レオーベンへの道 49:ジュベール将軍とケルペン将軍の停戦協定
Road to Leoben 49

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

ジュベール師団とケルペン師団の間の停戦協定の締結とナポレオンによる協定の変更

 ケルペン中将は補給官フォルクマン大尉とフロサード騎兵大尉を全権大使として派遣し、ジュベール中将はバラグアイ・ディリエール中将を派遣した。

 そして1797年4月15日、ジュベールとケルペンの名において、ドイツとチロル及び近隣地域の停戦に同意し、署名した。

 停戦条件は次のように決定された。

 「1、チロル、フリウリ、ケルンテンにおけるこれら2つの軍団に属するフランス軍とオーストリア軍の間の停戦は4月15日に始まり、同月21日まで続く。

 2、フランス軍はケルンテン州のシュピタル、フィラハ、マルボルゲット(Malborghetto)、フリウリ州のポンテッバ、レジウタ、そしてヴァルヴァッゾーネまでのタリアメント川左岸を占領する。 その後の境界線はアヴィアーノを経由してピアーヴェ川のメルに至り、この川の左岸をカステルヌオーヴォに至り、そこからチズモーンからブレンタ川に至り、右岸を上がってレーヴィコに至り、そこからアディジェ川の左岸のカッリアーノに至る。

 3、オーストリア軍は、ケルンテン州のザクセンブルク、ザンクト・ヘルマゴールなど、ピアーヴェ川源流域にあるサッパーダ(Sappada)、フリウリ州のトルメッツォ、ブレンタ川左岸のベッルーノ、フェルトレ、プリモラーノ、、ペルジーネ、トレントを占領する。

 4、ザクセンブルクは前衛のみが所有すべきであり、(ケルペン師団の)主力軍団はグライフェンブルク(Greifenburg)を越えて移動すべきではない。

 5、関係する将軍の一人 (ケルペンまたはジュベール) は主力軍が再び(戦いを)勃発させようとしていることを正式に通知する前に敵対行為を開始することは許されるべきではなく、(戦いは)事前通知から24時間経過後以降に開始する。

 それでも6日間が経過した場合、事前通知から24時間経過するまで(戦いを)開始してはならない。」

◎1797年4月、フランス軍とオーストリア軍の停戦ライン(全体図)

 この停戦協定はただちにラウドン男爵将軍に伝えられ、アディジェ川右岸のチロルの境界線の設定はラウドン将軍とセルヴィエズ将軍に任されることになった。

 しかしボナパルトは、チロル州の国境を境界線とすべきであり、ケルンテン州、フリウリ州およびイタリアにはオーストリア軍を駐留させるべきではなく、リーエンツもフランス軍に占領されるべきであると主張した。

 そしてオーストリアの前哨基地はその都市から15分の距離を保たなければならなかった。

 ケルペン中将は交渉がこじれないようにするために、この変更に同意した。

 しかし、リーエンツの市民とその地域の武装勢力はフランス軍の受け入れを拒否し、抵抗の構えを見せた。

 ザクセンブルクでジュベール師団前衛を率いるヴェルジェス(Verges)将軍は脅迫したが、効果はなかった。

 その後、ジュベールは師団本部をフィラハに移した。

ルクレール将軍のパリへの旅立ちとオージュロー将軍(達)への帰還要請

 4月16日、ボナパルトはフランス政府にグラーツを占領し、ジュベール師団がケルンテン州で合流したことを伝えた。

 そして停戦期間を利用してイタリア方面の状況とオーストリア帝国との和平交渉の経過と内容をよく知っているルクレール将軍に書簡を持たせてドイツ経由でフランス政府の元に派遣した。

 これによりイタリア方面軍の状況をサンブレ・エ・ムーズ軍やライン・モーゼル方面軍に伝え、サンブレ・エ・ムーズ軍とライン・モーゼル方面軍の状況を知り、オーストリア軍の状況を安全に偵察することができるのである。

 恐らく、北イタリアとアルプス山脈を通過してパリに行くよりも、敵中を通ってライン川まで行き、その後パリに向かう方が早く意思決定できるとメルヴェルト将軍に伝えて了承を得たのだろう。

 さらにパリに行ったまま戻って来ず、イタリアで得た財を使って遊び惚けているであろうイタリア方面軍の将校達をイタリアへ送り返すようフランス政府に要求した。

 遊び惚けているであろう将校「達」とあるが、ほぼオージュロー将軍を名指ししているものだろう。

 実際、オージュロー将軍は1797年2月にイタリアを離れているにも関わらず、4月中旬になっても帰還する素振りもなかったが、ボナパルトがフランス政府に書簡を送った約20日後の5月6日にヴェローナに到着している。

 恐らくオージュローはボナパルトの書簡がフランス政府に届けられた後すぐにイタリアへ向かうよう命じられ、旅立ったのだろう。

 同時にボナパルトは、16日~17日にかけてさらにオーストリア軍との停戦協定で獲得した勢力範囲の占領を押し進めていた。

 これはオーストリア軍にフランス軍にはまだ余力が残されていることを示し、和平を有利に進めるためのものだった。

 そしてこの頃、ジェノヴァ共和国は徐々に不穏な空気に包まれつつあった。

 まださざ波程度ではあるがフランス革命の波が押し寄せようとしていたのである。