シリア戦役 09:サマヌードの戦い
Battle of Samhud
サマヌードの戦い前のムラード・ベイ軍の状況

※1799年1月中旬頃、ムラード・ベイによる周辺勢力の団結
ドゼー将軍がアシュート州に落ち着きを取り戻すためにギルガで動けずにいる頃、ムラード・ベイはエルフィ・ベイの協力の下で南下し、ケナ(Qena)でフランス軍に対抗するために周辺勢力をまとめていた。
上エジプト全土に大きな影響力を持つエスナにいるハッサン・ベイと和解して協力を取りつけ、サウジアラビア西部マディーナ州の港町であるヤンブー(Yanbu)の守備隊の到着の知らせを受け取っていた。
ハッサン・ベイは過去の因縁を忘れ、自分の家と影響力を使ってイスラムの名を汚す敵と戦うことに同意した。
彼は250騎のマムルーク騎兵を含む3000人の兵士を率いてムラード・ベイに加わった。
この老人は上エジプト全土で大きな信用を得ており、彼との和解はエジプトとその周辺地域全体の心に大きな影響を与えた。
ヤンブーの守備隊は指揮官でありイスラム教の僧侶でもあるハッサンによって率いられていた。
※ヤンブー守備隊を率いているハッサンはハッサン・ベイとは別人である。
敵を前にして勇敢であるハッサンは、モスクの説教壇から兵士や信者に語りかける際に、彼らを奮い立たせる熱意を持っており、フランス軍にとって危険な存在だった。
これらのヤンブーの守備兵たちは、アラビア全土で最も勇敢な歩兵であると評判だった。
彼らはカービン銃、ピストル一丁、槍で武装し、皆が預言者の一族の子孫として緑のターバンを巻いていた。
ムラード・ベイはこれまでの敗北の原因を、優れた歩兵指揮官がいないことにあると考えており、ついに勝利をもたらすものを手に入れたと信じた。
そして、2,000人の守備隊の第2隊がヤンブーに集まり、紅海を渡る船を待っていた。
前線に帰ってきた時、ムラード・ベイの周りには砂漠の部族、ヌビアの黒人、ヤンブーとジッダ(Jeddah)のアラブ人達がいた。
※ジッダ(Jeddah)は紅海東岸沿いにあり、同じく紅海東岸沿いにあるヤンブー(Yanbu)から南に約300㎞、イスラム教の開祖である預言者ムハンマドの生誕地メッカから西に約70㎞の位置にある港湾都市である。
1799年1月20日、ムラード・ベイは12,000人~14,000人の兵を率い、ドゼー師団が放棄したと考えられるギルガに向かうために本拠地であるケナを出発した。
前衛部隊を指揮するハッサン・ベイとオスマン・ベイは、マムルーク騎兵250騎を率いて、すでにハウ(Haw)に到着しており、彼らはそこからギルガ方向へ出発した。
サマヌードでの遭遇

※1799年1月22日、サマヌードでの遭遇
ムラード・ベイはギルガに到着したら反乱軍を支援し、ギルガで防衛を強化するつもりだった。
しかしドゼーはムラード・ベイの考えを読んでおり、師団とともにギルガに駐留し続けていた。
そしてアシュート州での反乱を鎮圧したダヴー騎兵隊と艦隊もギルガに到着していた。
1月20日、ドゼーは遠征準備を整えると上エジプト征服を再開するためにギルガを出発し、ナイル川と運河の間を進軍した。
1月21日、オスマン・ベイとハッサン・ベイが指揮するムラード・ベイ軍前衛部隊は、サマヌード(Samhoud)近くの砂漠で眠りについた。
そして1月22日夜明け、第7軽騎兵隊によって編成されたデュプレシス旅団長の指揮下にある前衛部隊が、サマヌードの城壁の下でムラード・ベイ軍の前衛部隊と遭遇した。
その数分後、ドゼー将軍もサマヌード前に到着し陣形を形成するよう命じた。
両軍の構成と配置

※1799年1月22日、サマヌードの戦いにおける両軍の構成と配置

※参考:1826年のサマヌード周辺地図
両軍は干上がった運河によって隔てられていた。
フランス軍は歩兵と騎兵合わせて5,000人の兵士と大砲14門で構成されており、ナイル川には大規模な武装艦隊がいた。
対するムラード・ベイ軍は、マムルーク軍1,800騎、ベドウィン軍7,000騎、ヤンブー歩兵守備隊2,000人、大砲を持たないアラブ歩兵3,000人で構成され、総勢13,000人~14,000人だった。
フランス軍は3つの方陣を形成し、両翼に歩兵の方陣、中央に騎兵の方陣を形成した。
ナイル川側の左翼はベリヤード将軍が指揮し、運河の左岸側の右翼はフリアン将軍が指揮した。
そして運河をまたいだ先にある中央はダヴー将軍が指揮した。
ムラード・ベイ軍はフランス軍とは逆の戦闘隊形を取り、両翼に騎兵、中央に歩兵を配置した。
ナイル川側の右翼はマムルーク軍1,800騎とアラブ歩兵1,500人で構成されムラード・ベイが指揮し、左翼はベドウィン軍7,000騎が砂漠に配置された。
そして中央はヤンブー歩兵守備隊2,000人とアラブ歩兵1,500人で構成され、ヤンブーのハッサンが指揮した。
サマヌードの戦いの始まり

※1799年1月22日、サマヌードの戦いの始まり
ムラード・ベイ軍中央を指揮するヤンブーのハッサンは戦いを待ちきれないでいた。
指揮官であるハッサンは、フランス軍の陣形が完全に整う前に1,500 人のヤンブー守備隊と1,000 人のアラブ人歩兵を連れてサマヌードの村の前の干上がった運河に突入し、ベリヤード将軍が指揮するフランス軍左翼に射撃を開始した。
これに対してフランス軍は左翼を支援し、発砲を開始した。
ドゼーは、クレマン大尉を第21軽騎兵連隊の軽歩兵大隊とともに密集縦隊で運河に前進させて敵の縦隊を突破するよう命じ、一方で副官のラップ大佐とサヴァリー中佐に第7軽騎兵連隊の50騎の竜騎兵小隊の先頭に立って敵の側面に突撃するよう命じた。
ラップ大佐は竜騎兵小隊を率いてハッサンの側面を攻撃し、1,000人の守備隊を運河に押し込んだ。
運河の底での激しい戦いの中、ラップ大佐は負傷し、竜騎兵小隊は押し戻され、ハッサンの部隊は勝利の叫び声を上げた。
その時、ラ・トゥルヌリー大佐が、運河を側面から攻撃する大砲の射程内に2門の軽砲を配置して砲撃を開始すると同時にクレマン大尉率いる軽歩兵大隊が銃剣を持ってヤンブー守備隊に突撃し、その多くを殺害し、残りの歩兵たちは混乱のうちに運河から逃亡した。
100人がサマヌードのモスクに立て籠もったが喉を引き裂かれ、フランス軍はサマヌード村を占領し、ヤンブー守備隊が掲げていたメッカの旗を奪い取った。
ムラード・ベイ軍の敗走

※1799年1月22日、ムラード・ベイ軍の敗走【サマヌードの戦い】
中央が劣勢であるにもかかわらずムラード・ベイは決断できず、この歩兵戦闘の傍観者であり続けた。
その後すぐにムラード・ベイが指揮する右翼にも砲弾が発射され被害をもたらしたが、ムラード・ベイは対抗する砲兵を有していなかった。
「なぜ熟考するのか」とハッサン・ベイ老人は言い、「心ある者は我に従え」と言うと先陣を切って騎兵を率いた。
ハッサン・ベイはフランス軍右翼のフリアン将軍の指揮する方陣に突撃し、ムラード・ベイはベリヤード将軍の方陣を歩兵に攻撃させた。
ムラード・ベイ軍はブドウ弾とマスケット銃の砲火にさらされ、あたり一面は塵と煙で覆われた。
ムラード・ベイとハッサン・ベイは大砲の射程外に撤退することを余儀なくされた。
しかしその後も数度にわたる突撃にもかかわらずフランス軍の方陣は動くことなく、ムラード・ベイ軍はドゼー将軍の命令で砲火と一斉射撃にさらされ撃ち減らされていった。
時折、塵と煙の隙間からためらう攻撃者たちと死体で覆われた平原が姿を現すのが見えた。
この瞬間、ドゼー将軍はダヴー将軍に、堅固に持ちこたえようとしているふりをしているムラード・ベイとハッサン・ベイが指揮するマムルーク軍に突撃するよう命じた。
この突撃を見たムラード・ベイはダヴー将軍による突撃を待たずに即座に逃走を開始した。
ムラード・ベイの逃走は全軍撤退の合図となり、ムラード・ベイ軍は総崩れとなった。
ドゼー将軍は砲台をサマヌード村の前方に前進させ、3個軽歩兵中隊が全速力で村に侵入した。
ヤンブー守備隊は最初の砲弾が届くと混乱して逃げ去り、左翼のベドウィン軍は砂漠に散っていった。
ダヴー将軍は騎兵隊と軽砲3門を率いて4時間にわたってムラード・ベイを追撃したが、ムラード・ベイを捕捉することはできなかった。
ムラード・ベイ軍をファルシュート(Farshout)まで追い立てた時、ヤンブーのハッサンがファルシュート村に立て籠もっているのを発見した。
そのためダヴー騎兵隊は歩兵を待たざるを得ず、そこで時間を浪費した。
ドゼー将軍がファルシュートに入った時、そこで多くのマムルーク兵が死亡しているか、負傷により瀕死の状態にあるのを発見した。
その後、ドゼー師団はハウ(Haw)まで進み夜を過ごした。
※ハウのアルファベット表記は、Hau、Haw、Hou、Hiw、などがある
サマヌードの戦いの終わり
フランス軍の勝利は決定的なものだった。
ベイたちはアスワン方面へ逃亡し、ヌビア人はナイルの急流の向こうに急いで戻った。
この日、ムラード・ベイ軍の損害はヤンブー出身の100人のアラブ人を含む250人以上の兵士が死亡し、多数の負傷者を出すした。
対してフランス軍は4人が死亡し、数人が負傷しただけだった。
サマヌードの戦いの勝因は、ラ・トゥルヌリー大佐が指揮する軽砲兵による功績が大きかったと言われている。
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