シリア戦役 31:ナポレオンによる地雷埋設作戦とシュトックアッハの戦い
Napoleon's underground mine-laying operation

突破砲台の始動

 1799年3月24日、フランス軍はこの日の内に城壁角を取り囲むように城壁と平行となる広い塹壕陣地をほぼ構築していた。

 そしてついに突破砲台からの砲撃が開始された。

 しかし、城壁角に建つ大きな古い塔は強固であり、目立った効果は見みられなかった。

伝染病の広がり

 3月24日正午、救護所や野戦病院にいる発熱患者や負傷者全員がシェファ・アムルに設立された病院に運び込まれた。

 熱病患者と負傷者の病院は分けられ、医師たちもシェファ・アムルに派遣された。

 デジュネットがアッコの前で熱病患者を発見してから5日が経過しており、感染はじわりじわりと広がる兆候を見せていた。

 一方で塹壕陣地はほぼ計画通りに完成し、残るは攻城のための資材を運び込むだけとなっていた。

ベドウィン及びナブルス人の略奪への対応

1800年代初頭のシェファ・アムル周辺地図【ナポレオンのシリア遠征】

※1800年代初頭のシェファ・アムル周辺地図

 ミュラ将軍によって追い散らされたにもかかわらず、ベドウィンやナブルス人は未だシェファ・アムルの南の地域に出没し略奪活動を行っていた。

 3月23日には野営地を抜け出して田舎に向かった兵士たち数人が無残な姿で発見されていたため、ボナパルトは野営地から抜け出す兵士を取り締まるために警備を強化し、3月25日、ヴィアル将軍を第4軽歩兵半旅団の1個大隊とともに派遣した。

 ヴィアル将軍はシェファ・アムルや近隣の村に武装した民兵約60人を要請してこれを加え、シェファ・アムルに十分な守備隊を残してゲイダ(Geyda)村に集結していると思われるベドウィンとナブルス人の集団を解散させ、ゲイダ村にある小麦と大麦をシェファ・アムルに運ぶよう命じられていた。

 ゲイダ村にいるベドウィンとナブルス人が300人未満なら包囲せず連絡線遮断のための部隊を派遣すれば彼らはすぐに村から撤退するよう促し、もし包囲した場合、撤退するか降伏して捕虜となるよう勧告する予定となっていた。

城壁角の塔東面の崩壊とナポレオンによる地雷埋設作戦

アッコ要塞東側城壁の断面図(文面からの想像図)

※アッコ要塞東側城壁の断面図(文面からの想像図)

 3月25日、突破砲台からの砲撃は継続されていたが、やはり効果が得られているように見えなかった。

 これは城壁角に建つ塔の強度に対して12ポンド砲では口径が小さ過ぎることに原因があると考えられ、兵士たちは「城壁の最も強い部分を攻撃することに固執している」と工兵たちを公然と非難した。

 しかし午後4時、大きな古い塔の東側全体が轟音とともに崩壊した。

 フランス軍から歓喜の叫びが上がり、近隣の地域から押し寄せて高台に陣取って観戦する30,000人の地元民からも歓喜の叫びが上がった。

 工兵将校が突破口を偵察するために前進したが、壁沿いにいた数人のライフル兵に攻撃された。

 25人の兵士が彼ら(壁沿いにいた数人のライフル兵)を撃退するよう命じられ、25人の工兵が突破口の土台を掃討するよう命じられた。

 ヤッファのように夕方にはアッコは占領されるだろうと期待された。

 しかし25人の工兵は堀の外縁壁(カウンタースケープ)からの攻撃によって前進を阻止された。

 フランス軍にとって、城壁を破壊できたとしても前進を阻む堀の外縁壁(カウンタースケープ)を突破しなければ街への侵入は不可能だった。

 そのためボナパルトは堀の外縁壁(カウンタースケープ)を下から爆破するための地下道とその他に堀の前まで通じる地下道を掘らせた。

 堀の外縁壁(カウンタースケープ)を地下から崩壊させて突破口を作ることが目的だった。

ジェザル・アフマド・パシャの宮殿からの避難とアッコ城壁を守る守備隊の奮闘

 ジェザル・アフマド・パシャは宮殿から避難し、財宝や女たちとともに船上へ逃れていた。

 アッコの住民たちはすぐにアッコの街は襲撃されて占領されるだろうと考えていた。

 しかし、アッコの城壁と塔は守備隊に守られ、彼らは一晩中マスケット銃での射撃を継続していた。

 このジェザル・アフマド・パシャ軍の粘り強い抵抗の裏には、ハイム・ファリヒの指揮とイギリス軍のダグラス少佐の指導、そしてナポレオンによるヤッファの街での虐殺の影響があったと言われている。

※ヤッファの街での虐殺とは、ヤッファ占領時の戦いでの虐殺であって捕虜を海岸で殺害した虐殺とは異なる。捕虜を海岸で殺害した虐殺は周辺住民に知らされること無く秘密裡に行われたため、アッコに広まってはいない。

 ナポレオンはヤッファの街での虐殺でアッコにいるジェザル・アフマド・パシャ軍の兵士たちと住民たちを恐怖に陥れて早期にアッコを降伏させ、兵力損失を最小限に抑えようと目論んでいたが、逆に必死の抵抗を促す結果となったのである。

シュトックアッハの戦いの始まり

1799年3月25日、シュトックアッハの戦い

※上の図は1799年3月25日、シュトックアッハの戦いの図であるが、フランスのヴァンダム師団やオーストリアのヴァリス師団、ロイス師団などが記載されていないため、この戦図は部分的にしか記載されていないことが分かる。恐らく記載されていない理由はシュトックアッハの戦いにおける両軍の各師団の兵力や配置についての具体的な記述が見当たらないからだろうと考えられる。そのため配置などは報告書などを元に推測するしかない。

1799年3月25日、シュトックアッハの戦いにおける両軍の配置の推測図

※1799年3月25日、シュトックアッハの戦いにおける両軍の配置の推測図

 オストラッハの戦いに勝利しシュトックアッハにまで進軍したカール大公は決戦を望んでいた一方で、危険を冒すことを望んでいるわけではなかった。

 この時カール大公はフランス軍の位置を正確に把握しておらず、このままジュールダン将軍の意図とフランス軍の配置を完全に把握せずに攻撃することはできなかった。

 そのため、3月25日、カール大公は偵察を行うことを決定した。

 偵察の結果を見てから最終的に決断するつもりだった。

 大公はすでに前日に前衛部隊を部分的に増強し、追加の部隊を配置し、それほど強力ではないと思われるエンゲンとジンゲンのフランス軍に向かって前進することを決定した。

 エンゲンに本部を置くジュールダン将軍も25日の攻撃を計画しており、カール大公軍に対して先制できると思っていた。

 そしてカール大公軍右翼を打ち破り、大公軍中央と左翼を片翼包囲し、フレンドルフへの連絡線を遮断できることを期待していた。

 対してカール大公は右翼で防御し、ヘルヴェティア軍との合流を遮断するためにエンゲンとジンゲンにより多くの兵力を投入することを考えていた。

 そのためシュトックアッハ周辺地域に多くの兵力を集中させていた。

 劣勢な兵力を有するフランス軍が包囲しようとし、優勢な兵力を有するオーストリア軍が兵力を集中させるという展開となった。

シュトックアッハの戦い 01:リップティンゲン周辺での戦い

 3月25日午前4時、ジュールダン将軍はエルヌーフ(Ernouf)将軍、ラマンティリエール(Lamantilliere)将軍、そして全幕僚を伴い、スールト将軍率いる前衛師団と共に進軍を開始した。

 前衛師団はエミンゲンでオーストリア軍の前線を発見した。

 ナウエンドルフ将軍麾下のメルヴェルト少将が率いるオーストリア軍右翼の前衛旅団はリップティンゲンの前方に配置され、その前面はエミンゲン村と、一部が湿地帯となっている森によって守られていた。

 森は12門の大砲に支援された3,000人の歩兵によって守られていた。

 スールト将軍が攻撃命令を下すと瞬く間にエミンゲン村は制圧され、師団全体を前進させ、スールト将軍は森への攻撃態勢を整えた。

 その後、別動隊に森を迂回するよう機動させるのと同時に森へ猛烈な攻撃を仕掛け、あっという間にリップティンゲンにまで侵入した。

 そしてリッップティンゲンの左右に部隊を進軍させるとオーストリア軍の戦線は瓦解し、敗走を強いられてリップティンゲンとシュトックアッハの間の森に後退し、兵士たちは敗走する中、命を懸けて戦った。

 スールト将軍率いる前衛師団がリップティンゲンで優勢に戦いを進めている間、サン・シール将軍率いるドナウ軍左翼とサン・シール将軍の指揮下に入った最左翼のヴァンダム師団はオーストリア軍右翼の右側面で強力な包囲網を築き上げていた。

 ヴァンダム将軍は、サン・シール師団のルグラン旅団がトゥットリンゲンからリップティンゲンに向かうのと同時にミュールハイムとフリディンゲンを通ってリップティンゲンに師団を進軍させることとなっていた。

 ヴァンダム師団は途中でオーストリア軍の砲兵隊の妨害を受けながらもスールト将軍率いる前衛師団と戦っているメルヴェルト旅団の右側面に張り付いて完全に敗走させた後、リップティンゲンとシュトックアッハの間の森まで追撃を続けた。

 この時トゥットリンゲンから向かっていたルグラン旅団は、前衛師団とヴァンダム師団によってメルヴェルト旅団が撤退を余儀なくされるまで前進することができなかったと言われている。

 ジュールダン将軍によると、リップティンゲン周辺に展開していたカール大公軍右翼であるヴァリス師団は誇張抜きで20,000人~25,000人の兵力を有していたが、フランス軍の攻撃の前に完全な敗北を喫し、一部はメスキルヒ方面へ、大部分はリップティンゲンとシュトックアッハの間にある森の中へと逃亡し、3,000人が捕虜となり大砲2門を放棄することを余儀なくされたという。

 その後、ジュールダン将軍はサン・シール師団をメスキルヒに向かわせてフレンドルフとの連絡線を脅かし、スールト前衛師団で森で抵抗を続けているメルヴェルト旅団の残党を打ち破り、カール大公が指揮するカール大公軍中央へ側面攻撃を仕掛けようとした。

 この時点でリップティンゲン周辺での戦いはほぼジュールダン将軍の計画通りに進行していた。

 ジュールダン将軍は、この敗北で大公が相当動揺しシュトックアッハ近郊に到着したと推定される第1師団(フェリーノ師団)、第2師団(スーアン師団)の圧力に押されて撤退を決意するだろうと予想していた。

シュトックアッハの戦い 02:アイゲルティンゲン周辺とシュタイスリンゲン周辺での戦い

 一方、オーストリア軍も進軍を開始しており、カール大公自身も9個大隊と22個中隊を率いてアーハに進軍し、町を襲撃した後、アーハの高地を占領していたスーアン師団右翼を背後のブドウ畑と森の入り口へと追撃した。

 午前10時、スーアン将軍はドナウ軍の左翼と右翼が優勢になったことを察知し、攻撃再開を命じ激しい戦闘が開始された。

 左翼前衛のシュヴァルツェンベルク将軍率いる旅団も激しい攻撃を受け、特に旅団右翼が脅かされた。

 これを見たカール大公はヴァリス将軍麾下のフェルステンベルク将軍とともに出撃しようとしたがフェルステンベルク将軍に止められ、カール大公は本部に残り、フェルステンベルク将軍がスーアン師団を押し返すために出撃することとなった。

 この時、フェルステンベルク将軍はカール大公自身が出撃することに落胆し「私は生きている限りこの位置(部隊の先頭)を離れることはありません。大公は馬から降りて戦うべきではないでしょう。」と語ったと言われている。

 しかしフェルステンベルク将軍は戦闘が始まるとすぐにフランス軍の銃弾に倒れた。

 そのためカール大公自身が歩兵部隊を率いて戦場に向かうこととなった。

 その頃、フランス軍右翼のフェリーノ師団はシュタイスリンゲン(Steißlingen)とその周辺地域を制圧し、大公軍左翼を率いるシュターダー師団本体が布陣しているオイジンゲンに向かおうとしているところだった。

 そこへカール大公軍右翼前衛を率いるメルヴェルト将軍から「リップティンゲンでのフランス軍の圧倒的な兵力にもはや耐えられない」という知らせが届けられた。

 ジュールダンはリップティンゲン周辺戦域で期待していたような決定的な勝利を収めることはできなかったが、メルヴェルト将軍率いる右翼前衛はシュトックアッハへ敗走中であり、オーストリア軍は依然として危機的な状況だった。

 カール大公軍右左翼は敗北し、カール大公軍はリップティンゲン南東の森~オイジンゲンの間で包囲されようとし、大公はまだ知らなかったがサン・シール師団によってフレンドルフとの連絡線を脅かされようとしていたのである。

 カール大公の周囲では撤退の噂が流れていたが、大公はこれに抵抗し、すぐさまアーハでの戦線を後退させつつ再編成を行いメルヴェルト旅団を支援すべく兵力の移動を命じた。

 左翼前衛を指揮するシュヴァルツェンベルク将軍も旅団のほぼ全てが交戦している状況の中、カール大公の命令を遂行した。

 しかし戦線の最左翼ではフランス軍は主にシュトックアッハの南西約6㎞のところに位置するヴァルヴィース(Wahlwies)村の占領を目標としているようであったが、攻撃はすべて失敗に終わっていた。

 ロイス公爵率いる部隊とシュターダー将軍率いるカール大公軍左翼がこれらの試みをすべて阻止した。

 フランス軍は既にこの村の一部を占領していたものの、村を流れる小川(シュトックアッハ川)を渡ることができなかったため、再び放棄を余儀なくされた。

 カール大公はその間に右翼前衛のメルヴェルト旅団の支援に利用可能なすべての部隊を向かわせた。

 その間、スーアン将軍はカール大公軍中央をアイゲルティンゲンの先まで追い払い、そこに陣地を構えることに成功した。

 スーアン師団右翼は村の正面に、師団左翼は村の背後に布陣した。

 ジュールダンによれば、アーハからアイゲルティンゲンの戦い(スーアン師団との戦い)におけるオーストリア軍の損害は、少なからぬ死傷者と捕虜900人だったと言われている。

シュトックアッハの戦い 03:リップティンゲンとシュトックアッハの間の森での戦い

 一方、森に逃げ込んだメルヴェルト将軍率いる右翼前衛への攻撃を命じられたスールト将軍は逃亡者を森の中心まで追跡したが、そこでオーストリア部隊と遭遇して戦闘を再開した。

 この時、メルヴェルト旅団の支援のためにカール大公はすでに16個歩兵大隊、騎兵1,000騎、多数の砲兵隊を派遣していた。

 ジュールダン将軍があらゆる報告を元に考えた結果、シュトックアッハの北西約3.5㎞のところに位置するマールシュピューレン(Mahlspüren)の前でカール大公は逃亡兵を後方に集結させ、森へと進軍させてフランス軍を攻撃するよう命令したのだろうと推測された。

 先ほど遭遇したオーストリア部隊は敗走するメルヴェルト旅団だと信じていたフランス兵は実際はカール大公が派遣した増援部隊だったが、スールト師団前衛は何も知らずに進撃を続けた。

 ところが数列に並んだ12,000人から15,000人の歩兵の出現により進撃は阻止された。

 スールト将軍は即座に2個大隊で支援した。

 勝ち戦だと思っていたスールト師団の将校たちは戦功をあげるために自ら志願して戦線に加わることを望んだ。

 彼らの部隊はオーストリア軍の第一戦列を突破することに成功したが、新たな数個大隊からなる第二戦列に阻止され、砲兵隊の近くで監視下に置かれた数個中隊とともに集結せざるを得なかった。

 スールト師団は勝利への情熱と勇気で何度も突撃を成功させたが、カール大公はこの地点に戦力を集中させており、シュトックアッハから新たな増援が絶えず到着していたため突破することはできなかった。

 スールト師団はその後も再三に渡って突撃を繰り返したが、兵力で上回るオーストリア軍はすでに態勢を立て直していた。

 カール大公は中央を縮小すると同時に両翼を広げて前進を命じ、兵力差を活かしてスールト師団を包囲しようとした。

 スールト将軍はオーストリア軍のこの機動の効果を防ぐことは不可能だと考えていた。

 兵士たちは疲労困憊し、武器の大部分が使用不能になっていた。

 そのためスールト将軍は防御態勢を取った。

 スールト師団の危機を知ったジュールダン将軍は、スールト将軍に森から撤退しリップティンゲン手前の平原にいる予備騎兵隊(オープール予備騎兵師団)と合流するよう命じた。

 これらの間、ジュールダン将軍はサン・シール将軍の元に数人の将校を派遣してメスキルヒへの行軍を急がせ、オーストリア軍後方の森の近くへ部隊を前進させるよう命じた。

 そしてノイハウゼンに歩兵半旅団を派遣するよう命じた。

シュトックアッハの戦い 04:リップティンゲン周辺での攻防

 スールト前衛師団は可能な限り最大の秩序を保ちながら後退を遂行した。

 歩兵はリップティンゲン平原の両側にある森に配置され、騎兵は約800ヤードの幅の平原に整列していた。

 砲兵は、スールト前衛師団が先ほど去った森から進軍してくるもの全てを迎撃できるよう配置されていた。

 そして背後を警戒して2個騎兵連隊をエミンゲンに派遣した。

 ジュールダンはリップティンゲンの前でオーストリア軍が森から出てくるのを阻止し、サン・シール師団の攻撃がジュールダンの期待通りの効果を生むその瞬間までサン・シール師団との連絡線を維持できるという希望を抱いていた。

 しかし、この希望が叶うことは無かった。

 フランス軍の歩兵と砲兵の激しい射撃にもかかわらずオーストリア軍は多数の歩兵部隊に支援された騎兵隊が隘路を通って森から出現した。

 そして森を出たところの背後にある場所の渓谷に数門の大砲を配置した。

 その時、サン・シール将軍に要請していた部隊が左翼に到着したとの知らせが届けられた。

 正念場に立たされたジュールダンはあらゆる手を尽くす決意を固め、サン・シール将軍から派遣された部隊を除いて総攻撃を命じた。

 しかし、騎兵の大集団を指揮する経験の少なさによりあらゆる突撃は撃退され、四方八方から攻撃を受け退却を余儀なくされた。

 この戦闘時、オーストリア騎兵師団を率いるリーシュ(Riesch)中将は見事な騎兵突撃によりオープール将軍率いるフランスの予備騎兵師団を撃破したと言われている。

 夜が近づくまで両軍から激しい砲撃の応酬が続き、最も激しい戦闘は終結した。

 夜、フランス軍の前衛師団と騎兵師団はトゥットリンゲンの手前、リップティンゲンの背後の高台に位置する森の先端に陣取り、リップティンゲン村を占領した。

 サン・シール将軍は、ヴァンダム将軍を軽歩兵第1半旅団の先頭に置き、後方攻撃と3門の砲兵中隊の配置を命じた。

 当初、ヴァンダム将軍はいくらか優勢に立ったが、オーストリア軍が相当な戦力で対抗したため、撤退を余儀なくされた。

 ジュールダン将軍はオーストリア軍を森の中へ押し留めてノイハウゼンを占領するのを阻止することは不可能であると悟った。

 もしこのままの状況で推移すれば本体とサン・シール師団は分断され、サン・シール師団は包囲の危機に立たされることになると考えられた。

 そのためジュールダンはサン・シール将軍の元に数人の将校を急派し、ジグマリンゲンでドナウ川を渡った後、ドナウ川左岸へ撤退するよう命じた。

 早期の撤退命令が功を奏し、25日の夜、サン・シール将軍は秩序正しく、何の損害もなく撤退を成功させた。

シュトックアッハの戦い 05:オイジンゲン周辺とシュトックアッハ周辺での戦い

 スーアン将軍がアイゲルティンゲンを占領しようとしている頃、フェリーノ師団はオイジンゲンに進軍していた。

 オーストリア軍はオイジンゲン村の背後に軍勢を集め、前方の平地を占領していたフェリーノ将軍の部隊全体と対峙していた。

 フェリーノ将軍は、最初はオーストリア軍に激しい砲撃を行ったが退却させるほどには効果がなかったため、シュトックアッハからアーハへの道を覆う森を攻撃した。

 凄惨で血なまぐさい戦闘となったが、両軍とも決定的なものを何も見いだせずにいた。

 しかし遂にフェリーノ師団はオーストリア軍の前線を撃破してネンツィンゲン(Nenzingen)の先まで追撃し、ネンツィンゲン村を見下ろす高地を占領した。

 フェリーノ師団の前進によりオーストリア軍は急速な撤退を開始し、馬蹄形に布陣してシュトックアッハの右後方(南東方向)に陣取った。

 オーストリア軍の撤退に合わせてフェリーノ師団右翼は前進してヴァルヴィース村を占領した。

 フェリーノ将軍はシュトックアッハの前方(西方向)に20門の大砲を据えたが、弾薬不足のためフェリーノ将軍は砲撃に応えられなかった。

 この時、もしスーアン師団がフェリーノ師団に合わせてネンツィンゲンに進軍し、圧力を増していればカール大公はこれ以上のシュトックアッハの森への増援を躊躇しただろう。

 オーストリア軍はフェリーノ師団の砲撃が弱いと見るや攻勢を開始し、フェリーノ師団を右翼から包囲すべくヴァルヴィースへ進軍した。

 フェリーノ将軍は1個旅団を派遣してヴァルヴィース村にやってきたオーストリア軍を撃退した。

 26日未明、フェリーノ将軍はカール大公がヴァルヴィースの背後に相当な戦力を集結させているのを察知した。

 そのため夜明けとともに撤退した。

シュトックアッハの戦いの後

 フランス軍の総兵力35,000人が約72,000人のオーストリア軍を攻撃したシュトックアッハの戦いにおいて、オーストリア軍の損害は死傷者7,000人、捕虜4,000人、大砲2門であり、フランス軍の損失は死傷者約3,000人だったと言われている。

 このシュトックアッハの戦いでの敗北でドナウ軍に残された選択肢はベルナドット将軍率いるオブザベーション軍との合流までドイツ南西部に広がるシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)の山の麓にあるノイシュタット(Titisee-Neustadt)~シルタッハ(Schiltach)~フロイデンシュタット(Freudenstadt)までの地域に撤退して防衛戦を行うことのみだとジュールダンは考えた。

 ノイシュタットの後ろにはフライブルク、シルタッハの後ろにはオッフェンブルクとストラスブール、フロイデンシュタットの後ろにはラシュタットがあるためこれらの地域の防衛は重要だと思われた。

 スイスのフェルトキルヒ近郊に残されたマッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍はドナウ軍との距離が離れることとなり共闘が困難となるだろうことが予想された。

 しかしフランス軍にひと時の幸運が訪れた。

 カール大公軍の過剰な前進に対するウィーンの宮廷からの非難、ウィーンの宮廷が“戦場の鍵”と見做していたチロルの防衛に対する認識の相違、そして病によりカール大公の活力は奪い去られ、オーストリア軍は分断されたフランス軍を撃破するチャンスを逃すこととなったのである。

 オーストリア軍が前進を開始するのはカール大公が病から回復した後となる。

 マッセナからの撤退命令がルクルブ将軍の元に届いた頃、シュトックアッハの戦いは既に終わっていた。

 マッセナはチロル方面での前線維持は不可能だと考え、デソール将軍にも撤退を命じ、オーストリア軍の拠点をすべて破壊した後、ナウダースとフンスターミュンツから部隊を撤退させ、マルティンスブルックの橋を焼き払った後で帰還した。

 シュトックアッハの戦いで戦死したフェルステンベルク将軍の結婚指輪は回収され、後に妻の元に届けられたと言われている。

ジュールダンの撤退方向についての考察

 シュトックアッハの戦いに敗北したジュールダンはベルナドット将軍率いるオブザベーション軍と合流するためにシュヴァルツヴァルトへの撤退を決断した。

 この時のジュールダンの撤退戦略はオランダからスイスまでの戦線維持を考えてのことだろうと考えられる。

 しかし、少数での防御は、より狭範囲で行うことができる有利な地点で行うこと(兵力の集中)が重要である。

 ジュールダンが決断したシュヴァルツヴァルトへの撤退は広範囲を防衛しなければならない地点であり、例えオブザベーション軍10,000人との合流を果たしたとしても兵力分散を余儀なくされてしまう上にオーストリア軍は兵力を集中できる位置に布陣することができる。

 そのためドナウ軍主力をオブザベーション軍の3倍以上の兵力を擁しアルプス山脈という天然の要害であるスイスにいるヘルヴェティア軍と合流させた方が内線を利用してその後の勝機が見いだせたのではないかと考えられる。