シリア戦役 11:ドゼー師団によるアスワンへの追跡行
Pursuit to Aswan by the Desaix Division

ドゼー師団のアスワンへの接近

1799年1月27日~2月1日、ドゼー師団のアスワンへの接近

※1799年1月27日~2月1日、ドゼー師団のアスワンへの接近

 1月27日日の出前、ドゼー師団は急いでムラード・ベイを追跡するためにエドフを出発した。

 その後、師団はナイル川左岸に隣接する丘陵地帯を苦労して通過し、古代ローマの街道の跡を辿り、名前の美しい島(現在のアル・マンスーレイヤ(Al Mansoureyah)島)が向かいにあるビンバン(Bimban)村で眠った。

 軍服はボロボロとなり、隊列の中では陽気さ以外の感情は起こさなかった。

 ぼろぼろになった靴は麻布や布切れに置き換えられ、兵士たちはそれを足に巻き付けていた。

 砂漠の恐ろしい乾燥した高温風(カムシン)は時には火の旋風を巻き起こし、熱波は酷く、兵士たちの疲労も限界に達しようとしていた。

 ハイエナやナイル川の両生類(ワニなど)は、不吉な鳴き声を上げながら、一部は水中に、他の一部は岩の洞窟の中に姿を消した。

 こうしてフランス軍は鉄鎖峠を越え、2月1日、地中海から800km以上離れたローマ帝国の端、エジプトとヌビアの国境に位置するアスワンの対岸に到達した。

ムラード・ベイのエジプトからの脱出の決断

 ムラード・ベイ、ハッサン・ベイ、ソリマン・ベイ、その他数人のベイは、素早過ぎるドゼー師団から逃れるのに精一杯だった。

 軍は疲労困憊で戦闘ができる状態ではなく、脱走兵は日に日に増え、馬や馬車の多くを失い、多くの荷物を置き去りにしたにもかかわらず、ドゼー師団がすぐそこにまで迫っていた。

 ムラード・ベイはアスワンの対岸から4日かけて滝(ナイルの急流)の上にあるバラブラス(Barâbras)族の国に向かうことを決意した。

ドゼー師団のアスワンの占領

1809年のアスワン周辺地図

※1809年のアスワン周辺地図。1905年のアスワン・ロウ・ダムや1970年のアスワン・ハイ・ダムが建設される以前のアスワン周辺地図であるため、島の数や形が現在とは大きく異なっている。

 アスワンにはローマ軍が滞在した痕跡がまだ残っていた。

 要塞と鋸壁の備わっている城壁がアラブの都市を囲んでいた。

 2月3日、ドゼー将軍はナイル川左岸を離れ、川幅が約800mあるナイル川を渡り、右岸側にあるアスワンを占領した。

 対するムラード・ベイ軍は一貫してナイル川左岸側にいた。

 左岸側の方が谷底が広く、肥沃でオアシスへ撤退することもできるからであり、もし右岸側に渡った場合、撤退する場所は紅海側しかなくなってしまうのである。

 ドゼー将軍はすぐに"熱帯の庭園"という愛称を持ち地元の住民から"花の島"と呼ばれるエレファンティネ島を経由してアスワンを占領した。

 そしてアスワンを占領したことを知らせる書簡を船に乗せ、カイロに送った。

 ドゼー師団の次の目標は滝の上のイシス神殿やオシリスの墓のある神聖な島フィラエ島だった。

 フィラエ島はビゲ(Bigeh)島の東にあり、たどり着くのは困難であると思われていたためアスワンの周辺住民は食糧や財産を持って避難していた。

 しかしムラード・ベイの視点では、もしこのままフィラエ島を占領されてしまった場合、フランス軍はその後、ビゲ島とヘイサ(Heisa)島に渡るだろうことが目に見えており、ヌビアへの退路を遮断されてしまう可能性があった。

 フランス軍の行軍速度は迅速であり、撤退に時間をかけることはできないと考えられた。

 そのため滝の上まで運びきれなかった財産を乗せた船を滝のふもとに放置し、急いでヌビアへ向かって逃亡した。

 ムラード・ベイとしては艦隊を連れて行きたかったが、ナイル川の水位が低過ぎたため滝を昇ることができなかったのである。

エルフィ・ベイの策動とドゼー将軍のアスワンへの帰還

アフミーム周辺地域

※アフミーム周辺地域

 2月4日、ドゼー将軍は300人の兵士を率いて出発し、放棄されたムラード・ベイの艦隊150隻を捕獲し、花崗岩の道を進み始めた。

 しかしフランスの船も滝を昇ることができず、いかだを作るのに数日を要したため、ドゼー将軍はフィラエ島に渡ることを諦め、この神秘的なフィラエ島を東岸から見ることしかできなかった。

 そこへマムルークの脱走兵であるランクレット(Lancret)がドゼーの元を訪れ、ムラード・ベイとハッサン・ベイが砂漠の道を通ってヌビアへ撤退している一方で、エルフィ・ベイがアフミームの上のオアシスで兵を募っていると知らせてきた。

 そのためドゼー将軍はフィラエ島の占領をベリヤード将軍に任せ、夜にアスワンへ戻ることを決断した。