シリア戦役 07:ムラード・ベイの計画とアシュート州での反乱
Rebellion in Asyut province

ムラード・ベイの反撃

1798年12月末頃、ムラード・ベイの計略によるアシュートとの連絡線の遮断

※1798年12月末頃、ムラード・ベイの計略によるアシュートとの連絡線の遮断

 ギルガはかつてムラード・ベイが圧倒的多数のオスマン帝国軍を打ち破った栄光の地だった。

 これより先はオスマン帝国ですら足を踏み入れることを恐れたテーバイド(Thébaïde)と呼ばれる地域であり、ムラード・ベイはオスマン帝国と同様にフランス軍もこの人里離れた地域に踏み込む勇気はないだろうと考えていた。

※テーバイド(Thébaïde)の範囲については所説あるが、ここで言うテーバイドはアビドス(Abydos)からアスワンまでの地域のこと。

 しかし、もしフランス軍がテーバイドに足を踏み入れた場合、ムラード・ベイ軍は後退を余儀なくされ、ベドウィンが住む砂漠以外に避難する場所がなくなるだろうと予想された。

 実際、ドゼー師団の目的はムラード・ベイを滅ぼすか、もしくはエジプトから追い出すことだったため、ムラード・ベイの恐れは正しいものだった。

 そこへフランスの艦隊が約80㎞後方で逆風に遭い足止めされているという情報が舞い込んできた。

 ギルガの80㎞後方というとアシュートとタハタ(Tahta)の間である。

 ムラード・ベイは、もしこのフランスの艦隊が焼失すればドゼー師団の進軍は失敗に終わるか長期間延期されることになるだろうと考えた。

 ムラード・ベイはオスマン・ベイにこの計画を託し、300騎のマムルーク騎兵を与えて出発させた。

 オスマン・ベイは発見されるのを避けるために迂回し、フランス軍の後方に出るために砂漠に入った。

 その後、オスマン・ベイはドゼー師団の後方に出ることに成功した。

 そして住民たちを奮い立たせ、フランスの船団から莫大な富が見つかるだろうと彼らを活気づけた。

 1798年12月31日、ナイル川と紅海を隔てるコルズム(Colzoum)山脈の急斜面に散在するアラブの部族(ベドウィン)は槍を掴み、フェラ族の多数の集団がアシュート州を脅かした。

※コルズム山脈とはコルト・ウム(Qalt Umm)の山々のことだと考えられる。コルト・ウムからナイル川までは約160㎞の距離がある。コルト・ウムは紅海西岸から約55㎞西に位置する山々の総称である。

 これによりアシュートとギルガの間の連絡線は遮断された。

ソハーグでの戦闘

1799年1月3日、ソハーグでの戦闘

※1799年1月3日、ソハーグでの戦闘

 1799年1月1日、ドゼーの元にソハーグで大規模な反乱が形成されつつあるという報告が届けられた。

 アシュート州での反乱はドゼーを極度の不安に陥れた。

 もし艦隊を失った場合、ドゼー師団は上エジプト全域からの撤退を余儀なくされてしまう状況に直面したのである。

 ドゼーは「ギルガを放棄して自らナイル川を下り船の砲火の下で師団を動かすべきかどうか」を熟考した。

 もし師団がギルガから後退した場合、ムラード・ベイがそれを追跡し、反乱を激化させるだろうと予想された。

 そして、民衆たちを従順に保ち、税金などで必要な軍資金を支障なく集めるためには反乱に迅速に対応し、恐ろしい見せしめを行なうことが重要だった。

 ドゼー将軍は師団をギルガに残すことを決断し、騎兵1,200騎と大砲6門を擁するダヴー騎兵隊を最初に反乱が起きたソハーグ(Sohag)に派遣し、カイロとの連絡を再確立するよう命じた。

※ソハーグ(Sohag)はナポレオンの回想録にはサワキ(Saouaki)と記述されており、「ドゼー将軍に関する歴史研究」にはソワギ(Souagui)と記述されている。ソハーグはサワキ(Sawaqi)とも呼ばれていたため、ナポレオンの回想録に記述されていたサワキ(Saouaki)はソハーグのことだと考えられる。そしてソハーグはギルガとタハタの間にあるため位置的にも合致する。

 ギルガからソハーグまではの距離は約30㎞だった。

 1月3日、ダヴー将軍はソハーグの門の前に到着した。

 数千の武装した男たちがバリケードで封鎖した大通りを守っていた。

 ダヴーはただちに戦闘隊形を編成し、第7騎兵と第22騎兵からなる前衛に猛烈な突撃を命じた。

 1時間の戦いの後、ソハーグの反乱軍はこの騎兵突撃の衝撃に耐えられず、フランス騎兵隊は反乱軍の戦線を突破し、その大部分をナイル川に追い込み、300人を殺し、バリケードを破壊し、住民の武装を解除し、周囲の村をすべて制圧した。

タハタでの戦闘

1799年1月8日、タハタでの戦闘

※1799年1月8日、タハタでの戦闘

 ダヴー将軍は戦後処理を行なった後にギルガに戻ったが、すぐにドゼー将軍からソハーグよりもはるかに大規模な集会がアシュートから数リーグ離れたところで行なわれていることを知らされた。

 この集会は農民で構成されており、そのほとんどは周辺の州から来ていた。

 確かな知らせは未だ無かったが、艦隊の遅れはドゼー将軍にとって大きな懸念材料だった。

 ドゼーはダヴー将軍に騎兵隊を率いて反乱を鎮圧し、恐ろしい手法で反乱軍を取り締まるよう命じた。

 ダヴー将軍はすぐにソハーグから約30㎞北に位置するタハタに向かい、1月8日に到着した。

 いくつかの予備的な準備の後、ダヴーはタハタへの攻撃を開始した。

 バリケードを破壊し、守備兵の一部を川に追い込み、その多くが殺害された。

 この間、ダヴー将軍はアラブ人とマムルーク人の1,000人の部隊に後衛を攻撃された。

 ダヴー将軍は即座に部隊を編成して向きを変え、彼らを追い払った。

 そして数日かけてアシュート州のすべての村の武装解除と制圧を行い、アシュートの近くで艦隊を発見し、連絡を再確立した。

 1月17日、艦隊は良い北風を利用して師団野営地の左にあるギルガに停泊した。

 これによりドゼーは不安から解放され、上エジプト征服を続行することが可能となった。

 しかし、その代償としてドゼーは18日間を失い、戦いで失われた時間は取り返しのつかないものとなった。