シリア戦役 16:アブー・マンナの戦いとエスナでの戦闘
Battle of Abu Manna

ドゼー将軍のクスへの移動

1799年2月17日、ドゼー将軍のクスへの到着【ドゼー将軍の上エジプト征服】

※1799年2月17日、ドゼー将軍のクスへの到着

 1799年2月14日にダヴー将軍がエスナに戻ると、翌15日、ドゼー将軍はフリアン将軍の副官ビノ(Binot)率いる守備隊200人を残してエスナを出発し、クス(Qus)に向かった。

 ドゼーがエスナを出発しようとしたとき、フリアン将軍がケナに派遣したコンルー大佐からの報告書を受け取っていた。

 2月17日、ドゼーは第14竜騎兵連隊と第18竜騎兵連隊とともにクスに到着した。

 そして紅海方面の出入口に部隊を配置した。

アブー・マンナの戦い

1799年2月19日、アブー・マンナの戦い【ドゼー将軍の上エジプト征服】

※1799年2月19日、アブー・マンナの戦い

 ケナの戦いで敗北したヤンブーのハッサンは待ち望んでいた第2隊が到着したらすぐにフランス軍を攻撃するつもりだった。

 しかし現状ではまだ到着しておらず、フランス軍の強さと比較すると手元の兵力では心許なかった。

 そのためナイル川右岸側の住民達を扇動することに専念し、住民達はハッサンの言葉に煽られて武器を手に取りアブー・マンナに集結し始めた。

 逃亡者や亡命先のないマムルークもアブー・マンナに向かった。

 2月19日、フリアン将軍はアブー・マンナの近くに到着し、武装した人々で溢れているのを発見した。

 ヤンブー守備隊が先頭に立ち、戦闘隊形を整えていた。

 フリアン旅団の歩兵たちはすでにコンルー旅団長の指揮の下、攻撃隊列を組んでいた。

 フランス軍が数発の大砲を発射し、フランスの歩兵が近づくと騎兵と農民は逃亡したがヤンブー守備隊は戦う意思を見せた。

 フリアン将軍は2つの縦隊を形成して村を包囲し、退路を完全に遮断した。

 そして別動隊を形成して逃亡した騎兵と農民を追跡させた。

 その後、フリアン将軍はアブー・マンナ村への一斉攻撃を命じ、ヤンブー守備隊は逃亡することも許されずに引き裂かれた。

 一方、別動隊は砂漠での5時間もの行軍という苦難を乗り越えて砂漠の中にあるヤンブー守備隊の陣地に到着した。

 幸運なことに、別動隊はそこであらゆる種類の多くの品物とともに、水とパンを見つけた。

 フリアン将軍は別動隊が戻って来るのを待っていたが、戻ってくる気配が無かった。

 そのため不安に駆られ、不安は時を追うごとに増大した。

 別動隊が広大な砂漠で迷子になった可能性を考え、少なくとも飢えと特に渇きに苦しんでるだろうと考えた。

 しかしフリアン将軍の不安をよそに、別動隊は元気に戦利品を積んで帰還した。

 砂漠に入る途中で捕虜となったアラブ人が別動隊をヤンブー守備隊の陣地まで導いたのである。

 アブー・マンナの戦いでヤンブー守備隊の損害は400人が死亡し、多くが負傷した。

 ヤンブー守備隊で逃亡できた者たちは僅かであり、多くの農民が砂漠で殺害された。

 フランス軍の負傷者はわずかだったと言われている。

ムラード・ベイ軍の北上とエスナでの戦闘

1799年2月25日、ムラード・ベイ軍の北上とエスナでの戦闘【ドゼー将軍の上エジプト征服】

※1799年2月25日、ムラード・ベイ軍の北上とエスナでの戦闘

 アブー・マンナの戦いの後、フリアン将軍はギルガに向かって進軍を続け、2月21日に到着した。

 フリアン将軍はモランド旅団長が指揮する1個大隊をギルガに残して2月23日にファルシュート(Farshut)に向かい、ファルシュートに到着すると2個大隊をケナに送り返した。

 その間、アスワンのベリヤード将軍はドゼーに書簡を送り、ムラード・ベイがアスワンに接近しようとしていることを知ったため、進軍して追い返したことを報告した。

 しかしその数日後、再びベリヤード将軍からの書簡が届き、ムラード・ベイ軍がアスワンを避けるためにナイル川右岸の砂漠に入り、クイタ(Kuita)でオスマン・ベイと合流しようとしていることを知らせてきた。

※クイタ(Kuita)はベルティエ元帥の回想録に書かれている地名でありクイタ川があるように記述されている。エジプト誌に収録されている地図や別の資料ではクイタはギッタ(Guitta)と記述されている。エジプト誌に収録されている地図から推測すると、恐らくキフト(コプトス)東の砂漠の小さなオアシスのある、現在のラキタ(Laqita)村のことだと考えられる。

 エドフにいたドゼー師団所属の分遣隊がムラード・ベイ軍を発見し、これを追跡したが何も得られなかったという出来事があった。

 そのためベリヤード将軍の報告は信憑性を帯びた。

 実際、ムラード・ベイはナイル川右岸側沿いを北上してアスワンにいるベリヤード旅団を引き付けた後、左岸側からハッサン・ベイを北上させていた。

 一方で、サマヌードの戦いの後、エスナ近郊でムラード・ベイと分かれたエルフィ・ベイ(ムハンマド・ベイ・エル・エルフィ)は、アフミームの上のオアシスでしばらく過ごした後、アシュートに出て資金と馬を調達し、コライムとベノアフィ(Bani Adi?)のアラブ部族が彼の計画を支援したとの報告も受けていた。

 そして遂に、2月25日夜明けにムラード・ベイ、ハッサン・ベイ、その他数人のベイが700~800騎の騎兵と多くのヌビア人を率いてエスナの前に突然現れた。

 ドゼーの副官であるクレメントが160人の分遣隊を率いてエスナから出撃し、およそ1時間戦った。

 ムラード・ベイ軍は戦闘よりも逃走を選択し、アルマント(Armant)への進軍を強行した。

 ムラード・ベイとしてはオスマン・ベイやエルフィ・ベイ、ヤンブーのハッサンの軍などと合流する必要があり、尚且つアスワン方面からはベリヤード旅団に追跡されていた。

 そのためムラード・ベイ軍の退路は前方しか存在しなかったのである。