シリア戦役 28:アッコ要塞の攻め方の決定と周辺地域住民のフランス軍への協力の申し出
Conquering Acco Fortress: A Strategy Guide

アッコ要塞への最初の偵察

 1799年3月19日夜、ドマルタン砲兵少将とカファレッリ工兵中将、サムソン工兵大佐、ソンギス砲兵大佐はアッコへの最初の偵察を開始した。

 そして翌20日午前2時頃に塹壕の外岸壁を偵察中にサムソン工兵大佐が狙撃され手を貫通する怪我を負うという事件がありながらも20日中までに偵察を完了させた。

 この時のアッコ要塞は稜堡式ではなく、ヤッファと同様に中世からの伝統的な高い城壁型の要塞であり、周囲に堀はあっても堡塁は無かった。

 そのため偵察を行った者たちはヤッファの時と同様にアッコにも容易に侵入できると考えており、城壁を突破するのに12ポンド砲があれば十分だと思っていた。

 しかし攻城計画は慎重に検討され、都市の東側の突出部(城壁の角)の前線を攻撃することが決定された。

東側城壁から主攻を行ない城壁の角から突破を図る理由

1799年のアッコ要塞見取り図

※参考:1799年のアッコ要塞見取り図

 カファレッリ工兵将軍が東側城壁への攻撃を提案したのには3つの理由があった。

 1、少し離れているが、アッコを見下ろすことができるモスクの山があること。

 2、北側城壁にはジェザル・アフマド・パシャの宮殿があり、そこからの砲撃によって北側から接近することが困難であること。

 3、東側城壁への接近が容易だったこと、である。

 しかし城壁を破壊してそこを突破する場合、2つの塔の間を通過しなければならないだろうことが容易に想像できた。

 それは2つの塔からの攻撃を受けるため大きな困難と危険を伴う突破作戦となり、もし身を隠す建物が近くにない場合はより危険度を増すと考えらえた。

 裏を返せば、城壁を突破する場合、城壁に突破口を開けるだけでなく、塔の制圧が重要であり、塔が制圧できれば街への侵入経路は確実に確保できるのである。

 カファレッリ将軍は城壁の角は射角上の弱点となることや、東側城壁の長さは北側城壁の長さの2分の1以下であり北側城壁中央部にはジェザル・アフマド・パシャの宮殿があるため東側からの攻撃は北側よりも弱くなることををこれまでのアッコへの接近で知っていた。

アッコ水道橋(Acre aqueduct)

※アッコ水道橋(Acre aqueduct)。出典:Wikipedia

 次に、カファレッリ工兵将軍が城壁角に建つ大きな古い塔から突破することを提案したのにも3つの理由があった。

 1、海から遠いこと。

 2、最も大きく、最も高く、城壁と都市全体を支配していること。

 3、水道橋を攻撃の手段及び平行線(城壁と平行に掘られた塹壕)の起点として利用できること、である。

 城壁の中で最も堅固な場所であるため、この大きく古い塔の石積み部分を破壊するのは困難だろうと思われていたが、軽砲と言えど12門の大砲があれば突破口を開くには十分であると見積もられた。

 そしてこの堅固な塔を攻略する最も強い動機は、アッコの城壁と都市を支配するこの塔を占領できれば、アッコは自然と陥落すると考えられることだった。

 増援が見込めないフランス軍にとって重要なのは、ただアッコを占領することではなく、兵を失うことなく占領することである。

 もし城壁を突破したとしても石造りの家の中や市街地でジェザル・アフマド・パシャ軍に挑めば、7,000人~8,000人の兵士の命が失われるだろう。

 そのためアッコ要塞東側城壁からの攻撃を決定したのである。

アッコ周辺住民たちの協力の申し出

 3月20日までにランヌ師団本体がアッコ前に到着し、主力軍と合流した。

 アッコ周辺の村々はフランス軍に対して友好的だった。

 村々は主にイスラム教ドゥールズ派の住民で構成されており、その代表団がボナパルトの元を訪れた。

 彼らはジェザル・アフマド・パシャの残忍さに大きな不満を抱いていた。

 ジェザル・アフマド・パシャはレヴァントを支配し繁栄させているものの、その統治はヘロデ王に例えられるほど残酷な人物だった。

※ジェザル・アフマド・パシャの“ジェザル”とは、「肉屋」や「屠殺者」という意味の通り名。

※ヘロデ王は大王と呼ばれるほど優秀な統治者だったが、自らの地位を守るためには身内でも殺害する手段を選ばない人物だった。そして聖書では幼いイエスの命を奪おうとした人物として描かれている。東方の3賢者が「ユダヤの王が生まれた」と言っているのを聞き自らの地位を奪われることを恐れたヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺で産まれた2歳以下の男の子を、1人残さず殺害したと聖書には書かれている。

「鼻のない男たちが大勢集まっている光景は恐ろしいものだった」と後にナポレオンも感想を漏らしている。

 ドゥールズ派の人々はジェザル・アフマド・パシャの敵であり、フランス軍のために食料を運び、ジェザル・アフマド・パシャに対抗するために武装した。

 これを見たボナパルトは、略奪を行った者には銃殺を命じるなど、各師団に周辺のすべての村の人々と財産を尊重し略奪者から保護するよう指示した。

ナザレのキリスト教徒たちの協力の申し出

 ナザレの神父たちは数千人におよぶキリスト教の住民達を引き連れてボナパルトの元を訪れた。

※ナザレはイエスの母マリアの故郷。

 その中にはシェファ・アムルやツファットのキリスト教徒も含まれていた。

 これらのキリスト教徒もまたオスマン帝国から何世紀にも渡る抑圧を受けていた。

 彼らはボナパルトが発した「自分はイスラム教徒の友人である」との宣言文を読んだがこれを称賛し、イスラム教の友人と宣言したことが彼らの心象に何ら影響を与えず、フランス軍にとってマイナスに働くことは無かった。

 ナポレオンは、90歳を超えていた3人のキリスト教指導者にペリセを着せ、その内の101歳の指導者を食事に招いた。

 この老人は聖書から取った言葉を混ぜずして3語も話すことができなかったと言われている。

 これらのキリスト教徒の忠誠心は、軍隊にとって幸運であっても不運であっても変化は無かった。

 彼らの野営地には常に大勢の人がおり、市場は非常に賑わっていて、品物も豊富だった。

 彼らは小麦粉、米、野菜、牛乳、チーズ、家畜、果物、イチジク、レーズン、ワインなどを持ち込み、フランス人自身が行うのと同等の看護を病人に行なった。

ユダヤ人の協力と周辺国との通信の開始

 シリアにはユダヤ人もかなり多く住んでおり、「フランスの総司令官はアッコを占領した後にエルサレムに行き、ソロモン神殿を再建したいと考えている」という噂が広まっていた。

 そのため漠然とした希望がユダヤ人たちを活気づけていた。

 この噂がアッコ要塞内に伝わった時、ユダヤ人であるアッコ守備隊の指揮官ハイム・ファリヒはジェザル・アフマド・パシャを裏切ってフランスに協力しようか悩んだと言われている。

 この時、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教の人々はそれぞれ対立し合うことなく協力してジェザル・アフマド・パシャに対抗しようとしており、フランス軍を歓迎した。

 彼らは使者をダマスカスやアレッポ、さらにはアルメニアに派遣し、フランス軍がシリアに進軍して騒動を引き起こしていると触れ回った。

 これを知ったオスマン帝国が支配している小アジアのいくつかの州は諜報員や書簡を秘密裡にボナパルトの元へ送った。

 そしてボナパルトはテヘラン(現在のイランの首都)を首都としファトフ・アリー・シャーが統治するガージャール朝ペルシャに使者を派遣した。

 アッコを占領した後、兵力を温存しつつダマスカス、アレッポ、小アジア、コンスタンティノープルを征服してボナパルト王国を作り、パリへ帰還するためには小アジアの州長や周辺国との通信は必要だった。