シリア戦役 30:アッコ要塞への接近
Approach to the Acco Fortress
アッコ要塞への攻城事前準備計画の立案

※1799年3月20日~5月21日、アッコ攻囲戦における両軍の塔と砲台の位置関係の概略図
1799年3月23日、突破砲台と対抗砲台の具体的な配置と攻城事前準備計画が決定された。
その攻撃計画は、①アッコ要塞の東側城壁には6つの塔(大きな古い塔含む)が建てられており、これらの塔への対抗砲台で城壁の角と東側城壁を包囲する。
その際、右側(北側城壁側)に榴弾砲、小型迫撃砲、4ポンド砲の砲台を配置し、左側(東側城壁側)の砲台を城壁と平行になるように配置する。
②3月23日夜、東側城壁前に位置するサントン(Santon)を占領して城壁に接近する。
※サントン(Santon)とは墓地のことだと考えられる。
③24日夕方に他の砲台を稼働させる。
④突堤状に塹壕を掘り、城壁の角にある塔の突出部の下を獲得する。
⑤工兵隊長は25日夜~26日にかけて約5mの梯子1本、 約4mの梯子4本、約2.5mの梯子4本、砲兵将校は大砲12門のうち4門と持ち運び可能な防盾2個を塹壕に運び込む。
⑥ベルティエは26日の夜中に塹壕貯蔵所に3,000束の粗朶を運び込む。
これらの対抗砲台は主に要塞の各塔と北側城壁中央付近にあるジェザル・アフマド・パシャの宮殿を攻撃するが、城壁の角の塔の突出部の下を獲得した時、4ポンド砲2門が配置してある右端の砲台に12ポンド砲を配置し、ジェザル・アフマド・パシャの宮殿へ砲撃できるように計画されていた。
捕虜交換の要請
3月23日、ボナパルトはシドニー・スミス将軍に書簡を送り、エジプト戦役開始時からこれまでに捕らえたイギリス人捕虜と交換で、先日捕らえられた6隻のフランス船に乗船していたフランス兵たちを解放し、アッコ前の野営地に返還するよう要請した。
イギリス人捕虜の返還場所はアレクサンドリア沖のイギリス戦隊、イギリス本国、イギリス領インドと選択肢を持たせた。
ボナパルトの意図は、イギリス人捕虜を返還することと引き換えに前線兵力の増強を図ることだった。
しかし海路でハイファに運び込まれるはずだった大口径の攻城砲はシドニー・スミス将軍の働きによって失われ、これによってフランス軍は陸路で運んだ大砲のみでアッコの攻城を行なうことを余儀なくされることとなる。
ボナパルトとしては攻城砲も返還して欲しかっただろうが、敵に弱みを見せないためにもそれを要求するわけにはいかなかった。
もしシドニー・スミス将軍がアッコに到着するより前(3月16日以前)にフランス軍主力がアッコに到着していたなら勝利の女神は確実にフランス軍に微笑んだだろう。
アッコ要塞の防御は突貫工事ながらも近代的に強化され、砲艦と攻城砲を失い、再び伝染病の恐怖が迫り、シドニー・スミス将軍がアッコに到着して以降、順調に進撃を続けていたフランス軍に逆風が吹き始めていた。
しかし、この時点でフランス軍のほとんどの者たちはヤッファのようにアッコもすぐに陥落すると楽観的に考えていた。
対抗砲台の始動と城壁への接近
3月23日昼の間に砲台に大砲が配備され、城壁を包囲した。
この時点でフランス軍はアッコ要塞の周囲に8つの砲台を建設していた。
※上の概略図には9つの砲台が描かれているが、この時点では北側城壁側砲台の内の最も海岸に近い砲台と海岸防御塔は未建設なのだと考えられる。
アッコ港の突堤の先にある灯台が建つ小さな島に対する2つの砲台と突破口への進入路を攻撃する3つの塔に対抗するための3つの砲台であり、これら5つの砲台には4インチ砲16門と8インチ砲4門が配備された。
6つ目の砲台は城壁角の大きな古い塔を狙うための6インチ迫撃砲4門が配備され、7つ目と8つ目の砲台には大きな古い塔の東面を突破するために12インチ砲4門、8インチ砲4門、榴弾砲2門が配備された。
これらが配備されると対抗砲台に城壁と灯台のある小島への砲撃を開始させた。
対抗砲台からの砲撃は48時間以内に灯台のある小島に配備されている2門の大砲と攻撃した前線の城壁に配備されていた大型の大砲を沈黙させる成果を上げた。
そしてこの日の夜、砲弾が飛び交う中で計画に従って塹壕を掘り進め、サントンを制圧した。
フランス軍は水道橋の陰を利用して塹壕を通って掘の10m以内までの地点に到達し、そこから左右に広がり城壁と平行となる塹壕陣地を構築しようとしていた。
城壁の角を取り囲むように塹壕を掘って城壁に近づき、アッコ要塞攻略のための準備は着々と進んでいた。
フリゲート艦「アライアンス」の合流
3月24日、トロウブリッジ大佐の命令で物資の輸送のためにアレクサンドリア沖を出発したフリゲート艦「アライアンス(Alliance)」がアッコに到着した。
アライアンス艦長デイヴィッド・ウィルモット(David Wilmot)中佐はトロウブリッジ大佐から積荷を降ろしたら直ちに帰還するよう命令を受けていた。
しかし、シドニー・スミス将軍は軍法を引用して「国王の艦船は困っている既知の友軍を援助する必要がある。」と言い、アライアンスを指揮下に加えた。
シドニー・スミスとしてはフランス軍は強敵であり、1艦でも必要な状況だった。
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