シリア戦役 14:エル・ラディシアでの戦闘とケナでの戦闘
Conbat of El Radisia & Qena
ドゼー将軍の北上とケナでの不穏な気配

※1799年2月初旬、ドゼー将軍とダヴー将軍のアスワンからの北上
ドゼー将軍はすぐにアスワンに戻るとナイル川両岸に騎兵隊を配置して下って行った。
左岸側をドゼー将軍が、右岸側をダヴー将軍が指揮した。
右岸側を下っているダヴー騎兵隊は、火災や洪水、砂の浸食を耐え抜いたコム・オンボ神殿を視察し、エイレイテュイア(Eileithyia)の墓の洞窟の近くに陣取った。
※エイレイテュイア(Eileithyia)とはエル・カブ(El Kab)のことであり、墓の洞窟とはエル・カブにある岩窟墓のことだろうと考えられる。エル・カブはかつてギリシア語でエイレイテュイアス・ポリス(Eileithyias polis) 、「女神エイレイテュイアの都市」と呼ばれていた。岩窟墓はエジプト第18王朝(紀元前1550年 - 1295年)の頃の遺跡である。第18王朝で有名な王は、女王ハトシェプストやツタンカーメン王などである。
この洞窟の入り口で野営していたオスマン・ベイは、フランス軍が近づくと山の中に撤退した。
ドゼー将軍はエドフに到着すると数時間の休息を利用して、手に松明を持ち、最初の訪問時には探索できなかったエドフ神殿の内部に入った。
そして瓦礫の下に埋もれていた途方もない大きさの部屋や列柱を発見した。
エジプト研究所の研究員がエドフ神殿の調査を行なった後、ドゼー将軍による上エジプトの征服が再開された。
これらの間、ヤンブーのハッサンがクセイルから来た増援を受け取り、ケナで兵力を集結させているという知らせがエスナのフリアン将軍の元に舞い込んできていた。
1799年2月6日、フリアン将軍はすぐに歩兵隊を編成してコンルー大佐に指揮させケナに向かわせた。
しかしこの時点でヤンブーからの第2隊はクセイルに上陸し、確かに接近していたがまだケナには到着していなかった。
そのためこの報告には若干の誤報が含まれており、クセイルから来た増援ではなく農民を集結させていたのだと考えられる。
ドゼー将軍の上エジプト征服計画とヤンブーのハッサンの策動
ドゼー将軍の計画は、上エジプトに散らばった反抗勢力を各個撃破していくことだった。
ムラード・ベイとハッサン・ベイはアスワンのベリヤード将軍が追跡し、フリアン将軍をエスナからケナに移動させてヤンブーのハッサンを追い出し、ダヴー将軍はオスマン・ベイを監視し、ドゼー将軍は最も脅威にさらされている地点に向かって進軍するのである。
ドゼー将軍がエスナに到着すると、ヤンブーのハッサンが砂漠に隠れて次に到来する輸送船団を狙っていると知らされた。
そのため直ちにフリアン将軍と旅団の残りをケナに派遣し、ケナを占領したらすぐに、ギルガまで資金と馬の寄付を集めるよう命令した。
しかし、ナイル川右岸側の民衆は好戦的であり、もし占領しても困難がともなうと考えられた。
実際、右岸側の民衆たちはフランス軍に対抗する意思を示し、平和的な左岸側の民衆を蔑んでいた。
エル・ラディシアでの戦闘

※1799年2月12日、エル・ラディシアでの戦闘
一方、オスマン・ベイは山からナイル川にほとりに戻り、エドフの対岸付近にあるオスマン・ベイの故郷エル・ラディシア(El Radisia)周辺で軍を休ませていた。
※エル・ラディシア(El Radisia)は資料ではラディシエ(Redecieh)と記述されており、テーベ(現在のルクソール)の近くだとされている。しかし、古地図を探してもテーベの近くにRedeciehやそれに近い発音の村は存在しなかった。ムラード・ベイ軍がアスワンへの撤退を続けている時、オスマン・ベイはエドフでムラード・ベイと別れ、対岸のエル・ラディシアに渡っている。そのため "Redecieh" とはエドフの対岸近くに位置するエル・ラディシア(El Radisia)だと考えられる。
ドゼー将軍のいるエスナからエル・ラディシアまで約50㎞しか離れていなかった。
これを知ったドゼーはダヴー将軍に第22騎兵連隊と第15竜騎兵連隊を率いてオスマン・ベイを討伐するよう命じた。
2月12日の夜明け、ダヴー将軍はオスマン・ベイがナイル川のほとりにいてラクダに水を飲ませているのを知り、行軍を急いだ。
斥候たちはすぐにオスマン・ベイ軍を発見し、「ラクダが砂漠に戻っていくのが見え、敵は山のふもとにいて護送隊を守っているようです」とダヴーに報告した。
ダヴー将軍は騎兵隊を2つの縦隊に編成し、後退しているオスマン・ベイ軍に向かって急速に前進した。
しかし突然オスマン・ベイは方向転換し、第15竜騎兵隊の猛烈な銃火のにもかかわらず猛烈な突撃を仕掛けた。
この時オスマン・ベイは冷静に足の遅いラクダは砂漠へ撤退するよう命じていた。
護送隊の撤退の時間を稼ぐために攻撃を仕掛けたのである。
数人のマムルークが倒れ、フランス軍側もフォンテル中隊長がサーベルの一撃で死亡した。
オスマン・ベイは馬を殺され、自身も重傷を負った。
第22騎兵連隊はオスマン・ベイ軍に向かって猛烈に突撃した。
激しい戦いが繰り広げられた。
ダヴーの副官であるモンレジェ(Montleger)は戦闘中に負傷し、馬も殺されたが、マムルークの馬を奪って乱闘から逃れることに成功した。
その後、数的優位にもかかわらずオスマン・ベイ軍は撤退した。
オスマン・ベイはすぐに先行して撤退させていたラクダの元に退却し、その後、紅海方面に撤退した。
オスマン・ベイはそこで軍を養うことはできず、ラディシア方面に戻り、さらにはエドフ近くの左岸にある彼の所有する村まで渡るだろうと推測された。
そのためドゼー将軍は副官クレマンの指揮の下、第21軽騎兵連隊から160人の分遣隊をエル・ラディシア村に派遣した。
ケナの戦い

※1799年2月12日、ケナでの戦闘
ケナ近郊に隠れていたヤンブーのハッサンは、住民から食料を得ることができず、クセイルに戻ることができないでいた。
そして、ヤンブーから来るはずの第2隊の到着までの時間を稼ぐために物資を調達する必要があり、ケナのフランス軍駐屯地を襲撃する計画を立案していた。
2月12日午後11時、ヤンブーのハッサンはヤンブー守備隊と農民の群れを率いてケナ周辺にあるすべてのフランス軍駐屯地を同時に攻撃した。
コンルー旅団は武装するとすぐにヤンブーのハッサン軍に向かって進軍し、四方八方から押し寄せる敵を倒した。
若いコンルー大佐は戦線を移動中に槍で頭を殴られ、地面に倒れて意識を失った。
歩兵たちはコンルー大佐の周囲に駆け寄って避難させ、皆で復讐を誓った。
フランス軍は攻撃に対して活発に防御したため、ヤンブーのハッサン軍は一時的な退却を余儀なくされた。
ヤンブーのハッサンはフランス軍に夜襲を仕掛けようと時を待っていた。
夜はとても暗く、月明りで出発できる時を見定めていた。
しかし大隊長ドルセンヌは油断せず、最大の注意を払っていつでも戦闘を再開できる準備を整えていた。
夜闇が周囲を覆いつくした頃、ヤンブーのハッサン軍は群れを成してフランス軍駐屯地に現れ、恐ろしい叫び声を上げて激しく突撃した。
しかし非常に激しい一斉射撃に迎られたためすぐに完全な敗走に陥った。
ドルセンヌはすぐに敗走するヤンブーのハッサン軍を追跡した。
何時間も追跡し、その途中、200~300人の不運な兵士が ヤシの木の囲いの中に入り、抵抗を続けた。
大隊長ドルセンヌが半個大隊の銃撃を彼らに向けていたにもかかわらず、最後の一兵まで自らを守り続けた。
ケネの戦いの後、ヤンブーのハッサン軍はアブー・マンナ(Abou Manna)の砂漠に撤退した。
※ アブー・マンナ(Abou Manna)はFélix Martha-Beke著「Le général Desaix: étude historique」にはアブーマナー(Aboumanah)と書かれている。アブー・マンナ(Abou Manna)は、アブーマナー(Aboumanah)の2つの候補地の1つであり、もう1つはハウ(Haw)の北東にあったアブー・マラー(Abou Marrah)である。アブー・マラーは山とナイル川が接近している場所にあり砂漠は山の上となるため、アブー・マンナの方が可能性が高いだろう。
ケナの戦いにおけるのヤンブーのハッサン軍の損失は300人以上の死者と推定され、フランス軍の負傷者は大隊長ドルセンヌ含む3人のみだったと言われている。
フリアン将軍は第7軽騎兵隊を率いてケナに急行したが、到着したのはこの戦闘から数時間後だった。
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