レオーベンへの道 04:チロルでの小競り合いとピアーヴェ川での攻防
Road to Leoben 04

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

チロルでの小競り合い

 1797年2月18日、チロルを防衛するリプタイ将軍はカール大公からの命令を受け、フランスのジュベール将軍に5日間の休戦を提案した。

 しかし、休戦を拒否する書簡が届いた。

 2月19日と24日、モルヴェーノ(Molveno)とスポルマッジョーレの間に位置するアンダロ(Andalo)で前哨部隊同士の小競り合いがあった。

 2月23日、ミュラ将軍はファーイ(Fai)でオーストリアの塹壕を占領し、20人から30人を殺害し、25人を捕らえ、チロルの猟騎兵の分遣隊を攻撃し、その内60人を殺した。

 同日、ジュベール師団右翼を指揮していたベリヤード少将がベドッロ(Bedollo)でオーストリア軍に攻撃されたが押し戻し、30人が死亡、多数が負傷したと言われている。

※この23日の戦闘はオーストリア側の野戦記録には記載されていないが、3月17日には類似した出来事が記録されている。

捕虜の通過とオーストリア軍による大規模な偵察

 2月中旬、ギウ将軍はオージュロー将軍の代わりにオージュロー師団を指揮していた。

 オージュロー将軍はマントヴァ要塞の占領時に奪った軍旗をパリに届ける任務を与えられイタリアを後にしたのである。

 そして、マントヴァ要塞を守っていたオーストリア軍捕虜の列を通過させるために一時的にトレヴィーゾから部隊を退避させていた。

 2月16日、捕虜の通過が完了した後、アルヴィンチはフランス軍の新たな配置を知るために大規模な偵察を命じた。

◎オーストリア軍の大規模な偵察で判明したフランス軍の位置

 カール大公はフランス側と捕虜交換を行っており、マントヴァで降伏した捕虜がゴリツィアに到着するとその内の約5,000人を部隊復帰させた。

 2月18日、ロイス将軍は旅団の一部と共にトレヴィーゾに向かって前進し、トレヴィーゾのすぐ西にあるパエーゼ(Paese)でフランス軍の新たな駐屯地を発見した。

 ホーエンツォレルン将軍はヴェデラーゴ(Vedelago)とカステルフランコの間にギウ師団の4門の大砲を配備した約2,000人の歩兵が配置されており、離れた場所に大砲6門を配備した5,000人の兵士が配置され、サン・フロリアーノには200騎の騎兵隊が配置されているのを発見した。

 バヤリッヒ将軍は偵察の結果として、マッセナ師団の2,000人がアーゾロ(Asolo)に、800人がクレスパーノ(Crespano)に、1,500人がチズモーン(Cismone)に、800人がプリモラーノ(Primolano)に、そして最後に大砲12門が配備された7,000人がバッサーノ(Bassano)にいたと報告した。

 その際、フェネル周辺で、オーストリアの偵察騎兵隊は30騎のフランス騎兵隊に遭遇し、何人かの兵士と馬を殺し、残りを逃げ散らした。

 アルヴィンチは冬の宿舎への撤退開始を2月23日に定めた。

フランス軍のピアーヴェ川への前進

 2月19日頃、ギウ将軍がトレヴィーゾを再占領した。

 ボスコ・ディ・モンテッロの反対側、カヴァーゾ(Cavaso)とフェネル(Fener)にあるマッセナの前哨基地は、アーゾロの主要基地と同様に強化され、フェネルに3門の大砲が配備された。

 22日正午までに強力なフランス軍の縦隊がカステルフランコとトレヴィーゾからピアーヴェ川に向かって前進を開始した。

◎ギウ師団のピアーヴェ川への前進

 フランス軍は捕虜の通過によって一時的に後退した空間を埋め戻し、オーストリア軍をピアーヴェ川の向こうまで追いやろうとしたのである。

 ウェルテル将軍はギウ師団の前衛旅団を指揮し、オーストリア軍の前哨部隊をロヴァディナから追い出し、同様に左岸の橋頭堡も占領しようとした。

 その後、右岸に沿って進軍していたギウ将軍は、多くの歩兵で土手道を占領し、橋の反対側に駐留していたオーストリアの分遣隊に銃撃を行い警告した。

 その間、150人の猟騎兵がピアーヴェ川を渡り、サン・ヴィート(San Vito)とフォンティゴ(Fontigo)から歩哨を追い出した。

 フランス軍は歩兵500人、騎兵100騎によってロヴァディナ橋西詰を占領していた。

 アウグスティネッツ、スポーク、セットウィッヒ(Zettwig)の3個旅団は警戒態勢をとっており、前哨基地を支援する2個大隊が、すでに取り壊されているロヴァディナ橋に駆けつけた。

 フランス軍は大砲を持っていなかったが、夕方まで銃撃を続けた。

 その間、フランスの騎兵隊はオーストリアの騎兵隊によってフォンティゴでピアーヴェ川を渡って撤退を余儀なくされ、その直後にサン・ヴィートの部隊を撤退させた。

 そしてフランス軍はロヴァディナの橋頭堡を離れ、カテーナ(Catena)まで撤退した。

 フランス側の資料によると、オーストリア軍は18人が死亡し30人以上が捕虜となり、フランス軍は損害の詳細は書かれておらず、この時の戦闘で副官のデュポー将軍と、第25騎兵連隊を指揮したバルセルミー大佐が軽傷を負ったと言われている。

 ピアーヴェ川のさらに上流では、歩兵500人と騎兵隊を率いるフランスのラ・モット将軍がルシニャン大佐の前哨部隊に向かって前進したが、攻撃せずに再びアルシエ(Arsiè)に向かって後退した。