後ろで最初の行進を開始し、ポルデノーネの平原の後ろで2番目の行進を開始する必要がある。」

 このような場合、ホーエンツォレルン将軍の旅団、特にモッタとサン・ヴィート経由で退却していた歩兵を迎えるために、コボロス将軍はパルマノヴァ要塞周辺の宿営地から8個騎兵中隊を率いて3月7日に出発した。

 3月8日、サント・アンドラット(Sant'Andrat)、フルミニャーノ(Flumignano)、レスティッツァ(Lestizza)を経由してコドロイポに至る道をタリアメント川方向へ向かい、タリアメント川を横断してカスティオンス(Castions)とサン・マルティーノ(San Martino)に向かい、宿営地に移動する予定だった。

◎ホーエンツォレルン旅団への後退命令とコボロス将軍による後退支援

 ルシニャン将軍の提案は受け入れられたが、次のように修正された新たな命令が送られた。

 「軍隊の大部分はベッルーノの前に移動し、騎兵隊はフェルトレに向かって自由に哨戒すべきである。もし退却が必要になった場合、プリミエーロとコルデヴォーレ渓谷に駐留する部隊はアゴルドで合流し、カナル・ディ・ソット(Canal di Sotto)にいる部隊はプレダッツォ(Predazzo)に退却する。ベッルーノ近郊の旅団の残りは、ピアーヴェ川とタリアメント川への後部連絡線を維持するために、ムーダ(Muda)近くの渓谷に部隊を配置する。」

 この修正はルシニャンが負っているチロル軍とピアーヴェの前衛部隊、タリアメントの主力との間の連絡線の維持任務をより広い範囲で遂行させる意図があった。

フランス軍による攻勢開始の動向

 これらのやり取りの間にも、フランス軍が攻撃をしようとしているというその他の部隊からの報告がウディネの本部に届けられていた。

 そして3月7日、フランス軍の強力な哨戒部隊が、ポンテ・ディ・ピアーヴェの反対側のピアーヴェ川右岸側に現れた。

 約4,000人のフランス兵がビアージョ(Biagio)に、3,000人がボスコ・ディ・モンテッロに集結した。

 サンタ・ママ(Santa Mama)とクレスピニャガ(Crespignaga)の倉庫にはワイン、食肉牛、飼料が積み上げられた。

 バッサーノにおいてもこれらと同様の動きが見られ、それはフランス軍の攻勢が近づいていることを示していた。

 ホーエンツォレルン将軍は、オデルツォからポンテ・ディ・ピアーヴェまで1個大隊を前進させたが、前哨基地を強化することはなかった。

 サン・ヴィートからモズニゴ(Mosnigo)、ファルツェ(Falze)、ロンカデッレ(Roncadelle)、そして海岸まで、歩兵404人と騎兵363騎が同様に前哨基地における日常任務に就いており、これら少数の部隊は疲弊していた。

 降り続く雨がピアーヴェ川を増水させたことにより、川幅は広がり深さは増していた。

 流れは速く、ピアーヴェ川右岸側にわずかに残されていた騎兵隊の退却を阻む可能性があった。