シリア戦役 33:第1次アッコ要塞突入作戦
First Acre Fortress Assault Operation
堀の外縁壁(カウンタースケープ)の地中爆破

※1799年3月28日、第1回アッコ要塞突入作戦
1799年3月28日未明、フランス軍は堀の外縁壁(カウンタースケープ)地下への地雷埋設作業を終え、爆破した。
堀の外縁壁(カウンタースケープ)の状況を観察することはできなかったが、この爆破により堀の外縁壁(カウンタースケープ)の一部が陥没していると予想された。
参謀将校メイリー(Mailly)は作業員5人、工兵10人と歩兵25人を率いて塔からの攻撃から避難するための場所を確保するよう命じられた。
副官のロジェ(Laugier)は800人の兵力で突破口から約30mの地点で水道橋の陰に隠れ、メイリー隊からの合図を受け取ったら突破口へ突入するよう命じられ、ボン師団は予備軍として大隊ごとに縦隊を組んで練兵場に配置され、ロジェ隊を支援してその場所を占領することを命じられていた。
これらのボン師団の大隊は次々に突破口へと突入し、その後、クレベール師団とレイニエ師団の歩兵隊が1人につき1~2束の粗朶や梯子などを持って城壁に向かって行進する計画となっていた。
しかし、この作戦を成功させるには、突破口へ突入する兵士たちが城壁からの猛烈な一斉射撃に怯まず突き進む必要があった。
城壁角の塔への侵入
メイリー隊は堀の手前に通じる地下道に入り、堀の外縁壁(カウンタースケープ)からの銃撃を受けずに40人の部下とともに掘に突入した。
城壁角の塔の麓に到着したメイリーは3つの梯子を立てて部下たちとともに塔の1階に登り、ロジェに合図を送った。
ロジェは急いで出発し、坑道を通って掘の端に到着した。
突破口への突入
ロジェは掘の反対側の斜面が陥没していると信じていた。
しかし、地下道の深度が浅かったためか、掘の斜面のごく一部が漏斗状に崩れただけでほぼ無傷の斜面がそこにあった。
加えて肝心の堀の外縁壁(カウンタースケープ)には何の影響ももたらしていなかった。
それにもかかわらずロジェ隊は掘に突入し、16m~20m離れた漏斗状の破口まで駆け抜けようとした。
破口にはメイリー隊が設置したいくつかのはしごが架けられていた。
そこへ城壁からの攻撃が開始された。
※先に突入したメイリー隊は堀の外縁壁(カウンタースケープ)からの攻撃を受けずに大きな古い塔にたどり着いている。そしてロジェ隊が堀を駆け抜けようとした時に攻撃が開始されている。そのため地下での爆発(アッコ守備隊側では地響きや地鳴り、あるいは地震のように感じたのだろうと想像できる)に驚いたハイム・ファリヒ(Haim Farhi)率いるアッコ守備隊は一時的に避難し、何もないことが分かると守備位置についたのではないかと考えられる。
ロジェ隊は大きな被害を受け、ロジェ隊の小隊長の1人が斜面の頂上で戦死した。
ロジェは立ち止まり、掘の深さを目視し、向きを左に変えて斜面のより低い場所を探した。
※左に向きを変えたのは、右に行くとすぐに北側城壁の前に出るからだと考えられる。
そして城壁からの砲火を受けながら部隊を展開させて戦った。
アッコ守備隊には城壁があるがロジェ隊には何の障壁も無く堀の中で晒されての戦闘となった。
そのためロジェ隊は圧倒的に不利な地形での戦闘を余儀なくされた。
塔の頂上の占領
この時、メイリーは塔の上に到達し、オスマン帝国の旗を引きちぎった。
しかし塔の上に到達するまでの間に40人いた部下の中で戦える者は10人にまで減少していた。
30人が死亡するか負傷するかしていた。
ジェザル・アフマド・パシャは城壁角の塔からオスマン帝国の旗が引き剝がされたのを見るとすぐに船に避難した。
守備隊の一部や住民もボートに乗り込みモスクに避難した。
しかし城壁を守る守備隊の多くはフランス軍を食い止めるために戦闘を継続していた。
突入部隊の撤退
指揮官のロジェは掘を渡っている時に死亡し、彼に従って塔の梯子に登った者たちも倒された。
掘で身を晒していたロジェ隊の兵士たちはまだ坑道に残っている部隊を探しに引き返していった。
この動きは実質的な撤退だった。
ロジェ隊の撤退を見た塔の1階にいたメイリー隊の哨兵たちは掘に降りて逃亡し、塔に残っているのはメイリーと工兵1人、歩兵2人だけとなっていた。
メイリーは支援を求めるために1階に降りたが、銃弾が肺を貫通した。
メイリーは血の中に倒れ、2人の歩兵たちが彼を助けるために1階に降りた。
突入部隊の視点では城壁角の塔の占領は絶望的な状況だった。
ジェザル・アフマド・パシャ軍による城壁角の塔の奪還
アッコの城壁が失われ陥落するかに見えた時、ジェザル・アフマド・パシャの宮殿を警備していた兵士たちは城壁角の塔の頂上のフランス兵は2、3人しかおらず数が増えていないことに気付いた。
宮殿の警備兵たちは城壁に沿って静かに近づき、塔の頂上に登って発砲し、逃亡しようとする工兵1人だけを発見した。
そして彼らが塔の頂上から1階に降りると、そこでマイリーと2人の瀕死の歩兵を発見した。
宮殿の警備兵たちはマイリーたちの首を切り落とし、塔の頂上に上がり、オスマン帝国の旗を掲げた。
そしてマイリーたちの首を晒して街中を行進した。
これを知ったジェザル・アフマド・パシャは船を守るためにモスクの角に配置していた500人の部隊を城壁角の塔に戻した。
ロジェ隊の小隊が散発的に破口へ向かったが、城壁にたどり着いたとしても塔の上から石や手榴弾、可燃性物質などが投げつけられ、撤退を余儀なくされた。
突入作戦の中止
指揮官を失い大きな損失を被り坑道内に避難していたロジェ隊は前進を躊躇していた。
ボナパルトとしては大人数で突入し、早急に城壁角の塔を占領する必要があった。
そのためボナパルトはロジェ隊が前進を躊躇している理由を確かめるために自ら坑道へ向かった。
そしてそこで堀の外縁壁(カウンタースケープ)を越えることは困難であることを認識し、後で突入命令を待っていたボン将軍に攻撃が失敗したため塹壕から出ないよう命令した。
この戦いによるフランス軍の損害は、参謀メイリー、副官エスカル、副官ロジェ含む死者25人、負傷者87人だったと言われている。
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