シリア戦役 32:ハイファ上陸作戦と地雷埋設作業の完了
Haifa Landing Operation

シドニー・スミス将軍によるハイファ上陸作戦

1799年3月26日、シドニー・スミス将軍によるハイファ上陸作戦【ナポレオンのシリア遠征】

※1799年3月26日、シドニー・スミス将軍によるハイファ上陸作戦

 1799年3月26日夜明け、シドニー・スミス将軍は10隻のボートに400人の兵士を乗せてハイファを攻撃した。

 イギリス軍は港に停泊している輸送船を拿捕しようとしているようだったがシドニー・スミス将軍の目的はハイファの占領だった。

 ハイファを指揮するランバート騎兵大尉は、いかなる防御行動も見せることなく、イギリス軍の陸地への接近を許可するよう命じた。

 そして榴弾砲と竜騎兵60騎をイギリス軍から隠して待ち伏せさせた。

 フランス軍の防御が弱いと見たシドニー・スミス将軍は上陸を命じた。

 イギリス軍が上陸するとランバート騎兵大尉は兵士たちの先頭に立って襲い掛かった。

 しかし、イギリス軍は建物を利用して前線を支え上陸を支援した。

 ランバート騎兵大尉は、イギリス軍が建物を利用して戦闘を繰り広げているのを見ると、野砲3門からブドウ弾を発射し、2つの壁のある建物を占拠していた100人の兵士に銃撃し、同時にそれぞれ30騎の竜騎兵で構成される2個小隊の伏兵でイギリス軍の側面と後方から突撃した。

 これらの間、ランバート騎兵大尉率いる部隊は32ポンドカロネード砲を装備したボートの1隻に乗り込んで奪取し、17人を捕虜にした。

 イギリス軍は四方八方から攻撃を受け混乱に陥った。

 これを見たシドニー・スミス将軍は即座に撤退を命じ、フランス軍は撤退する船に砲弾とブドウ弾を放った。

 ランバート騎兵大尉の作戦は成功し、シドニー・スミス将軍の上陸作戦を打ち砕いた。

 この戦闘でのイギリス軍の損害は死者、負傷者、捕虜の合計150人だったと言われている。

※ナポレオン1世書簡集には「100人を殺害または負傷させ、30人を捕虜にし、36口径カロネード砲を搭載した大型船を拿捕した。」と書かれている。

 その後、シドニー・スミス将軍が指揮する戦列艦2隻はアッコ沖に停泊した。

 この時に入手した32ポンドカロネード砲は後に砲架が製作されてからアッコの突破砲台に配備されることとなる。

 ハイファ上陸作戦失敗の後、春分時の暴風が例年になく激しくなり、シドニー・スミス将軍はティーグルと指揮下の艦船とともにカルメル山の風下に避難することを余儀なくされた。

※ナポレオン視点では、シドニー・スミス将軍は悪天候と春分の風を避けるという名目で避難していったが、実際はアッコの占領は避けられないと考え、その場に立ち会うことを望んでいなかったとのことである。

アッコ要塞からの最初の出撃

 3月26日夕方、イギリス戦列艦の支援を一時的に失ったジェザル・アフマド・パシャは宮殿に戻って出撃を命じた。

 最も強固な城壁角の大きな古い塔の東面が崩壊したことを知ったジェザル・アフマド・パシャはフランス軍の砲台は脅威であると感じ、これを取り除こうとしたのである。

 しかし、フランス軍はアッコ要塞を包囲する時点でジェザル・アフマド・パシャ軍の出撃への対策を講じており、出撃は完全に失敗に終わった。

 通常、防御側は要塞の利を活かして戦うものだが、この要塞からの無謀な出撃の背景には、「ダマスカスに集結したであろう軍隊は早期にアッコに到着するだろう」とのジェザル・アフマド・パシャの予測があり、フランス軍の背後にダマスカス連合軍がいることを期待していたという事情もあった。

 一方でフランス軍の前進も堀の外縁壁(カウンタースケープ)からの射撃と城壁からの砲撃により阻止されていた。

 城壁前での攻防は一進一退を繰り返し、停滞しているように見えた。

フランス軍の塹壕からの撤退

 3月27日午前3時過ぎ、フランス軍が塹壕からの撤退を開始した。

 そして水道橋の右側と突破砲台はクレベール師団が担当し、左側はレイニエ師団が担当することとなった。

 これまでクレベール師団とレイニエ師団の間にいたボン師団とランヌ師団は朝以降に後退して予備軍となる計画だった。

 塹壕からの撤退が完了されたことを確認したボナパルトは城壁への砲撃を命じた。

 午前4時~正午まで、迫撃砲と榴弾砲が配備された砲台から前線の敵攻撃地点を沈黙させるために照準の精度を上げつつ砲撃を行い、突破砲台も城壁角の塔を目標に砲撃を行った。

 そしてアッコ湾側の砦の砲台は、小帆船を追い払い、港に混乱を引き起こすことを目的として砲撃を行なった。

 これらの動きは地雷埋没作業と地下道開通作業が終わり、フランス軍の本格的な攻城が近づいていることを意味していた。

ダマスカスへの道の1つの確保

ダマスカスからアッコへの道

※ダマスカスからアッコへの道

 3月27日、ミュラ将軍は軽歩兵500人、騎兵200騎、大砲2門を率いツファット(Safed)へ向かった。

 その際、3月21日にツファットとベナト・ヤコブ橋の指揮官となったムスタファ・ベチル(Mustafa Bechir)を連れて行った。

 ミュラ旅団の目的はツファットの砦とティベリアス湖北のヨルダン川に架かるベナト・ヤコブ橋を占領して“周辺地域(コーカサスやアナトリア半島など)に住む様々な民族から構成される連合軍”が集結しているダマスカスへの道を監視することであり、もし砦が敵に占領され大砲が配備されていた場合、ベナト・ヤコブ橋を封鎖することにより敵を砦に封じ込めるよう命じられていた。

 ダマスカスからアッコへ通じている道は幾つかあるが、ベナト・ヤコブ橋を渡りツファットを通過する道が最短だと考えられた。

※ナポレオンは住民たちから、ツファットが古代ベツリア(Béthulie)であり、ユディト(Judith)がアッシリアの王(実際はアッシリアではなく新バビロニアの王)ネブカドネザル2世に派遣された軍司令官ホロフェルネス(Holopherne)を殺した場所であるという言い伝えを聞いている。ユディトやホロフェルネスは『ユディト記』の登場人物であり、『ユディト記』ではネブカドネザル2世はメディア王国との戦いに協力的でなかった諸地域に討伐のための軍隊を差し向けている。実際のネブカドネザル2世はエジプトと戦ってシリアを征服したがエジプト本土への侵攻は失敗した。その後、新バビロニア軍の敗北を見たシリアの諸王国は反乱を起こしたがネブカドネザル2世によってエルサレムを奪われ、鎮圧されている。ユディトとホロフェルネスの伝説は恐らくシリア諸王国の反乱時の出来事なのだろう。

 ミュラ将軍はこれらの任務を完了した後、アッコの野営地に帰還することとなる。