シリア戦役 05:ナポレオンのスエズ視察と第二次対仏大同盟の結成
Formation of the Second Coalition

カティア占領命令

 1798年12月23日、ボナパルトはレイニエ将軍に、ラグランジュ将軍にカティア(Katia)へ進軍して砦を築き、海岸まで偵察するよう命じた。

 カティアはペルシウムの南東約20㎞、エル・サルヘイヤの北東約70㎞、エル・アリシュの西約100㎞の位置にある地域である。

 これまでフランス軍はシナイ半島に侵入することなく防御陣地を築いていたが、エル・アリシュのイブラヒム・ベイに対応するためにカティアを占領することを決定したのである。

 もしジェザル・アフマド・パシャやイブラヒム・ベイがエジプトに侵攻してきた場合、カティアは防御の最前線となり、もしフランス軍がシリアへ侵攻する場合、最前線の兵站拠点となるのである。

オスマン帝国とロシアの同盟の締結

 ボナパルトがカティア占領を命じている頃、ロシアはオスマン帝国との同盟を締結していた。

 イギリスはロシアと正式ではないものの11月下旬の段階で仮の同盟関係にあり(ロシアとの同盟締結は12月26日)、オーストリアとは正式な同盟の締結はできなかったものの共同歩調を取ることを確認していた。

 オーストリアとしてはイタリア戦役でボナパルト将軍に大敗北を喫していたが、そのボナパルト将軍はエジプトに閉じ込められていた。

 加えて大国ロシアが同盟国となっており、オーストリアにとってはフランスにイタリア戦役の雪辱を果たす好機のように見えた。

 トルコの港と海峡はロシアの船舶に開放され、ロシアの艦隊がフランスが占領しているイオニア諸島の島を占領するために海峡を通過した。

 ロシア艦隊は黒海からボスポラス海峡を通ってマルマラ海に出て、マルマラ海からダーダネルス海峡を通ってエーゲ海に出た。

 これはコルフ島やイタリア半島への連絡が遮断されることを意味していた。

 これによりエジプトとフランス本国間の連絡はほぼ傍受されてしまう危険な状況となった。

ナポレオンのスエズへの旅

 12月24日午前8時、ボナパルトはカイロを出発し、歩兵200人、騎兵100騎とともにビルケト・エル・ハギーに向かった。

 ビルケト・エル・ハギーからボン師団がすでに占領しているスエズへ行くためには2つのルートが考えられた。

 1つ目は水の無い砂漠地帯を通る約105㎞の最短ルート(ボン師団と同じルート)、2つ目は井戸のある谷底を通ってヒエラポリス(現在のイスマリア)方面に向かい、その後南下してティムサーハ湖畔とグレートビター湖畔を通ってスエズへ向かう約135㎞のルートである。

 ボナパルトは速さが重要であることを分かっており、愛人となったポーリーヌに将軍の服を着せて同行させているにもかかわらず1つ目の過酷な最短ルートを選んだ。

 ボナパルトとしては、数日スエズを視察して指示した後、エル・サルヘイヤとベルベイスの視察に赴く予定だった。

 ジェザル・アフマド・パシャの動きがきな臭くなってきていたため、エル・サルヘイヤとベルベイスの要塞建設の進捗やレイニエ師団状況を見る必要があったのである。

 ただ、状況によっては視察を取りやめることも考えていた。

 26日夜、ボナパルトはカイロから約180㎞の距離を2.5日かけて走破してスエズに到着した。

 1日当たり約72㎞移動したことになる。

 ボナパルトは移動の間、書簡も出さず、ただひたすらスエズに向かって馬を走らせ続けたのである。

 そして翌27日、スエズの海岸と都市を確認し、都市の防衛に必要な工事と要塞化を指示した。

 スエズの倉庫を視察すると、この都市が貿易の中継地であったことを示していた。

 しかしスエズ港は干潮時に陸地となるところが多いため小型船しか入港できず、フリゲート艦などの大型船は2㎞ほど突き出た砂地の近くに停泊することになると考えられた。

 この地点に砲台を建設すれば、停泊地を保護し、港を防衛することも可能だった。

ナポリ戦役

 ラツィオ州から追い出されたナポリ王国軍はローマ共和国軍指揮官シャンピオンネ将軍の逆侵攻を受けていた。

 その後、いくつかの戦いで敗北し、12月23日、ナポリ国王フェルデナンド1世はネルソンとともにパレルモへの撤退を余儀なくされた。

 フェルデナンド1世一行は激しい暴風雨の中を航行し、 12月26日にシチリア島のパレルモに到着した。

 フェルデナンド1世がシチリアへ逃れたことによりナポリ本国は指導者不在となり、フランス軍の侵攻を抑えられるかどうかは民衆の手に委ねられた。

ナポレオンによるモーセの泉への視察

モーセの泉の位置

※モーセの泉の位置

 12月28日、ボナパルトはスエズ近くの干潮時にのみ通行可能な浅瀬を通って紅海を渡った。

※モーセが紅海を割ったという伝承はナポレオンが渡ったスエズ近くの干潮時にのみ通行可能な浅瀬なのかもしれない。

 そしてスエズから3リーグ半(約14㎞)離れたアジアにあるモーセの泉(`Eyun Musa)に向かった。

※伝承によるとモーセの泉は、モーセが神の命に従って特別な木を投げ入れて飲める水に変えた場所であり、妻チッポラと出会った場所でもある。

 1798年当時、そこには5つの泉が小さな砂の山の上から湧き出るように噴出しており、水は軟水で塩辛かったと言われている。

 海岸に掘られた貯水槽にこの水を運んだ近代的な小さな水道橋の遺跡があり、貯水槽はモーセの泉から3/4リーグ(約3㎞)離れていた。

 帰途に就いたボナパルト達一行だったが、海面の上昇により浅瀬は深くなっており、紅海の先端まで戻らざるを得ず、ガイドは沼地のようになった浅瀬だった場所でボナパルトを見失ってしまっていた。

 この時、ボナパルトは腰まで水に浸かり沼の底に沈もうとしているところだった。

 しかし必死の努力の末になんとか脱出し、夕方にはスエズに戻ることができた。

 その後、ボナパルトはスエズを貿易港として過去の栄光を取り戻させる施策を指示した。

第二次対仏大同盟の結成

第二次対仏大同盟の結成

※第二次対仏大同盟の結成

 12月29日、イギリス、ロシア、ナポリ王国の間で同盟が締結された。

 ロシアはオーストリア軍と協力してフランスに対して大規模な軍を派遣することに合意し、不敗の名将スヴォーロフ(Alexandre Souvorov)元帥をイタリアに、コルサコフ(Alexandre Rimski-Korsakov)将軍をスイスに、ヘルマン(Johann Hermann von Fersen)将軍およびエッセン(Ivan Nikolaïevitch Essen)将軍をオランダに向かわせることとなった。

 対仏大同盟側としてはプロイセンの参加も望んでいたが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は内政に重きを置いて中立を貫き、フランスと敵対することを避けた。

 この時点までにオーストリアはロシア軍に領土の通行許可を出しており、大規模な連合軍がフランスの姉妹国家を襲うことが計画された。

 第一次対仏大同盟はナポレオン・ボナパルト将軍によって1か国1か国切り離されて解体を余儀なくされたが、今回はイギリスとオーストリア、ナポリに加えて大国ロシアも参加し、兵力的に大きくフランス軍を上回ることが予想された。

 ナポリ王国はすでに敗北していたが、シチリアで反攻の準備を行なっていた。

 エジプト側ではイギリス及びロシアとオスマン帝国との正式な同盟の締結が間近に迫っており、オスマン帝国はイギリスとともにエジプトへ攻め込むことを決定していた。

 この時、エジプトは孤立しオスマン帝国という大きな脅威に晒されようとしていたが、フランス本国とその姉妹国家はオーストリアとロシアという2大強国との敵対という、より大きな脅威に晒されようとしていた。

 そして海はほぼイギリスによって支配されていたため、フランスの命運は風前の灯火であるかのように見えた。

ポーリーヌの夫であるフーレス中尉のエジプトからの旅立ちと帰還

 ナポレオンが紅海を渡ってモーセの泉への視察を行った日、ナポレオンの愛人となったポーリーヌの夫であるフーレス中尉は総裁政府宛の書簡を持ってシャスール号に乗り込み、エジプトを離れた。

 しかしフーレス中尉が乗船しているシャスール号はすぐにイギリスのフリゲート艦「ライオン(Lion)」に拿捕された。

 総裁政府宛の書簡は押収され、フーレス中尉は尋問を受けた。

 ライオンの艦長は総裁政府宛の書簡を読んだが、その内容はまったく重要ではないようなことだった。

 そのためフーレス中尉が何か重要な伝言での報告を命じられたのではないかと疑った。

 しかし、どんなに尋問しても何も答えることができなかったため、フーレス中尉はエジプトに送り返されることとなった。

 フーレス中尉はアレクサンドリアの近くに上陸し、すぐにアレクサンドリアへ向かい、そこの指揮官であるマルモンに報告した。

 そしてカイロへの帰還の許可をもらった。

ポーリーヌ・フーレスの正式な離婚

 1799年1月8日、妻が待っているはずのカイロの家に戻ったフーレス中尉だったが、家には誰もいなかった。

 フーレス中尉は同僚から妻の居場所を聞くとすぐにエズベキエ広場の別邸に向かった。

 そして邸宅にいたポーリーヌを見つけ、激怒した。

 フーレス中尉は共に家に戻るよう言ったが、ポーリーヌは静かに拒否し、離婚したいと伝えた。

 フーレスは再度ポーリーヌに戻ってくるよう言ったが、断られたため怒りを抑えることができず、彼女を殴りつけた。

 その後、騒ぎを聞きつけた警備隊に制止された。

 数日後、ポーリーヌはフーレス中尉との離婚を正式に申請した。

 理由は暴力から身を守るためというものだったと言われている。

 離婚は受け入れられ、これによりポーリーヌはナポレオンの正式な愛妾となった。

 しかし、ナポレオンの義理の息子であるウジェーヌ・ボアルネだけは個人的にナポレオンを非難した。

参考資料

・Frédéric Masson著「Napoleon et les femmes」(1894)