シリア戦役 18:ガザの戦い
Battle of Gaza

ハーン・ユーニスへの到着とアブドラ・パシャ軍のガザへの後退

 フランス軍がハーン・ユーニスに到着すると、そこには大きな庭園があり、井戸水は豊富で質も良く、兵士たちの日々の渇きを満たすだけでなく、革袋を満たすのにも十分な水量があった。

 ハーン・ユーニスを出発するとガザまで井戸がないため、ここから多くの水を運ぶ必要があった。

 マムルーク軍とともにいるアブドラ・パシャ軍はハーン・ユーニスから約4㎞離れたところに布陣していたが、フランス軍がハーン・ユーニスに入ったことを知るとガザに後退した。

 そして、ガザの一部の人々はフランス軍から避難するためにガザの街を離れた。

両軍の構成

1800年代初頭のガザ周辺地図

※1800年代初頭のガザ周辺地図"

 2月25日夜明け、フランス軍はハーン・ユーニスを出発し、北東約23㎞のところに位置するガザ(Gaza)に向かった。

 午前9時、ガザの南東約8㎞のところにある高台をアブドラ・パシャ軍前衛の騎兵隊が占領しているのが見えた。

※恐らく南東ではなく南西。

 フランス軍は何人かの捕虜を捕らえると、アブドラ・パシャ軍の状況を知った。

 この時、アブドラ・パシャ軍は増援を受け、騎兵約6,000騎を含む約12,000人を有していた。

 ボナパルトは、もしエルサレムからの軍とヤッファからの14門の大砲が到着していた場合、アブドラ・パシャ軍は20,000人となるだろうと予想した。

 アブドラ・パシャ軍の歩兵隊は規律が無く、ガザの城壁の内側に配置する必要があるように見えた。

 騎兵隊は、500騎~600騎にまで減少したイブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍、ジェザル・アフマド・パシャのアルバニア騎兵3,000騎、ダマスカス騎兵2,000騎の3種で構成されていた。

 その他に囚人1,000人が従軍していた。

 対するフランス軍はランヌ師団、ボン師団、クレベール師団、ミュラ騎兵隊の合計、歩兵約7,200人、騎兵約800騎で構成されていた。

両軍の配置

1799年2月25日、ガザの戦いにおける両軍の配置【ナポレオンのシリア遠征】

※1799年2月25日、ガザの戦いにおける両軍の配置

 2月25日午後3時、両軍が遭遇した。

 アブドラ・パシャは歩兵隊の多くをガザと幅1,400m~1,600mの谷で隔てられているヘブロン(Hébron)の丘に配置し、少数の歩兵で大砲が配備されたガザの砦を占領し、すべての騎兵隊を左翼に配置した。

 アブドラ・パシャはガザの街に兵力を配置しなかった。

 フランス軍は左翼にクレベール師団、中央にボン師団、右翼にミュラ騎兵隊を配置した。

 アブドラ・パシャの騎兵隊約6,000騎に対し、ミュラ騎兵隊は約800騎で圧倒的な数的劣勢だったため、ランヌ師団は3個の方陣を形成してミュラ騎兵隊を支援した。

ガザの戦いにおけるナポレオンの作戦計画

 フランス軽騎兵が新たに捕虜を捕らえ、エルサレムの軍隊はまだ到着しておらず、ヤッファの砲兵隊は兵員不足のためまだ出発していないとの情報を得た。

 そのためアブドラ・パシャ軍の兵力は10,000~12,000人と大砲2門と考えられ、それに加えてアブドラ・パシャは指揮官としてそれほど脅威ではなかった。

 ボナパルトの作戦は、クレベール将軍はガザとアブドラ・パシャ軍右翼の間にある谷に突撃してアブドラ・パシャ軍右翼の後方に移動し、アブドラ・パシャ軍右翼を切り離す。

 ランヌ将軍の3個方陣に支援されたミュラ騎兵隊はアブドラ・パシャ軍左翼に向かって前進し、ミュラ騎兵隊の後を行くランヌ師団は途中で右に曲がって高地に向かって進み、アブドラ・パシャ軍左翼を迂回する。

 ボン将軍は中央で先頭を進むという計画だった。

ガザの戦い

1799年2月25日、ガザの戦い

※1799年2月25日、ガザの戦い

 ミュラ将軍は騎兵隊と大砲6門を指揮してランヌ師団が形成する3個歩兵方陣の前を進み、アブドラ・パシャ軍左翼に突撃する準備を整えた。

 ミュラ騎兵隊が接近すると、アブドラ・パシャ軍左翼は突撃する素振りを見せたが、すぐに全速力で後退し新たな位置で対峙した。

 ミュラ将軍は部隊を押し進め、アブドラ・パシャ軍左翼を誘導して、突撃を促したり、突撃を待たせたりした。

 しかし、ミュラ騎兵隊が前進するとすぐにアブドラ・パシャの騎兵隊は後退した。

 クレベールの師団はアブドラ・パシャ軍右翼の歩兵隊の一部を撃退し、約20人を殺害した。

 そしてランヌ師団は右の高地を登り始め、アブドラ・パシャ軍左翼を包み込もうとした。

 アブドラ・パシャ軍が右翼と分断され、左翼は包囲の危機に直面した。

 これらフランス軍の機動を見たアブドラ・パシャはすぐに撤退命令を出し、すべての陣地を撤収した。

 その中で、イブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍は撤退支援のため勇敢にも単独で行動し、ミュラ騎兵隊の先頭の3個中隊を撃退した。

 しかし、側面からの攻撃により劣勢となって撤退を余儀なくされ、アブドラ・パシャ軍左翼は夜になるまでには完全に姿を消した。

 トルコ騎兵はアラブ騎兵より多少優れていたが、マムルーク騎兵には大きく劣っており、3倍の兵力でもフランス竜騎兵と争うことはできなかった。

 フランス竜騎兵は剣を構えたまま、アブドラ・パシャ軍左翼を約8㎞追跡した。

 しかしトルコ軍は荷物を持っていないため機敏であり、放棄したのは2門の大砲のみだった。

 イブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍はその後もアブドラ・パシャ軍の撤退を支援した。

 その間、クレベール師団はアブドラ・パシャ軍右翼を追撃しつつ、ガザの街を占領した。

 この戦いでのアブドラ・パシャ軍の損害は200人~300人であり、フランス軍の損害は約60人が死亡、負傷、あるいは捕虜となったと言われている。

ガザの砦の占領

 アブドラ・パシャ軍右翼と左翼は撤退して行ったが、ガザの砦を守っていた部隊は取り残されていた。

 ガザ砦守備隊は立て籠もって抵抗の意思を見せていたため、2月25日夜にフランス軍は砦を包囲した。

 しかし、ガザの住民の説得によって砦の指揮官は26日夜明けに砦を明け渡した。

 フランス軍が砦の中に入ると、そこには3万~4万の火薬と大量のヨーロッパ式の砲弾、大量のビスケットと大麦、12門の大砲、そしてかなり大きなテント倉庫があり、水袋を持った部隊がいた。

シドニー・スミス将軍によるロードス島での手配

 2月下旬、シドニー・スミス将軍がロードス島に到着した。

 そしてロードス島の総督であるハッサン・ベイと会合していくつかの手配を行った後、早々にロードス島から出航しアレクサンドリア沖へ向かった。