レオーベンへの道 50:ヴェロネーゼのイースターの始まり
Road to Leoben 50

ヴェロネーゼのイースター<1日目>

 1797年4月16日夜~17日未明、ランドリューが公表した「ヴェネツィア人による中立違反」のプロパガンダがヴェローナの街に公示された。

 しかしこれはヴェローナに集まった民衆の反感を買う結果となった。

 ヴェネツィア側はこれらのプロパガンダが書かれたビラをすべて撤去し、民衆に平静を保つよう促す新たなビラを公示したが、反乱はすでに準備されていた。

 午後には乱闘が発生し、フランスの警備隊はこれらを取り締まろうとしたが、午後2時頃、さらにカペッロ通りの酒場でフランス兵とクロアチア人の乱闘が発生した。

 フランス兵は警備隊のところに逃げ帰り、声高に抗議した。

 そしてイースター(イエス・キリストの復活を祝う祭り)の2日目の祝日、4月17日午後5時、バランド将軍は戻ってくるとサン・ピエトラ城に移動し、旅団司令部のあるサン・フェリーチェ城とサン・ピエトラ城からシニョーリ広場に向けて砲撃を行なった。

 これはバランド将軍が反乱を鎮めるために命じた威嚇射撃だったが、この瞬間すべての教会に聖音が鳴り響いた。

◎ヴェローナの地図(1757年)

 激怒した民衆は武器を求めて走り、孤立したフランス兵の喉を切り、600人のフランス兵が防衛している病院をも襲撃した。

 門に配置された部隊は多数のヴェネツィア兵の一団によって攻撃され、30,000人の農民は即座に門の砦を包囲した。

 そしてフランス守備隊は砦を失って後退を余儀なくされた。

 この時、ヴェネツィア軍の指揮官は民衆を止めるべきか民衆とともにフランス軍を攻撃すべきかわからず狼狽えていたと言われている。

 その後、エルベ広場、ピエトラ橋、ヌオーヴォ橋、市門が襲われ、大隊長カレールはプラ広場にフランス兵を集結させた。

 そしてヴェッキオ城(Castelvecchio)に立て籠もって抵抗した。

※「ヴェッキオ城」は日本語に翻訳すると「古城」となる。元々の名前は「サン・マルティーノ・イン・アクアーロ城(Castello di San Martino in Aquaro)」。現在は博物館となっている。

 農民たちはただちに大通りや近隣の家を占拠し、活発な一斉射撃で立て籠もった部隊の銃撃に応じた。

 ヴェッキオ城に逃げられたのはほんのわずかで、その後も激しい砲撃の応酬が続いた。

ヴェローナにおけるフランス軍とヴェネツィア軍との停戦交渉の決裂

◎ヴェローナ市街でのフランス軍とヴェネツィア軍及び民衆の勢力図

第一次イタリア遠征最後の戦役:ヴェロネーゼのイースター(Veronese Easter)

 同時に交渉は表面上続けられていた。

 バランド将軍は新たな援軍の到着を期待し、ヴェローナの反乱軍を撃退するまで時間を稼ごうとしたのである。

 ボーポイル(Beaupoil)少将が交渉を一任され、停戦交渉に向かった。

 しかし、城を出た瞬間、農民の群衆に狙われ、慎重に城に戻った。

 15分後、ヴェネツィア政府の使節がバランド将軍の元に訪れ、自分たちが身体を張って守るという約束をしたため、バランド将軍はボーポイル将軍に再び交渉に出向くよう命じた。

 群衆の叫び声の中、バランド将軍の副官ボーポイル将軍と士官3名が町の衛兵に付き添われて城から出てきた。

 ボーポイル達が宮殿(恐らくシニョーリ広場周辺の宮殿のどれか)に近づくと、護衛が背後から襲撃された。

 武器は取り上げられ、1人の士官は裸にされ、ボーポイルは髪の毛を掴まれ、サーベルが頭上に振り上げられた。

 しかしヴェネツィア政府の使節が身体を張ってそれを防いだ。

 その後、落ち着きを取り戻すと交渉が開始された。

 その中でボーポイル将軍はヴェネツィア政府は一時しのぎをしようとしているように思えた。

 そのため、ボーポイルは和平ではなく賠償を求めに来たと使節に伝えた。

 そして武器を持った民衆の叫び声がこだまする中で交渉は継続され、ボーポイルは、総司令官の承認がない限り双方の敵対行為を停止するという協定に同意した。

 使節は農民を解散させ、市門をフランス軍に引き渡し、平穏を維持することを約束した。

 しかしバランドは使者が周囲を囲まれた状態で行なわれた交渉の内容に不満を持ったため批准を拒否した。

 その後も交渉が行なわれたが物別れに終わった。

 サン・フェリーチェ城及びサン・ピエトロ城とヴェッキオ城との連絡は民衆によって遮断されており、バランド将軍はアディジェ川西岸側の部隊の状況を把握することができずにいた。

 一方、ヴェネツィア政府はヴェローナの民衆を落ち着かせようと試みたが無駄に終わり、軍の一部をヴェローナに残し、残りをヴィチェンツァへ撤退させた。

ヴェロネーゼのイースター<2日目>

 4月18日、ラウドン旅団の先遣隊がヴェローナに接近し、オーストリア軍もバッサーノ経由で進軍しているという情報がヴィチェンツァ経由でもたらされたとき、砦のフランス守備隊の状況はさらに悪化した。

 フランス兵が散り散りに立て籠もっていると考えられる建物はすべて襲撃され、組織的に殺害された。

 バランド将軍は再びサン・フェリーチェ城とサン・ピエトロ城から砲撃を開始し、ヴェッキオ城に立て籠もるカレール率いる部隊はこのチャンスを逃さず城への圧力を軽減するために出撃した。

 しかし、この攻撃はまもなく撃退された。

 ヴェネツィア軍がヴィチェンツァへ撤退したことは、ヴェローナの民衆を苛立たせ、民衆は統率の執れていないばらばらな戦いを継続した。

 その後、3時間の停戦をバランド将軍と取り決めた。

 この停戦にはヴェッキオ城周辺のことは取り決められていなかったため、ヴェッキオ城では戦いが続いた。

 民衆達はこの停戦の間にサン・レオナルド砦に大砲を運び、さらにスパーニャ砦(Bastione di Spagna)とボルサーリ門(Porta Borsari)、フィラーモニコ劇場(Teatro Filarmonico)の屋根に大砲を運んだ。

※ボルサリ門はヴェローナ市街の中にある内壁の門

 サン・レオナルド砦の大砲はサン・ピエトロ城とサン・フェリーチェ城を目標としており、スパーニャ砦とボルサーリ門、フィラーモニコ劇場の大砲はヴェッキオ城を目標としていると考えられる。

 ヴェッキオ城のフランス部隊はこれに対抗するために大砲を時計塔の最上階にまで運び、ボルサーリ門への砲撃を開始した。

 しかし民衆達は時計塔へ反撃して時計塔の破壊に成功し、大砲を沈黙させた。

 そしてヴェッキオ城への砲撃は激しさを増した。

 その後カレールは、まるで降伏交渉が成立したかのように白旗を掲げてヴェッキオ城から出てきた。

 ルッビ大尉は交渉のために白旗を掲げるフランス部隊に向かって進んだが、カレールは大砲の覆面を外して発砲を開始し、ルッビ大尉率いるヴェネツィア兵とヴェローナの民衆30人が死亡した。

 突然の攻撃に民衆達はランベルティ塔(Torre dei Lamberti)にまで後退して抵抗し、カレールは大砲によるランベルティ塔の破壊を試みたが、破壊することはできなかった。

 そして大砲を奪われてヴェッキオ城への撤退を余儀なくされた。

トレント自治州における6日間の停戦協定の締結

 4月18日正午、ラウドン旅団から派遣された大尉のナイペルグ伯爵が兵士の一団を引き連れてヴェローナに現れた。

 ヴェローナの民衆達はオーストリア軍の到着に歓喜したが、ナイペルグ伯爵は使者として停戦交渉を行うために来訪しただけだった。

 そしてナイペルグ伯爵は全軍の停戦協定が締結されたという知らせをバランド将軍に伝えた。

 バランド将軍とナイペルグ大尉は交渉を行い、ヴェルシュ・チロル(現在のトレント自治州)の停戦に関して以下の条件で合意した。

 「停戦期間は4月18日から23日まで続けられる。

 フランス軍の停戦ラインはバッサーノからアディジェ川近くのヴォラーニェ(Volargne)、パストレンゴを経由してガルダ湖畔のラシーゼ(Lacise)、さらにブレシアのサッビオ(Sabbio)、ベルガモからオルモ(Olmo)へ向かう。

 オーストリア軍の停戦ラインはフェルトレの前のクエロから始まり、コヴォロ砦、ヴァルスターニャ(Valstagna)、リーネ(Liene)、スキオ(Schio)、リヴァルタ(Rivalta)、マルチェジネ(Malcesine)、リモーネ(Limone)、ロッカ・ダンフォ(Rocca d'Anfo)を経て、イーゼオ湖畔にあるローヴェレ(Lovere)まで続き、ポンテ・ディ・レーニョ(Ponte di Legno)で終わる。

 バルド山及び両軍の停戦ラインの間の地域は中立地域と見做す。

 敵対行為は通知の24時間後からのみ開始できる。

 6日間の停戦期間が過ぎた後、双方の指揮官のいずれもが戦いを再開する正式命令を受けていなかった場合、停戦期間はさらに6日間延長される。」

 しかしこの停戦条件もその後変更された。

 なぜならボナパルトとケルペン中将の取り決め通り、オーストリア軍はイタリアやヴェネツィアの領土のいかなる場所も占領し続けることはできなかったからである。

 短期間と言えどもこの停戦協定によりヴェネツィア軍とテラ・フェルマの民衆達はオーストリア軍の支援を失った。

キルメイン中将のマントヴァ要塞への到着とヴァレッジョへの出撃

 キルメインはミオリスの元に到着すると、ヴェローナとの連絡が遮断されていることに気付いた。

 テラ・フェルマの民衆達の強力な分遣隊はヴィラフランカ、ノガラ、イーゾラで野営し、ヴァレッジョでミンチョ川の渡河を維持し、ヴェローナ周辺ではその数を日に日に増加させ約40,000人にまで膨れ上がっていた。

 そのためミオリスが派遣した者たちは民衆達によって殺害されていたのである。

 キルメインは民衆達のの武装解除を行うために直ちに400人の兵と大砲2門をヴァレッジョに送り、自らも騎兵分遣隊の先頭に立って出発し、その後に大口径の大砲6門を十分に備蓄するようミオリスに命じた。

 フランス軍の接近によりヴァレッジョの民衆達は退避し、武装解除は支障なく行われ、首長らはヴェネツィア軍によって武器を取ることを強いられたと言って、キルメインの寛大な処遇を懇願した。

 キルメインは彼らの言い分を信じることなく、戦争法に準じて処分するよう命じた。