シリア戦役 02:ボン師団によるスエズの占領
The capture of Suez by the Bon Division
ジェザル・アフマド・パシャの状況
1798年11月21日までにアブキール湾沖にはイギリスとオスマン帝国の艦船、そして少数のロシアの艦船が停泊していた。
オスマン帝国はロードス島を対フランスの拠点として強化し、陸上では部隊を編成してシリア方面へ派遣しようとしており、まだフランスと本格的に敵対するための準備段階だった。
ロードス島から船で運ばれた書簡は途中で奪われ、フランス本国やオスマン帝国との連絡はほぼ途絶えた。
一方、レヴァントの支配者であるジェザル・アフマド・パシャはフランス軍によるシリア方面への侵攻を警戒していた。
ガザにはマムルーク族600人、マグレブ人800人、そしてクルド人800人~900人が配置されていたがジェザル・アフマド・パシャが保有している兵力のみではエジプトへ侵攻するには少な過ぎた。
尚且つ、オスマン帝国の意向を伺いながら行動する必要があったため単独で軍事行動を起こすことはせず、アッコにある20隻の船舶でアレクサンドリア沖のイギリス艦に水や食糧を供給するなどして支援を行った。
ボナパルトはこの隙を突いて次の戦役に向けて師団を休息させ、軍資金を確保するために税金を上げるよう命じた。
ナポリ王国による休戦協定の破棄とローマ占領

※1798年11月24日、ナポリ王国のローマへの進軍
ナポリ国王フェルデナンド1世は教皇領を征服したフランスに危機感を抱いていた。
そのため周辺各国と同盟を結び、フランスの手から教皇領を回復しようと考え、11月24日、フランスとの休戦協定を破棄し、ネルソン戦隊の支援を受けてローマへと進軍した。
ナポリ国王フェルデナンド1世はナポリ王国軍総司令官でありオーストリアの将軍であるカール・マック(Karl Mack)とともにラツィオ州に侵入した。
ナポリ王国軍の総兵力は67,000人であり、その内20,000人がアドリア海に沿って北上し、7,000人がネルソン戦隊とともにリヴォルノへ向かい、40,000人がマック将軍とともにローマへ向かった。
対するシャンピオンネ将軍率いるフランス軍の総兵力は約32,000人だったが、砲兵は不足し、8,000人しか武装していなかった。
加えてイタリア中部では約16,000人の兵力を分散させて治安維持と防衛任務を行なっていたため、ローマに残されていた兵力は僅か2,000人ほどだった。
圧倒的劣勢を悟ったシャンピオンネ将軍はローマの中心を流れるテベレ川沿いにあるサンタンジェロ城(Château Saint-Ange)に少数の兵力を残して撤退した。
11月27日、テルニの戦いで1,500人を率いるルイ・ルモワーヌ将軍の奇襲作戦が成功し、ローマに向かっているナポリ王国軍の右翼の一部である4,000人の部隊を撃退した。
テルニの戦いでの敗北にもかかわらず、マック将軍はローマへの進軍を続けた。
11月29日、マック将軍率いるナポリ王国軍はローマを占領し、ローマ共和国の終焉と教皇ピウス6世の権力の回復を宣言した。
このナポリ王国の強気な態度には理由があった。
イギリスによるナイルの海戦での勝利によりナポリ王国にとっての悪魔であるナポレオン・ボナパルト将軍がエジプトに閉じ込められたのに加え、ロシア及びイギリスと同盟を締結したことがローマへ進軍した大きな要因だった。
しかし、その後シャンピオンネ将軍は分散していた兵力を集結させ、数的劣勢にもかかわらずナポリ王国軍をラツィオ州から追い出し、ナポリへ攻め上った。
フランス本国との連絡線の再確立のための計画

※1798年11月29日、ナポレオンによるフランス本国との連絡線再確立計画
アレクサンドリア沖のイギリス戦隊は増えてはいるもののまだ数が少なく、当面の目標はアレクサンドリアの封鎖を行ないつつ周辺地域を警戒するのみであるように見え、ダミエッタ周辺は手薄だった。
11月29日、ボナパルトはマルタのヴィルヌーブ艦隊と連携を取って本国との連絡を再確立させ、ヨーロッパやトルコ、そして地中海の情勢を手に入れるためにガントーム少将にアレクサンドリアから4隻で構成される船団を派遣するよう命じた。
船団は途中で別れ、1隻目をマルタに、2隻目をコルフ島に、3隻目をアンコーナに、4隻目の立派な艦船をトゥーロンに派遣する計画だった。
マルタへの船にはヴィルヌーヴ艦隊に対してアレクサンドリアのサミュエル・フッド戦隊を排除するよう命じる書簡を持たせ、コルフ島への船にはコルフ島で手に入る情報を送るよう命じ、アンコーナへの船にはアンコーナに停泊しているフランス艦船の情報とイタリアとフランスの新聞を送るよう命じた。
そしてトゥーロンへの船にはチュニジアとマルタ島の間を通り、サルディーニャ島から離れて通過し、コルシカ島とメノルカ島の間を通ってトゥーロンに行き、軍司令官宛にエジプトの状況を送るよう命じた。
トゥーロンへの船には、もし風に不安を覚えたり、敵の知らせがあれば、コルシカ島かスペインの港に避難するよう注意した。
しかしアレクサンドリア沖はイギリス戦隊によって封鎖されており、隙を見て出航する必要があった。
ボン師団によるスエズ占領

※ボン師団によるスエズ占領
12月1日、ボナパルトはボン将軍に、翌2日にビルケット・エル・ハギー(Birket el Hàggy)に行き、3日の日暮れ前にビルケット・エル・ハギーを出発して可能な限り早くスエズへ向かうよう命じた。
ボン将軍は大砲2門と1,500人の兵士を率いてカイロを出発した。
そして12月4日、ダヴー将軍に騎兵1,200騎を率いて6日朝に出発し、10日にベニ・スエフに到着するよう命じた。
目的はドゼー師団と協力してムラード・ベイを追跡することだった。
一方、ボン将軍の行軍は少し遅れており、ビルケット・エル・ハギーを4日朝に出発し、7日にスエズに到着した。
ナポレオンの義理の息子であるウジェーヌ・ボアルネ少尉が、前衛の先頭に立ってスエズに入った。
ボン師団はスエズを抵抗無く占領できたと言われている。
その後、ボナパルトは要地であるスエズに大砲と物資を送り、スエズの防衛強化の準備を行なった。
スエズ周辺がフランス軍の支配下に入ったことによりイブラヒム・ベイとムラード・ベイの連絡はシナイ半島の砂漠と紅海に阻まれ、困難をともなうものとなった。
関連する戦いRelated Battle
- 第一次イタリア遠征(1796年4月~1797年10月)Italian Campaign( April 1796 - October 1797 )
- ローマ占領(1797年12月~1798年2月)Occupation of Rome( December 1797 - February 1798 )
- エジプト遠征の前(1798年1月~1798年5月)before the invasion of Egypt( January - May 1798 )
- マルタ戦役(1798年5月~1798年6月)Malta Campaign( May - June 1798 )
- エジプト戦役(1798年6月~1798年11月)Egypt Campaign( June - November 1798 )