シリア戦役 04:ドゼー師団による上エジプト遠征の再開とアシュートの占領
The Desaix Division takes over Asyut

ドゼー将軍のファイユームへの到着とベニ・スエフへの移動

 1798年12月7日、ボナパルトはボアイエ(Boyer)将軍に1個大隊を率いて最短距離を進み、徒歩4日間でファイユームに向かうよう命じた。

 この時ムラード・ベイ軍はファイユーム州を去ってベニ・スエフ州に侵入しており、ドゼー師団とダヴー騎兵隊にムラード・ベイ軍を追跡させつつボアイエ将軍に空白となるファイユーム州を統治させることが目的だった。

 しかし、この時のドゼー将軍状況は州都ファイユームを離れて反乱の旗を掲げた村々の鎮圧に奔走しており、州都ファイユームが脅かされていることを知ったばかりだった。

 ドゼー将軍が州都ファイユームに到着したのは12月10日になってからであり、そこではじめてファイユームの戦いでロビン旅団が勝利したことを知った。

 ドゼー将軍は総司令官からの"ドゼー師団の遅さに対するいらだち"が隠された命令書を読むとすぐにムラード・ベイ軍を追いつつ、州都ベニ・スエフへ向かった。

シドニー・スミス将軍のマルタ沖への到着

ジブラルタルを出発したシドニー・スミス代将とオスマン帝国の動向

※ジブラルタルを出発したシドニー・スミス代将とオスマン帝国の動向

 12月11日、ジブラルタルのジャービス提督よりミラー艦長が指揮する戦列艦テセウスとともにメノルカ島を経由してコンスタンティノープルに向かうよう命じられたシドニー・スミス代将は、マルタ沖でボール艦長と会っていた。

 ナイルの海戦を戦い抜いたテセウスはジブラルタルでの修理により戦闘可能な状態となっていた。

 シドニー・スミスはネルソンに会いたかったが、マルタ沖にもおらず、ボール艦長が言うにはシラクサにも居ないとのことだった。

 そのためネルソンへの書簡を残し、ボール艦長の同意の下でコンスタンティノープルに向かった。

 エジプトとオスマン帝国との通信がイギリス船によって遮られている間に、イギリス国王の全権大使はオスマン帝国と手を結ぶために着々とコンスタンティノープルに接近していた。

 この頃のオスマン帝国はすでにエジプトを取り戻すことを決定し、それに向けての動きを示し始めていた。

 シリア方面への軍の派遣とロードス島への艦隊とエジプト上陸軍の集結を開始した。

 それぞれ約50,000人という大規模な軍の形成が計画されていた。

 これによりフランス東洋軍はエジプトで完全に孤立することとなった。

ドゼー師団の州都ベニ・スエフからの出発

 12月13日、ボアイエ将軍は空白となったファイユームに到着し、ドゼー将軍は15日までにダヴー騎兵隊と合流して州都ベニ・スエフ周辺に合計約4,000人の兵力を集結させた。

 その後、ドゼー師団の後方支援のためにカイロからランヌ旅団所属のヴォー将軍の部隊がベニ・スエフに派遣された。

 これでムラード・ベイを討伐する準備が整った。

 12月16日、ドゼー師団は艦隊をともなってベニ・スエフを出発した。

 ベリアード(Belliard)将軍、フリアン(Friant)将軍、ダヴー(Davoust)将軍、ラサール(Lassalle)将軍、ラ・トゥルヌリー(la Tournerie)将軍はドゼー将軍の指揮下で行進を開始した。

 ドゼーはジョセフ運河左岸にいるムラード・ベイ軍を攻撃するためにジョセフ運河の右岸に沿って陸路を進んだ。

 兵士たちは、自分たちの想像の産物である、金と宝石で覆われたムラードの白いラクダについて話していた。

 トビやハゲワシの群れが軍隊に随伴し、軍隊が停止するたびに上空を旋回して、残された食料を運び去り、時には兵士たちの手からそれを奪い取ることもあった。

 ナイル川周辺は氾濫が収まって川床に戻り、氾濫によってできた運河は干上がり、川沿いには緑の野原が広がり、谷は砂で覆われていた。

 冬の到来を告げるのは夜の涼しさだけだった。

 気温はとても穏やかであり、トウモロコシの穂が見え始め、ヤシの木が村の上に長い葉を広げていた。

 エンドウ豆とソラマメは種をつけ、オレンジの木は花を咲かせていた。

ムラード・ベイの追跡

1798年12月16日~20日、ドゼー師団の州都ベニ・スエフの出発とムラード・ベイ軍の追跡

※1798年12月16日~20日、ドゼー師団の州都ベニ・スエフの出発とムラード・ベイ軍の追跡

 12月17日、ヴォー将軍がドゼー師団と入れ替わるようにベニ・スエフに到着した頃、ドゼー師団はアル・ファシュン(Al Fashn)村に陣地を置いたばかりのムラード・ベイ軍前衛と遭遇した。

 ムラード・ベイ軍前衛はアル・ファシュン村から追われ、ムラード・ベイの野営地にまで後退した。

 ドゼー師団はムラード・ベイ軍を捕捉しようと接近しようとしたが、ムラード・ベイはドゼー師団の接近に応じて後退したため、ムラード・ベイ軍を捕捉することはできなかった。

 ムラード・ベイはしばらくジョセフ運河左岸側の山を進んだが、再び遡上する準備をしていたナイル川に向かって進軍し、19日にミニヤーに到着した。

 ドゼー師団は17日~20日までジョセフ運河の右岸側を進み、20日にムラード・ベイ軍を追跡してミニヤー方面に向かって出発した。

 ドゼー師団の接近を知ったムラード・ベイは20日の日の出とともにミニヤーを離れた。

 この時、ドゼー師団の行軍速度がムラード・ベイの想定よりも迅速だったため、急な後退を余儀なくされ、12インチの青銅製の大砲、12インチの迫撃砲、そして異なる口径の鉄製の大砲15門を積んだ4隻の小帆船を放棄せざるを得なかった。

 ドゼー師団が通過したジョゼフ運河とナイル川との間の地域にはとても多くの村があり、30~40の村が一目で見えるほどだったと言われている。

 ムラード・ベイはベニ・スエフ州とミニヤー州において決戦を回避し、アシュートに撤退して行った。

ドゼー師団によるアシュートの占領

 ドゼー師団はさらにムラード・ベイ軍を追跡し、小規模な襲撃を受けながらも12月20日中に、歩兵をタハ(Taha)に、騎兵をミニヤーに到着させた。

 そしてさらに南下し、マラウィから北東約6㎞程の所に位置するヘルモポリス(現在のエル・アシュムネイン)の遺跡に立ち寄り、古い柱廊玄関の近くで一夜を過ごした。

 ムラード・ベイ軍は廃墟の陰から突然現れて攻撃し、ドゼー師団が反撃に移ろうとすると撤退していくという一撃離脱を繰り返した。

 ドゼー将軍もこれらの奇襲によって命を脅かされたことが何度もあった。

 フランス軍の行軍速度は速いにもかかわらず、ムラード・ベイ軍を捕捉することができなかった。

 ドゼーは砲兵隊と艦隊の動きが遅いことに苛立っていた。

 ムラード・ベイ軍の襲撃に対して砲兵隊と艦隊に師団の支援をさせたかったのである。

 そして12月24日、ようやくアシュートに入った。