シリア戦役 06:ドゼー師団のギルガ占領とアシュート州でのドゼー将軍の逸話
The Desaix Division takes over Girga

ドゼー師団によるギルガの占領

1798年12月29日、ドゼー師団によるギルガの占領

※1798年12月29日、ドゼー師団によるギルガの占領

 ムラード・ベイはフランス軍を前にアシュートを放棄してギルガにまで後退を続けていた。

 しかしフランス軍の行軍速度は迅速であり、小規模な襲撃によって足止めをしているものの、ほんの数時間しか間隔がないことが多かった。

 ムラード・ベイとしてはギルガより先の地域にフランス軍を侵入させたくなかった。

 そのため布告で敵を"神の懲罰"として表現することにより、部下たちにフランス軍の恐怖を克服させようとした。

 しかしドゼー師団が接近するとギルガからの撤退を決断した。

 ドゼー師団はプトレマイオスの遺跡(恐らくティニス)を訪れ、12月29日、ドゼー師団は稲妻が光り、雷鳴が轟くなかギルガに入った。

 エジプトでは雷は稀有な現象であり、住民達は征服者が超自然的な力に恵まれていると信じ畏れたと言われている。

 サイードの首都であるギルガはカイロとシエネ(アスワンのこと)から等距離に位置しており、アシュートよりは小さく、ミニヤーより大きい町だった。

 アシュート州には物資が溢れており、フランス軍が駐留して消費しているにもかかわらず、食料品も含めて物価は安定していた。

 師団が艦隊を追い越したため、ドゼーとしてはそれを待つ必要があり、ギルガで師団を休息させた。

 決戦を避けてギルガまでをも放棄したムラード・ベイの表情は暗かった。

 フランス兵を捕虜にするたびに、ムラード・ベイは「何!ここに私を征服した者がいる!」と怒りを爆発させたが、「いつかこの小男たちに勝てる日が来るのだろうか?」とつぶやいた。

 そしてギルガから数リーグ(1リーグ≒4㎞)のところで、1時間立ち止まり、現在の運命の浮き沈みを嘆いて泣いたと言われている。

ドゼーとエジプトの少年の逸話

 原住民が非常に貧しいこの肥沃な地域(アシュート州のこと)では、村やキャラバンサライ(Caravansérail)が短い距離で連続してた。

※キャラバンサライとは、隊商のための取引及び宿泊施設のこと。

 毎晩、厳重な監視にもかかわらず、住民の窃盗癖は軍隊に損害を与えていた。

 ある日、兵士たちがサーベルの一撃で腕を負傷したわずか12歳の子供をドゼーの前に連れてきた。

「ついに見つけました。彼が奪おうとしていたライフル銃がここにあります。」

 将軍は若い犯人の顔を興味深く観察し、2人の間に次のような会話が交わされた。

「誰が君をこの窃盗に導いたのですか?」

「知りません。強い人、母なる神だけです。」

「両親はいますか?」

 少年を観察するととても貧しく目が見えないようだった。

「誰が君を送り込んだのか教えてくれれば、私は君を解放してあげよう。沈黙を守り続けるなら、残酷な罰を受けることになるだろう。」

「言ったでしょう、誰かが僕を遣わしたのではなく、神のみが私にひらめきを与えたんです。」

 そして「僕の首はここにあります。切り落としてください。」と付け加えた。

 少年はドゼーの雰囲気から赦しを読み取り、ドゼーの足元に帽子を置き、そして少しも感情を見せずにゆっくりと退室した。

 この光景は、ヴィヴァン・ドノン(Vivant Denon)に興味深い絵の題材を与えたと言われている。

ドゼー将軍のギルガでの交流

 ギルガのすべてがイスラムの都市を表現していた。

 掘っ建て小屋に囲まれたモスク、城壁のあるベイの家、静かなバザール、奴隷市場、寡黙な人々、そしてその性格、容貌、衣装のすべてがヨーロッパとは対照的だった。

 エチオピアの交易路のひとつ、大オアシスの頂上、砂の下に埋もれたアビドゥスの遺跡からそう遠くない場所に位置するギルガは、ダルフール(Darfour)のスルタンの兄弟が率いるキャラバンを迎え入れたばかりだった。

※ダルフールは現在のスーダン西部に位置する地域である。

 キャラバンはラクダ、象牙、砂金、そして大量の奴隷を運んできていた。

 驚くべき知性と活発さに恵まれたエチオピアの王子は、ドゼー将軍に気に入られ、将軍は王子を自分の側に呼び寄せて、貿易やアフリカ内陸部の人々の習慣について質問することを好んだ。

 ドゼーは、その両親がエジプトで小麦と米と交換したと言われる2人の黒人の幼い子供に興味を持った。

 ドゼーは子供たちを購入し、子供たちはマレンゴまで彼の元を離れなかったと言われている。