シリア戦役 12:エル・アリシュの戦い
Battle of El Arish

フランス軍のエル・アリシュへの進軍

【ナポレオンのシリア遠征】1799年1月22日、シリア遠征隊の進軍計画

※1799年1月22日、シリア遠征隊の進軍計画

 1799年1月21日、クレベール将軍は2月1日にダミエッタを出発し、第18騎兵隊の分遣隊、師団の砲兵隊、第25軽歩兵隊の2個大隊、第20軽歩兵隊の3個大隊を率いて、2月5日か6日にカティアに到着するよう命じられた。

 そしてカティアに到着後すぐにエル・アリシュへ向かうのである。

 クレベール師団はマンザラ湖を経由してペルシウムの近くのティネ(Tinëh)へ行き、そこからカティアに向かうルートを取った。

 レイニエ将軍は参謀をともなって1月23日にベルベイスを出発し、2月3日にエル・サルヘイヤを出発し、5日にカティアに到着してラグランジュ将軍率いる師団前衛と合流する予定となっていた。

 予定通り2月5日にカティアに到着したレイニエ将軍は翌6日にカティアを出発し、エル・アリシュへの道を進んだ。

 この時、エル・アリシュの村と砦はアブドラ・パシャ軍前衛約4,000人(ベルティエの回想録だと2,000人)によって占領されていた。

レイニエ師団のエル・アリシュへの到着

 ラグランジュ将軍は、第85半旅団の2個大隊、第75大隊の1個大隊、及び大砲2門を率いてレイニエ師団の前衛を形成していた。

 2月8日、メソウディアの泉に接近つつある時、ラグランジュ将軍は銃兵に追われているイブラヒム・ベイのマムルーク軍を目撃した。

 エル・アリシュに駐留しているアブドラ・パシャ軍前衛の一部となったイブラヒム・ベイ軍の哨戒部隊に見つかったのである。

 ラグランジュ旅団は哨戒兵を捕らえ、エル・アリシュに非常に多くのアブドラ・パシャ軍の全軍が到着していること知らされた。

 この捕虜の言葉は誇張されたものだったが、これを知ったレイニエ将軍は驚いて急使をヒトコブラクダに乗せて総司令官の元に派遣し、これから直面する危機的な状況を知らせた。

 2月8日夕方、ラグランジュ旅団はエル・アリシュの前(地中海側)のヤシの木立に到着し、その後、翌9日午前8時にレイニエ師団本体がエル・アリシュ前の大砲の射程内に到着し、陣地を構築した。

 レイニエ将軍はラグランジュ将軍からエル・アリシュの状況を聞き、エル・アリシュの村とその南西に位置する砦を観察した。

 長方形の砦は村よりも高い丘の上に建ち、砦をぐるりと囲む城壁の高さはおよそ8mだった。

 砦の北西、南西、南東の3角と北東の角の少し西側に大砲を配備可能な塔があったが、大砲はまだ3門しか配備されておらず、恐らくこれから運び込まれる予定だったのだろうと考えられた。

エル・アリシュ砦の北東の角は村と接しているため塔の場所を西にずらして建てられたのだろう。

 そして北側に正門があり、廃棄物用の門が村と接している東側に位置していた。

 レイニエ将軍は、この砦を落とすためには手持ちの大砲だけでは足りず、後続の大砲の到着を待つ必要があると判断した。

 そのため、まずは防御の堅い砦を封鎖するために砦に隣接している村を占領することを決断した。

エル・アリシュの戦い

【ナポレオンのシリア遠征】1799年2月9日、エル・アリシュの戦い

※1799年2月9日、エル・アリシュの戦い

 2月9日、ラグランジュ将軍はエル・アリシュを見下ろす砂丘へ急いで移動し、旅団に戦闘態勢を取らせた。

 同時にレイニエ師団本体はエル・アリシュの村の正面で戦闘態勢を取った。

 レイニエ将軍が突撃を命じるとラグランジュ旅団は2つに分かれて村の右と左から突進し、レイニエ師団本体も正面から攻撃を開始した。

 イブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍はフランス軍に対して打って出た。

 エル・アリシュ村は段丘の上に位置し、村の南西にある砦によって支援されていた。

 家々は壁に囲まれた石造りでできており、非常に堅固に見えた。

 しかし30分間の砲火と頑強な抵抗にもかかわらず、第85半旅団はエル・アリシュ村を急速に占領した。

 アブドラ・パシャ軍前衛の約2,500人は砦に撤退し、急いで門を封鎖した。

 撤退が遅れ、村に取り残された約500人の兵士が殺害されるか捕虜となった。

※ベルティエの回想録には300人が殺害されるか捕虜となったと書かれている。

 マムルーク軍は撤退し、エル・アリシュから約2㎞離れた、ガザへの道をまたぐ大きな峡谷に覆われた地点に陣取った。

※ガザへの道をまたぐ大きな渓谷は、ナポレオンの回想録にはエジプト渓谷(Ravin de l'Egyptus)と書かれている。エジプト渓谷とはワディ・アル・アリシュ(Wadi Al Arish)のことだと考えられる。"ワディ"とは普段は水が流れていない"涸れ川"という意味である。

 この日の夕方、エル・アリシュ砦はレイニエ師団によって封鎖された。

 レイニエ師団の損害は250人の兵士が死亡または負傷したと言われている。

 この250人という数字はレイニエ師団の1割以上の損害だったため、レイニエ将軍は非難された。

 しかし、実際のところエル・アリシュは防衛拠点として優秀であり、レイニエ将軍の作戦も非難されるようなものではなかった。