シリア戦役 27:アッコ要塞の包囲
Siege of Acre Fortress
アッコ要塞の詳細

※1799年のアッコ要塞見取り図
アッコ要塞は5角形をしており、3つの面は海に面し、他の2つの面は城壁で囲まれていた。
東側城壁は約300mほどであり、城壁の前後両面にはそれぞれ5つの小さな塔が並んでいた。
北側城壁は約500mほどであり、城壁の前後両面にはそれぞれ7つの小さな塔が並び、中心近くには城塞であるジェザル・アフマド・パシャの宮殿があった。
※ジェザル・アフマド・パシャの宮殿は12世紀に建てられた聖ヨハネ騎士団の要塞を基礎としている。1291年、マムルーク朝にアッコを奪われた聖ヨハネ騎士団はキプロス島に逃れ、その後、さらにロードス島(14世紀)、シチリア島(16世紀)へと逃れることを余儀なくされ、教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借り受けることになり、1798年にナポレオンにマルタを占領されることとなる。
そして東側城壁と北側城壁の交わる角は鋭角となっており、その頂上には街とすべての城壁を見下ろす大きな古い塔があった。
海に面した東側の突堤の先には灯台が建つ小島があった。
長さ約12㎞のカブリ(Kabri)水道橋は城壁の角に建つ大きな古い塔の近くから街に入って来ており、山の裾野にあるカブリから平野を通ってアッコの貯水槽に水を運んでいた。
17世紀後半のアッコはフランスの隊商宿といくつかの貧しい小屋を除いては廃墟となっていた。
その後、ダヘル・アル・ウマルによって修復されて繁栄し、城壁も修復された。
1775年にダヘル・アル・ウマルがオスマン帝国の攻撃によって城壁の外で死亡した後、ジェザル・アフマド・パシャが後継者となった。
ジェザル・アフマド・パシャは城壁をさらに強化し、美しいモスク(アル・ジェザル・モスク)と美しい市場(ハーン・アル・ウムダン)を建設して繁栄させた。
アッコを繁栄に導いた主な資金源は重い関税だったと言われている。
アッコ要塞の包囲

※1799年3月、アッコ要塞包囲計画図。アッコ要塞外に描かれた塹壕線はほぼ正確だろうと考えられるが、その背後の軍の配置はおおよそだろう。
1799年3月19日午前8時、フランス軍はベルス川を渡り、半島に位置し城壁で蓋をされているアッコの街を見下ろすトゥロンの丘に陣取った。
海に囲まれた半島であるアッコの街を見下ろすと街の陸側を包み込むように逆L字型の城壁がそびえ立ち、その前の掘と廃墟には守備隊が配置され、フランス軍に対抗する準備が整えられていた。
フランス軍は右翼をクレベール師団、中央をボン師団及びランヌ師団の一部、左翼をレイニエ師団とし、アッコの陸側を包囲する陣形を取った。
ボン師団とランヌ師団の一部の間にあるボナパルトの本部は、水道橋を背にし、大きな倉庫の向かい側に設営された。
この倉庫は各師団への物資供給所として利用された。
モスクの山の麓でベルス川のほとりには大きな邸宅があり、ボナパルトはそこに救護所を設置した。
アッコとティベリアス湖の間、レバノンの南部からナザレ周辺地域に広がるガリラヤ山脈は木々で覆われていた。
ボナパルトはアッコ包囲のためにすべての山道を塹壕と伐採地で塞ぎ、ベルス川に監視塔が付いた3つの橋を架けた。
フランス軍以外の者は誰も陣地に入れないようにしたのである。
陣地の周辺には、牧草地、小麦畑、庭園、果樹園、森、水、製粉所など包囲戦に必要なあらゆるものが揃っており、護衛騎兵と哨兵が各出入口を警備していた。
カイロを出発して以来パンを口にしていなかった兵士達はパンが食べられると喜んだと言われている。
ツファットの行政長シェイク・アッバース・ダヘルの協力の申し出
包囲を担当するレイニエ師団と城壁の外側の廃墟に陣取ったアッコ守備隊との間で激しい銃撃と砲撃が行われていたが、守備隊は城壁の内側に戻ることを望まなかった。
フランス軍は東側城壁では優勢に戦局を運んでいたが、北側城壁への接近は撃退されつつあった。
そのとき、預言者の山の側に300人から400人の騎兵の集団が見えた。
※預言者の山とはトゥロン丘陵の東に位置する山
それはシェイク・アッバース・エル・ダヘル(Daher)であり、フランス軍がアッコの前に到着する瞬間を2日間シェファ・アムルで待ち続けていた。
ダヘルはオスマン帝国との戦いに敗れて失ったツファット(Safed)の支配権と財産を取り戻す代わりにフランス軍への支援を申し出るつもりだったのである。
午前10時、ダヘルはトゥロン丘陵南のモスクの山の頂上でナポレオンの面前に出向き、ツファット州の指揮官に任命された証としてペリセ(毛皮で縁取られた短いケープ)を着せられた。
ダヘルが宣誓している時、砲弾が至近に飛来して彼の10歩後ろにいた馬を吹き飛ばした。
この王子は2日間野営地に留まり、オスマン帝国とジェザル・アフマド・パシャに奪われた父ダヘル・アル・ウマル(Daher al-Umar)の相続財産の所有権を回復するという約束を受けた。
ハイファ港の防衛強化
3月19日夜、ランバート騎兵大尉はハイファの指揮を執るために本体を離れた。
ランバート大尉の任務は重要だった。
シドニー・スミス将軍率いる戦列艦がアッコに帰還した後、ハイファ港を海上封鎖をするか、もしくは部隊を率いてハイファへの上陸作戦を決行してくる可能性があった。
アッコから見ると僅か10㎞ほどしか離れていないところにフランス軍に占領された港があるのは危険でしかなく、ボナパルトはその視点を持っていた。
そのためランバート大尉はハイファに大砲を輸送する任務を負ったドマルタン砲兵少将と至急合う必要があった。
もし上陸部隊の数があまりにも優勢な場合で有利に撃退するための手段が無いと判断した場合、ハイファの街を見下ろす砦まで慎重に撤退することも想定された。
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