シリア戦役 17:迷子のクレベール将軍とナポレオンの危機
General Kleber has lost his way
ナポレオンの本部とアブドラ・パシャ軍の遭遇とズウェイドへの速やかな撤退

※1799年2月23日、シリア戦役でのナポレオン最大の危機
フランス軍の前衛を指揮していたクレベール将軍は自師団とミュラ騎兵隊を率いて2月22日の夜明け前に出発し、エル・アリシュから約20㎞のところにあるズウェイド(Zuweid)の井戸で眠り、翌日にエル・アリシュの北東約56㎞のところにあるハーン・ユーニスに到着する予定となっていた。
そして可能であれば、ハーン・ユーニスの前哨基地を攻撃するよう命令を受けていた。
1799年2月23日午後1時、ボナパルトはヒトコブラクダ兵100騎と騎兵200騎を率いてエル・アリシュを出発した。
ボナパルトは早足で行進し、カルーブ(Karoub)のサントン(Santon)に到着したクレベール師団と合流する予定だった。
しかし、クレベール師団を探したにもかかわらず発見することができず、アラブ人が小麦や野菜を埋める多数の穴を見つけただけだった。
ボナパルト一行はズウェイドの井戸に到着したが、そこでもクレベール師団の痕跡は何も見つからなかった。
だが、気候は涼しく、砂漠では兵士たちがより良い土地に到達するために行軍速度を倍にすることを好むことがよくあったため気にすることはなかった。
一行がラファ(Rafah)の井戸に着いたとき、太陽は沈みつつあった。
しかし、そこでもクレベール師団の痕跡は発見されなかった。
ボナパルトは遂にハーン・ユーニスの向かいの高地に到着した。
まだ少し明るかったため、たくさんのテントが見え、その後ろには村があった。
しかしその陣地はクレベール師団の陣地としては大き過ぎるように思えた。
数分後、護衛の哨戒騎兵がアブドラ・パシャ軍の歩哨に向けてライフル銃を数発発砲した。
1人の騎兵がボナパルトの元に全速力で到着し、イブラヒム・ベイのマムルーク軍と射撃戦をしていると警告した。
その騎兵によるとかなり大規模な陣地が武器を手に取り、騎兵隊が馬に乗っているのが見えたという。
「前衛(クレベール師団)はいったいどうなったのか?」という疑問がボナパルトと側近たちの頭を駆け巡った。
周囲にボン師団もランヌ師団もクレベール師団もおらず、ヒトコブラクダ兵100騎と騎兵200騎の本部のみであり、このままでは圧倒的多数のアブドラ・パシャ軍に踏みつぶされてしまうことは明らかだった。
しかも、この時のボナパルト一行は午後1時から日が沈むまでの数時間、約48㎞もの道程を早足で行軍していたため、ヒトコブラクダや馬は非常に疲れていた。
それに対してアブドラ・パシャ軍の馬は全く疲れていないと考えられたため、ボナパルトは速やかに撤退することを決断した。
ラファの井戸はハーン・ユーニスから近すぎたため通り過ぎ、ボナパルト一行は夜11時にズウェイドの井戸に到着した。
海沿いや砂漠を旅した一行だったが、何の知らせももたらされなかった。
一方、ボナパルトを追跡していたアブドラ・パシャは全騎兵を自ら率いてラファまで進軍したが、夜の闇の中で待ち伏せに遭うことを恐れて追跡を停止した。
もしかしたらワディ・アル・アリシュの戦いでのレイニエ師団による夜襲がアブドラ・パシャの頭をよぎったのかもしれない。
これが朝や昼の明るい時間帯だったらフランスの総司令官が捕虜となっていた可能性は高かっただろう。
ボナパルトは夜の闇に救われたのである。
迷子のクレベール将軍
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※「ジャン・バティスト・クレベール将軍(General Jean Baptiste Kleber)」。ジャン=ユルバン・ゲラン(Jean-Urbain Guérin)画。日付不明。
2月24日午前3時過ぎ、ガイエン(Gaïan)から戻ったヒトコブラクダ兵12騎が、小さな小屋でラクダの群れとともにいるアラブ人を発見してボナパルトの元に連れてきた。
彼によると、フランス軍は、エル・アリシュから12㎞離れたところでシリアへの道を離れ、標識のあるルートをたどり、カラク(Karak)への道の途上にあるガイエンに向かっていたという。

※クレベール将軍が迷子になったところの周辺地図。1800年代初頭。
※カラク(Karak)は死海の南方にあった街。ガイエン(Gaïan)はワディ・アル・アリシュの支流沿いにあるガイエン(Gayan)村だろうと考えられる。
ボナパルトはこのアラブ人の案内ですぐにズウェイドを出発した。
24日夜明け、サントンに到着したボナパルトはクレベール師団の3、4人の竜騎兵と出会い、状況を聞いた。
竜騎兵たちによると、クレベールは道に迷い、間違いに気づかずに15時間歩いていた。
しかし、22日午後5時、エル・アリシュの人々が野菜を保存している穴があるはずだと言っていたカルーブのサントンが見つからなかったことに疑問を感じた数人の兵士が上官たちに報告し、上官たちはクレベールに報告した。
クレベールはすぐに自分の位置を確認し、道に迷ったことに気付いた。
兵士達はひどく落胆して武器に八つ当たりし、多くの兵がライフルを壊してしまった。
師団の後ろには水を積んだラクダが数頭いるだけであり、このまま進んだ場合、干からびて死ぬ運命が待っていただろう。
クレベールはスープを作り、その後すぐに月が昇ると再び出発し、来た道を戻ってズウェイドの井戸に向かった。
そしてボナパルトが師団のすぐ後を追ってハーン・ユーニスに向かっていることを知っていたため、とても心配した。
師団は、一滴の水も得ることができないまま、48時間に及ぶ過酷な行軍を経て、2月24日午前8時にサントンに到着した。
クレベール師団の発見
2月24日朝10時、ボナパルトがクレベールたちの前に現れた。
兵士たちはボナパルトが着ている灰色のオーバーコートに気づくとすぐに、歓喜の叫び声をあげて彼を迎えた。
ボナパルトは師団を鼓舞し、軍隊を統制させ、兵士たちにこう告げた。
「反乱を起こしても諸君らの失敗が解決されるわけではない。最悪の場合、規律を破り無秩序にふけるよりも、頭を砂に埋めて名誉をもって死ぬほうがましだ。」
加えて、ここサントンはズウェイドの井戸からそう遠くないこと、水を積んだラクダがこちらに向かっていることを告げた。
正午、クレベール師団はズウェイドの井戸に到着し始め、同時にエル・アリシュから来たボン師団とランヌ師団、そして予備のラクダもサントンに到着した。
ボナパルトの足跡を辿ったボン師団とランヌ師団は、途中で道に迷いながらもサントンにたどり着くことができた。
行方不明になったのは、渇きで死んだか道に迷ってはぐれた5人だけだった。
命令では、順番に到着するはずだったこの3つの師団は、サントンでほぼ同時に遭遇した。
※クレベール師団の最後の縦隊はまだサントンにいた。
サントンの人口が急速に増加したため、このままでは井戸はすぐに枯れてしまうことが目に見えていた。
水を得るために地面を掘ったが、苦労の割に水量が少なかったため、この努力は焼け石に水となった。
ボナパルトはランヌ師団を前衛として主力軍とともにすぐにサントンを出発し、ハーン・ユーニスに向かった。
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