シリア戦役 26:ハイファの占領とアッコへの進軍
The Occupation of Haifa
カルメル山越え

※カクーンからアッコの地図
1799年3月16日、クレベール師団はカルメル山を登ってハイファへ向かい、ランヌ師団はサバリン(Sabarin)に早めに到着してカルメル山(Mount Carmel)の登り口に野営した。
ボン師団はサバリンの南約8㎞ほどのところにあるハニエ(Haniéh)村の近くに野営した。
カルメル山の右にはアブドラ・パシャが撤退して行ったエスドラエロン平原が見えていた。
標高525.4mのカルメル山は四方を険しい丘陵地に囲まれている強固な軍事拠点となっている場所で、海岸全体を見渡すことができるためシリアに接近する船乗りたちの偵察地点として機能していた。
ハイファ(Haifa)の西から南東に約35㎞続いている山岳地帯であり、東にあるエスドラエロン平原に出るにはナザレの南約8㎞のところにあるアフラ(Afula)に向かう道を通るか、サバリンからヨクネアム(Yokne'am Illi)へと続く道を通る必要があった。
※当時、ヨクアネムはキーラ・ワ・カムン(Qira wa Qamun)と呼ばれていた。タルムード(ユダヤ教ラビ派の聖典)にはアダムとイブの息子カインがこのキーラで曾孫のレメクに殺害されたという伝承が残されている。
山頂には修道院と噴水があった。
ヤッファを離れたことが良かったのか熱病患者は発生は沈静化し、フランス軍は順調に行軍を続けた。
マッセナの辞表提出騒動
一方、ヨーロッパ本土では、ヘルヴェティア軍をジュールダン将軍の指揮下に置くことが決定されたという内容の書簡がマッセナの元に届けられていた。
バラスにはバラスの考えがあったが、マッセナとヘルヴェティア軍にとってこの布告は有害だと考えられた。
バラスはマッセナに対してお世辞を並べ立てたが、実質的な降格であり、グラウビュンデン地方を征服しチロル地方への侵攻も目前に迫っていたヘルヴェティア軍にとって時期も悪かった。
そのため3月16日、マッセナはこの書簡を読むと激怒し「自分の行動を的確に指揮できない将軍に服従させるのは不当であり、好機ではない」と総裁政府宛に辞表を送り付けた。
しかし、総裁政府はマッセナに引き続きヘルヴェティア軍を率いるよう要請し、マッセナも総裁政府が譲らないことをみるとジュールダンの指揮下に加わることを承諾した。
この時のマッセナの心情は怒りと苛立ちに満ちていたと言われている。
そしてこの時までに、クールにいたマッセナはジュールダンがシュトックアッハとオストラッハの間に軍を駐留させていることを知り、同時にオーストリア帝国への宣戦布告文の内容と、要塞化されたフェルトキルヒへの速やかな攻撃命令を受け取っていた。
ジュールダンとマッセナの考えの相違
ドナウ軍の進軍はオストラッハで停止し、カール大公軍と対峙していた。
ジュールダンはマッセナがフェルトキルヒを占領するまで進軍を控えていたのだが、マッセナはジュールダンがブレゲンツの高地に達するまでフェルトキルヒを攻撃するつもりは無かった。
加えてフェルトキルヒは堅固な要塞と化しており、準備を整える必要があったため攻撃準備に時間を要していたのである。
ジュールダンはヘルヴェティア軍がフェルトキルヒを占領すればチロルとホッフェ師団の連絡線を脅かすことができるようになるため、ホッフェ将軍はボーゲン湖東端に位置するブレゲンツからの撤退を余儀なくされると考えていた。
そうすればドナウ軍はヘルヴェティア軍の支援を受けてカール大公軍とホッフェ師団を圧迫できるのである。
そのためマッセナに対して早急にフェルトキルヒを攻撃するよう要請した。
ナウエンドルフ師団とカール大公本体の合流
一方、カール大公軍本体の前衛部隊は3月17日までにバート・ブーハウ(Bad Buchau)、アルツハウゼン(Altshausen)、バート・ヴァルトゼー(Bad Waldsee)にまで前進し、カール大公はビーベラッハに本部を置いていた。
アルツハウゼンからホスキルヒまで約7㎞であり、時間が経つにつれて目の前のオーストリア軍は増加していくだろうと予想された。
ジュールダン将軍が率いる兵力は前衛師団を含めて38,000人であり、オーストリア軍のナウエンドルフ将軍は前衛師団17,000人を率いていた。
湿地が広がるこの戦域でジュールダンが勝利を収めるためにはカール大公本体が合流する前にナウエンドルフ師団を各個撃破する必要があったが、ジュールダンは時間を浪費し過ぎており、カール大公軍本体は急速にナウエンドルフ師団と合流しつつあった。
戦いの序盤はフランス軍が優勢に進軍していたが、この時、その情勢は転換点を迎えようとしていたのである。
ハイファの占領
ヤッファを出港した船団と合流するためには早急にハイファを占領することが重要だった。
3月17日、クレベール師団は僅かな抵抗の後、ハイファを占領した。
ボナパルトは夕方5時にハイファに入城した。
ハイファにはビスケット、米、油などの食料15万食分の備蓄が残っていたが、大砲はジェザル・アフマド・パシャによって撤去されていた。
カルメル山のエスドラエロン平原側の麓にはキション(Kishon)川が南から北に向かって流れており、ボン師団はカルメル山を越えキション川の左岸(西側)に陣取った。
※聖書には神話の時代にキション川周辺で行なわれたカルメル山の戦いやメギドの戦いなどが書かれている。メギドの丘はハルマゲドンの場所とされている。
ボン師団の後方にはカルメル山、左側約12㎞のところにはハイファがあった。
レイニエ師団はカルメル山西側の登り口で野営した。
そして、ボナパルトは夜の間にキション川に2つの橋を架けた。
シドニー・スミス将軍によるキション川河口周辺での海岸線への襲撃

※1800年代初頭のハイファ周辺地図
3月17日、シドニー・スミス将軍はティーグルに搭載されているボートでアッコ港を出航し、ハイファ港の近くに停泊した。
目的はハイファからアッコまでの海沿いの道を通るだろうフランス軍を攻撃し、フランス軍の進軍を少しでも遅滞させるためである。
シドニー・スミス将軍はフランス軍がそこを通ると確信めいた予感があった。
17日夜、イギリス軍はフランスの前衛部隊が海沿いをゆっくりと前進しているのを発見した。
彼らはロバとヒトコブラクダに乗っており、奇抜で、そしていくぶん異様で気味の悪い恰好をしていた。
フランス部隊の接近を確信したシドニー・スミス将軍は大急ぎで戦列艦ティーグルに戻り、直ちにブッシュビー(Bushby)中尉を砲艦に乗せ、アッコ湾に流れ込むキション(Kishon)川の河口へと派遣した。
シドニー・スミス将軍はブッシュビー中尉にキション川の浅瀬を全力を尽くして守り抜き、フランス軍がこの道を通ってアッコへ進軍するのを決して許さないよう厳命した。
3月18日の夜明けとともに、ブッシュビー中尉はシドニー・スミス将軍の意図を理解することとなる。
アッコへの進軍
3月18日、クレベール師団は守備隊を残して夜明けとともにハイファを出発し、アッコ平原全体と市街地を見下ろすモスクのある山に向かって進軍した。
ボナパルトはハイファから約10㎞離れているアッコ港を観察し、その沖合にシドニー・スミス代将が指揮する戦列艦「ティーグル(Tigre)」と「テセウス(Thésée)」を発見した。
これら2隻の戦列艦はコンスタンティノープルを出発した後、ロードス島とアレクサンドリア沖に寄り、3月16日にアッコ港に到着していた。
ボナパルトはイギリス戦列艦の危険を知らせるために、騎兵隊をタントゥーラ(Tantura)に向かわせた。
騎兵隊はタントゥーラの北約2㎞の海岸線で輸送船団を発見し、アッコ周辺を巡回しているイギリス戦列艦の存在をフランスの輸送船団に警告し、軍がハイファ港を占領したことを知らせた。
※タントゥーラ(Tantura)は現在のジフロン・ヤアコヴ(Zikhron Ya'akov)である。
一方、キション川の河口でフランス軍を待ち受けていたブッシュビー中尉は、夜明けにハイファからキション川に向かうフランスの前衛部隊を発見した。
この奇妙なロバとヒトコブラクダに乗った前衛部隊は、予想外にも激しい砲火を浴びせられ、大混乱の中、船に近づくこともできず、岸からも追い払われた。
浅瀬では、人間だけでなくヒトコブラクダやロバも大勢倒れ、全軍が大混乱に陥り、カルメル山の麓に散り散りになった。
この撃退で教訓を得たフランス軍主力は、この攻撃以降、この危険な海岸沿いの道を避け、砲艦が守る危険な浅瀬を慎重に迂回し、同様の攻撃から逃れるためにより内陸側のナザレへ繋がる街道を通ってアッコへ進軍することを余儀なくされた。
その後、若干遅れながらもクレベール師団は午前の内に再びハイファを出発し、正午にはボン師団がアッコに向かって進軍し、キション(Kishon)川に架けられた橋を渡って北上した。
フランス軍は前衛クレベール師団、ボン師団、ランヌ師団の一部、後衛レイニエ師団の順でアッコへ向かっており、ランヌ師団は一部を除きハイファに留まっていた。
そして夕方、ボン師団はベルス(Bélus)川のほとりにあるシェルダム(Cherdâm)の製粉工場に到着し、歩兵隊はそこを通過してさらに川に沿って北上した。
ベルス川はキション川の先にある橋の無い川であり、ボン師団はベルス川のほとりにあるシェルダムのさらに北のデクエ(Dekueh)に陣地を構え、クレベール師団はさらに北で野営していた。
デクエからアッコまでは徒歩で約2時間の距離があった。
ベシェール大佐は200人の衛兵と大砲2門を率いてベルス川を渡り、右岸に前衛の陣地を構えた。
この日の夜、総司令官のテントは、ベルス川の左岸側、海から約2㎞離れたところに設置され、桟橋の建設者たちはベルス川に2つの橋を建設した。
ジュールダン将軍率いるドナウ軍の動向
ジュールダン将軍は3月18日までにオストラッハを見下ろす高地にあるフレンドルフ(Pfullendorf)に本部を置いていた。
ドナウ軍右翼8,000人を率いるフェリーノ将軍はマルクドルフ、中央約7,000人を率いるスーアン将軍はジュールダン将軍とともにあり、左翼7,000人を率いるサン・シール将軍はジークマリンゲン(Sigmaringen)に位置していた。
3月11日からこれまでに行われた小競り合いでオストラッハを失っていた前衛師団9,000人を率いるルフェーブル将軍は再度オストラッハを占領しようとしていた。
オープール将軍率いる予備騎兵隊3,000騎はフレンドルフに接近してきており、ヴァンダム将軍率いる最左翼3,000人はドナウ川北岸側にいた。
この日、カール大公はビーベラッハ(Biberach)近郊におり、ロイス師団はバート・ヴァルトゼー(Bad Waldsee)とエッセンドルフ(Essendorf)を経由して本体との合流を果たした。
※エッセンドルフ(Essendorf)にはオーベルエッセンドルフ(Oberessendorf)とウンターエッセンドルフ(Unteressendorf)がある。経路的にその両方のエッセンドルフを経由したはずである。
ホッツェ将軍の後退とマッセナ将軍のフェルトキルヒへの攻撃の決断
3月18日、ホッツェ将軍はボーデン湖の北岸にあるマルクドルフ(Markdorf)の前にドナウ軍右翼を指揮するフェリーノ(Pierre Marie Barthélemy Ferino)将軍の前衛部隊が到着したことを知った。
そのためホッツェ将軍は3月19日にフェルトキルヒとブレゲンツを守っていた部隊の一部を撤退させ、リンダウ(Lindau)とロッハウ(Lochau)の間のライプラッハ(Leiblach)川の背後に8個大隊と6個中隊約9,500人を率いて陣地を築き始めた。
ブレゲンツには5個大隊と騎兵700騎、ドルンビルンには1,200人~1,500人の兵士を残し、フェルトキルヒの塹壕陣地の防衛をイェラチッチ(Franjo Jelačić)将軍が指揮する5個大隊と2個中隊約5,500人に委任した。
これを見たマッセナはフェルトキルヒへの攻撃を決断した。
しかし、カール大公もヘルヴェティア軍の動きを察知しており、ドナウ軍とヘルヴェティア軍の合流を阻止するためにすでに前進を決断していた。
イギリスの戦列艦の脅威とランヌ師団のガリラヤへの出発
3月19日の夜明け、ダミエッタから来た食糧を積んだ8隻のフランスの輸送船がハイファ港に入った。
しかし包囲部隊と攻城砲を乗せた12隻の護衛船団は2隻のイギリス戦列艦を見て躊躇し、海上でしばらく待機した後、引き返した。
このイギリス戦列艦は「ティーグル」と「テセウス」であり、指揮していたのはシドニー・スミス代将だった。
フランスの護衛船団の構成はフリゲート艦1隻と砲艦11隻の合計12隻で構成されており、戦列艦2隻と戦うのは無謀だった。
イギリス戦列艦は引き返したフランスの護衛船団を追跡し、ハイファ港から見える範囲から姿を消した。
包囲部隊と攻城砲を乗せた12隻のフランス護衛船団が逃げ切り陸路でアッコに向かうことができればいいが、もし捕獲された場合アッコ包囲の戦力が減少してしまうことが予想された。
もしイギリスの戦列艦に襲われて損害が出たとしてもハイファ港に配備された大砲によって対抗が可能であり、ボナパルトはハイファに入港しなかった護衛船団の指揮官に苛立ちを覚えた。
この日の朝、ランヌ将軍はシェファ・アムル(Shefa Amr)村に向かい、ナザレなどの村に書簡を送ってガリラヤ地域をフランス軍に従わせ、その後に本体と合流するよう命じられた。
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