シリア戦役 30:アッコ要塞への接近とフェルトキルヒ及びシュタイスリンゲンの戦い
Approach to the Acco Fortress
ジュールダン将軍率いるドナウ軍のさらなる後退
1799年3月22日、ジュールダン将軍は戦場だったオストラッハから約10㎞東に位置するフレンドルフにいた。
しかしフレンドルフ周辺は寡兵による防衛に適しておらず、オーストリア軍はオストラッハの時よりも広く戦域を使用してフランス軍を攻撃する可能性があった。
マッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍と合流できなかったジュールダン将軍は数的劣勢を自覚しており、寡兵であっても最大の優位性を得て防衛できるだろう地形を見出し、フレンドルフからの撤退を命じた。
ドナウ軍は3月22日午前2時に移動を開始し、ドナウ川とボーデン湖の間に布陣した。
ドナウ軍の位置は、フェリーノ将軍率いる右翼はボーデン湖北端にあるボードマン(Bodman)村付近、中央はシュトックアッハ、サン・シール将軍率いる左翼はフリーディンゲン(Fridingen)付近のドナウ川の背後だった。
この移動は秩序正しく行われ、オーストリア軍はフランスの縦隊を追撃せず、追跡のみに留めていた。
一方、オーストリア軍側では度重なる強行軍によって撤退するフランス軍の追跡すらまともにできず、フランス軍の正確な位置を見失っていた。
22日夕方、オーストリア軍の少数の軽歩兵だけがフランス軍の前線に姿を現した。
この時、ジュールダンはシュトックアッハに本部を置いていた。
シュトックアッハの陣地はボーデン湖とドナウ川の間の距離が最も狭く最も防衛に適していると思われた。
しかし地形を詳細に調査してみると、地形的にオーストリア軍が有利なのではないかと考えられた。
そのためジュールダンはシュトックアッハの陣地を放棄することを決意し、23日午前4時に行軍を再開した。
第一師団であるフェリーノ師団はホーエントヴィール(Hohentwiel)近郊、第二師団であるスーアン師団、前衛師団であるスールト師団、予備騎兵師団であるオープール師団はエンゲン(Engen)の高台、第三師団であるサン=シール師団はノイハウゼン(Neuhausen)村とリップティンゲン(Liptingen)村の背後にあるトゥットリンゲン(Tuttlingen)の高台に布陣し、ヴァンダム将軍率いる最左翼はフリーディンゲンのドナウ川左岸側に駐屯した。
そしてジュールダンは本部をエンゲンに置いた。
22日夜、前哨地からの連絡でマッセナはカール大公がジュールダン将軍率いるドナウ軍を押し戻したことを知った。
マッセナはその報告にはほとんど信憑性を感じていなかったものの、フェルトキルヒへの攻撃を1日繰り上げて23日に実行に移すことを決意した。
フェルトキルヒの戦い

※1799年3月23日、フェルトキルヒの戦い
マッセナはザントライユ将軍にブレゲンツへの陽動攻撃を行わせ、その間に要塞化されたフェルトキルヒを攻撃する計画を立てており、準備を進めていた。
この時、ホッツェ将軍は約10,000人の兵士とともにロイテンホーフェン(Leutenhofen)~ロッハウの間のライブラッハ川(Leiblach)の背後に展開しており、フェルトキルヒにはイェラチッチ将軍率いる約5,500人が残されていた。
マッセナはこれを好機と捉えていた。
そして3月23日午前7時、ヘルヴェティア軍は異なる4つの地点からフェルトキルヒへの攻撃を開始した。
最左翼では、第1縦隊と第2縦隊が異なる2つの地点からの4個大隊がノーフェルス(Nofels)方面に進軍した。
この部隊の半数は浅瀬でイル(Ill)川を渡ってオーストリア軍陣地を反転させ、残りの半数はイル川左岸に沿って進み、サン・マルガレーテン岬(ST.Margarethenkapf)を攻撃することになっていた。
第3縦隊は2個大隊でユエブ(Hueb)エーゲル湖(Egelsee)を少し過ぎた地点でシェレンベルク川(恐らくエッシュ川)を下り、沼地を横切ってサン・ミシェル(ST.Michael)とブラセンベルク(Blasenberg)西側の堡塁を攻撃した。
マッセナは第4縦隊を率いてネンデルン(Nendeln)から出発してオーストリア軍が築いた塹壕陣地へと直進した。
第1縦隊~第3縦隊の攻撃は完全に失敗した。
ノーフェルスのイル川を挟んだ対岸にあるギジンゲン(Gisingen)に駐留していたオーストリアの予備軍が速やかに川の右岸へと移動してイル川を渡河してきたフランスの2個大隊(第1縦隊)をブラセンベルクまで押し戻し、オーストリア軍はフランス軍によるマスケット銃での射撃に全砲兵で抵抗し、山へ続く険しい道を難なく守り切った。
フランスの縦隊が山麓に到達すると、石や岩を転がして攻撃部隊を粉砕した。
ヘルヴェティア軍の第1縦隊~第3縦隊は大きな損害を被ってノーフェルスの後方、そしてマウレン(Mauren)への撤退を余儀なくされた。
戦闘が激化したのは、主にネンデルンから出発した第4縦隊だった。
戦闘はほぼ一日中、両軍とも同等の激しさで続けられ、夕方にかけて運命はフランス軍に有利に傾き始めたかに見えた。
マッセナは予備軍を投入してガルミスト(Gallmist)東のローヤ(Roja)山を登って左に曲がり側面攻撃を仕掛けた。
森に守られたこの精鋭部隊(予備軍)は、ベールロッホ(Barloch)と呼ばれる別の峡谷を渡り、午後4時頃ガルミスト村とその郊外に到着した。
彼らは逆茂木を越え、塹壕を背後から奪取しようとしていたが、銃弾と投石の雨に阻まれた。
イェラチッチ将軍は騎兵からフランス軍の動きについて報告を受けており、ローヤ山の頂上を占領していたのである。
小規模なフランスの縦隊がガルミストに出現しようとしたまさにその時、オーストリア軍はローヤ山頂から突撃し、鉛の雨を降らせ、岩塊をなだれのように転がらせた。
一方、オーストリア歩兵は塹壕の正面から攻撃を仕掛けた。
ガルミストの塹壕陣地に側面攻撃を仕掛けようとしたフランスの予備軍はベールロッホに押し戻され、オーストリアの全軍がマッセナ率いる軍を攻撃しているまさにその時にマッセナ将軍の元に帰還した。
迂回作戦は失敗に終わり、これ以上の流血は無意味だった。
そのため、マッセナはネンデルンへの撤退を命じ、日没後にそこに陣取った。
フェルトキルヒの戦いにおけるオーストリア軍の損失は、戦死、負傷、行方不明合わせて900人であり、フランス軍は300人の捕虜を出し、精鋭部隊1,500人を失ったと言われている。
アッコ要塞への攻城事前準備計画の立案

※1799年3月20日~5月21日、アッコ攻囲戦における両軍の塔と砲台の位置関係の概略図
1799年3月23日、突破砲台と対抗砲台の具体的な配置と攻城事前準備計画が決定された。
その攻撃計画は、①アッコ要塞の東側城壁には6つの塔(大きな古い塔含む)が建てられており、これらの塔への対抗砲台で城壁の角と東側城壁を包囲する。
その際、右側(北側城壁側)に榴弾砲、小型迫撃砲、4ポンド砲の砲台を配置し、左側(東側城壁側)の砲台を城壁と平行になるように配置する。
②3月23日夜、東側城壁前に位置するサントン(Santon)を占領して城壁に接近する。
※サントン(Santon)とは墓地のことだと考えられる。
③24日夕方に他の砲台を稼働させる。
④突堤状に塹壕を掘り、城壁の角にある塔の突出部の下を獲得する。
⑤工兵隊長は25日夜~26日にかけて約5mの梯子1本、 約4mの梯子4本、約2.5mの梯子4本、砲兵将校は大砲12門のうち4門と持ち運び可能な防盾2個を塹壕に運び込む。
⑥ベルティエは26日の夜中に塹壕貯蔵所に3,000束の粗朶を運び込む。
これらの対抗砲台は主に要塞の各塔と北側城壁中央付近にあるジェザル・アフマド・パシャの宮殿を攻撃するが、城壁の角の塔の突出部の下を獲得した時、4ポンド砲2門が配置してある右端の砲台に12ポンド砲を配置し、ジェザル・アフマド・パシャの宮殿へ砲撃できるように計画されていた。
捕虜交換の要請
3月23日、ボナパルトはシドニー・スミス将軍に書簡を送り、エジプト戦役開始時からこれまでに捕らえたイギリス人捕虜と交換で、先日捕らえられた6隻のフランス船に乗船していたフランス兵たちを解放し、アッコ前の野営地に返還するよう要請した。
イギリス人捕虜の返還場所はアレクサンドリア沖のイギリス戦隊、イギリス本国、イギリス領インドと選択肢を持たせた。
ボナパルトの意図は、イギリス人捕虜を返還することと引き換えに前線兵力の増強を図ることだった。
しかし海路でハイファに運び込まれるはずだった大口径の攻城砲はシドニー・スミス将軍の働きによって失われ、これによってフランス軍は陸路で運んだ大砲のみでアッコの攻城を行なうことを余儀なくされることとなる。
ボナパルトとしては攻城砲も返還して欲しかっただろうが、敵に弱みを見せないためにもそれを要求するわけにはいかなかった。
もしシドニー・スミス将軍がアッコに到着するより前(3月16日以前)にフランス軍主力がアッコに到着していたなら勝利の女神は確実にフランス軍に微笑んだだろう。
アッコ要塞の防御は突貫工事ながらも近代的に強化され、砲艦と攻城砲を失い、再び伝染病の恐怖が迫り、シドニー・スミス将軍がアッコに到着して以降、順調に進撃を続けていたフランス軍に逆風が吹き始めていた。
しかし、この時点でフランス軍のほとんどの者たちはヤッファのようにアッコもすぐに陥落すると楽観的に考えていた。
対抗砲台の始動と城壁への接近
3月23日昼の間に砲台に大砲が配備され、城壁を包囲した。
この時点でフランス軍はアッコ要塞の周囲に8つの砲台を建設していた。
※上の概略図には9つの砲台が描かれているが、この時点では北側城壁側砲台の内の最も海岸に近い砲台と海岸防御塔は未建設なのだと考えられる。
アッコ港の突堤の先にある灯台が建つ小さな島に対する2つの砲台と突破口への進入路を攻撃する3つの塔に対抗するための3つの砲台であり、これら5つの砲台には4インチ砲16門と8インチ砲4門が配備された。
6つ目の砲台は城壁角の大きな古い塔を狙うための6インチ迫撃砲4門が配備され、7つ目と8つ目の砲台には大きな古い塔の東面を突破するために12インチ砲4門、8インチ砲4門、榴弾砲2門が配備された。
これらが配備されると対抗砲台に城壁と灯台のある小島への砲撃を開始させた。
対抗砲台からの砲撃は48時間以内に灯台のある小島に配備されている2門の大砲と攻撃した前線の城壁に配備されていた大型の大砲を沈黙させる成果を上げた。
そしてこの日の夜、砲弾が飛び交う中で計画に従って塹壕を掘り進め、サントンを制圧した。
フランス軍は水道橋の陰を利用して塹壕を通って掘の10m以内までの地点に到達し、そこから左右に広がり城壁と平行となる塹壕陣地を構築しようとしていた。
城壁の角を取り囲むように塹壕を掘って城壁に近づき、アッコ要塞攻略のための準備は着々と進んでいた。
シュタイスリンゲンの戦い
3月24日、ドナウ軍はこれらの位置に留まり、カール大公は軍を押し進めてシュトックアッハに布陣した。
しかしこの時のカール大公軍は全体的に数的優位な立場だったがフランス軍の正確な位置を詳しく把握していなかったため、適切な配置につくことができていなかった。
左翼はボーデン湖の沼地、中央はシュトックアッハ(Stockach)とネレンベルク(Nellenburg)城跡の間、右翼はリップティンゲン(Liptingen)近くの高地に位置していた。
カール大公は軍を3個縦隊と1つの分遣隊に分けて前進させた。
メルヴェルト将軍率いる第1縦隊(右翼前衛)はシュヴァンドルフ(Schwandorf)とリップティンゲンへ、ナウエンドルフ将軍率いる第2縦隊(中央)はアーハ(Aach)へ、シュターダー将軍率いる第3縦隊(左翼)はオルジンゲン(Orsingen)経由で進軍し、そしてロイス将軍率いる軽歩兵の分遣隊はラードルフツェル(Radolfzell)とコンスタンツ(Konstanz)へ前進した。
しかしアーハとシュタイスリンゲンはフランス軍中央及び右翼の前衛部隊が占領していた。
同日、カール大公軍中央を指揮するナウエンドルフ中将は少将であるシュヴァルツェンベルク公爵に、ジンゲン(ホーエントヴィール(Hohentwiel))方面へ進軍しフランス軍をジンゲンの町の背後にあるアーハ川を越えて追い返すよう命じた。
シュヴァルツェンベルク旅団はシュタイスリンゲン(Steißlingen)を占領し、フランス軍を町の背後の森へと追いやった。
しかし、フランス軍による新たな攻撃を受け、その夜にシュタイスリンゲンの町からの撤退を余儀なくされた。
その後、シュヴァルツェンベルク少将は2個騎兵連隊を受け取り、シュタイスリンゲン右の森へ送り込み、旅団右翼の援護を任せた。
その後まもなく、カール大公は3個歩兵大隊を支援としてシュヴァルツェンベルク少将の元へ派遣した。
シュヴァルツェンベルク少将はただちに1個大隊を町の左側へ派遣し攻撃を命じた。
これらの攻勢によりフランス軍は町を失って押し戻され、その後、四方八方からジンゲンまで追撃された。
シュタイスリンゲンの戦いはオーストリア軍側が勝利を収め、多くの捕虜がオーストリア軍の手に落ちた。
マッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍の撤退
ジュールダン将軍率いるドナウ軍のシュトックアッハからの撤退はヘルヴェティア軍にとって極めて危機的なものだった。
カール大公軍にボーデン湖とウンター湖を繋ぐライン川沿いにある町コンスタンツへの道を開き、それはフェルトキルヒの前にいるヘルヴェティア軍の後方を脅かすものだった。
シャフハウゼン(Schaffhausen)とコンスタンツには2,000人~3,000人の兵力が展開されていたが、その兵力では明らかに不足だった。
ジュールダンは他の懸念に圧倒されていたに違いなく、事態の深刻さゆえに必要な命令を怠っていたのだろう。
加えてフェルトキルヒを占領することに失敗したマッセナは迅速な決断を求められた。
そのためマッセナは24日夜にフォアアールベルク州からの撤退を命じた。
同時にルクルブ将軍に送った部隊を呼び戻し、チロル地方におけるすべての攻撃行動を停止するよう命じた。
ウディノ師団をドナウ軍との連絡線を維持するためにシャフハウゼン(Schaffhausen)方面に撤退させ、自身は最大25,000人の兵力を擁するデソール(Jean-Joseph Dessolles)将軍率いるヴァルテッリーナ防衛軍との連絡線を維持するためにクールに本部を置いた。
この時、デソール将軍はツェルネッツ(Zernez)を経由して2方向に別れ、一方はナウダース(Nauders)を経由してタルチェス(Tarces)へ、もう一方はグロレンツァへ向かっていた。
ジュールダン将軍のシュトックアッハでの大逆転計画
24日夜、ジュールダン将軍はカール大公軍をシュトックアッハから撤退させるための計画を承認した。
ドナウ軍右翼を指揮するフェリーノ将軍はジンゲンから先ほど失ったシュタイスリンゲンを通ってシュトックアッハへ進軍するよう命令を受けた。
第2師団を指揮していたスーアン将軍は、エンゲンを通ってシュトックアッハへ向かうよう命令を受けた。
そしてフェリーノ将軍は、両師団が合流した後、両師団の指揮を執ることになっていた。
前衛師団を指揮していたスールト将軍は、エミンゲンへの行軍を指揮し、そこからリップティンゲンへ向かうよう命じられた。
予備騎兵師団を指揮していたオープール将軍は、前衛師団に追従するよう命令を受けた。
第3師団を指揮していたサン・シール将軍は、ヴァンダム将軍が指揮する最左翼、およびトゥットリンゲン(Tuttlingen)、ミュールハイム(Mühlheim)、フリディンゲン(Fridengen)にある部隊を統合し、リップティンゲンへ進路を定めるよう命じられた。
サン・シール師団の進路はスールト将軍率いる前衛師団によって守られることになっていた。
ジュールダンの計画は、リップティンゲン方面に兵力を集中させてカール大公軍右翼を撃退した後、カール大公軍中央と左翼を片翼包囲し、左翼サン・シール師団でフレンドルフへの連絡線を脅かすというものであり、成功すればオーストリア軍をフレンドルフ以東に撤退させることができると考えられた。
これらの命令は24日夜の内に師団を率いるすべての将軍に伝達された。
フリゲート艦「アライアンス」の合流
3月24日、トロウブリッジ大佐の命令で物資の輸送のためにアレクサンドリア沖を出発したフリゲート艦「アライアンス(Alliance)」がアッコに到着した。
アライアンス艦長デイヴィッド・ウィルモット(David Wilmot)中佐はトロウブリッジ大佐から積荷を降ろしたら直ちに帰還するよう命令を受けていた。
しかし、シドニー・スミス将軍は軍法を引用して「国王の艦船は困っている既知の友軍を援助する必要がある。」と言い、アライアンスを指揮下に加えた。
シドニー・スミスとしてはフランス軍は強敵であり、1艦でも必要な状況だった。
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