シリア戦役 13:ナポレオンのカイロ出発とレイニエ将軍の夜襲作戦
General Reynier's Night Attack

ナポレオンのカイロからの出発

 1799年2月9日、レイニエ師団がエル・アリシュで戦っている頃、ボナパルトはカイロにいてアレクサンドリアからの急使を迎え入れていた。

 急使は、2月3日にイギリス戦隊に数隻の艦船が加わり、アレクサンドリアの港と市街地を砲撃していることを伝えた。

 イギリス戦隊のアレクサンドリアへの攻撃は、オスマン帝国軍とイギリス海軍によるエジプト奪還計画において、フランス軍の兵力の分散を目的としていた。

 実際、アレクサンドリアへの砲撃は数隻の輸送船を沈めた以外の戦果がほとんどなかったにも関わらず、イギリス戦隊はアレクサンドリアへの砲撃を継続していた。

 報告を聞いたボナパルトはイギリス戦隊の攻撃は陽動であることを瞬時に見抜いた。

 そのためシリア遠征のための兵力を分散させることなく、翌10日に側近とともにカイロを出発し、その日の夜、ベルベイスで眠った。

ナポレオン本体のカティアへの移動

1799年2月11日、ナポレオン本体のベルベイスからの出発

※1799年2月11日、ナポレオン本体のベルベイスからの出発

 2月11日、ベルベイスのランヌ将軍は午前7時にアル・クレイン(Al Qurain)に向けて出発し、騎兵隊は8時に出発し、アル・クレインの左にある村々に陣取る予定であり、翌日にはエル・サルヘイヤへ向かうことになっていた。

 ベルベイスにあるボナパルトの本部もランヌ師団と同じく7時に出発し、護衛騎兵は8時に出発した。

 同日、エル・サルヘイヤのボン将軍に、2月12日に師団を率いてカティアへ出発するよう命令した。

 ボン師団はランヌ師団よりも先行しているため、同時にカンタラ(Kantara)運河の通路を修復するよう命令を受けた。

 ミュラ将軍の900騎以上の騎兵隊も出発し、2月12日の夕方にはサルヘイヤに到着する予定となっていた。

 フランス軍主力は、ボン師団、ランヌ師団、ミュラ騎兵隊の順で急速にカティアへ向かって移動していた。

 2月11日、ボナパルトはアル・クレインのヤシの木の下に野営地を定めた。

 そしてテントを張った直後、レイニエ将軍がメソウディアの井戸から派遣しヒトコブラクダに乗った急使に持たせた書簡を受け取った。

 そこには圧倒的優勢な兵力だと考えられるアブドラ・パシャ軍の本体がエル・アリシュに接近しつつあることが書かれていた。

 このレイニエ師団の危機的状況を知ると、ボナパルトはすぐにヒトコブラクダに乗ってアル・クレインを去り、行軍速度を上げてエル・アリシュへ向かった。

アブドラ・パシャ軍本体のエル・アリシュへの到着

1799年2月11日夜、アブドラ・パシャ軍本体のエル・アリシュへの到着

※1799年2月11日夜、アブドラ・パシャ軍本体のエル・アリシュへの到着"

 レイニエ師団がエル・アリシュ砦を封鎖している時、エル・アリシュへの補給を目的としたアブドラ・パシャ軍の輸送隊とそれを護衛する騎兵隊、そしてアブドラ・パシャ軍本体がエル・アリシュに接近してきていた。

 2月11日夜、アブドラ・パシャ軍本体8,000人がエル・アリシュに到着し始め、エル・アリシュから撤退したマムルーク軍の後ろに陣取って合流した。

 そしてフランス軍によってエル・アリシュの村が占領され、砦が包囲されていることを知ると約2㎞の距離を取って布陣し、後続を待った。

 一方、レイニエ師団の立場は危険になりつつあった。

 エル・アリシュを封鎖している師団の兵力は2,000人を下回り、対するアブドラ・パシャ軍8,000人が続々とエル・アリシュから約2㎞離れたところにある地点に集結し始めていた。

 そしてレイニエ師団より1日遅れでカティアを出発したはずのクレベール師団は砂漠の行軍に慣れていないためか、未だエル・アリシュに到着していなかった。

 数的不利な状況は明らかだった。

 エル・アリシュ砦を封鎖しているレイニエ師団の兵士達は危険な状況の中で一夜を過ごした。

クレベール師団のエル・アリシュへの到着

 2月5日にカティアに到着し、翌6日に出発したクレベール師団は、2月12日朝にようやくエル・アリシュに到着した。

 この時、レイニエ師団は2,000人を下回り、クレベール師団は2,349人であり、合計しても4,000人を上回る程度の兵力しか有していなかった。

 しかもエル・アリシュ砦にはアブドラ・パシャ軍前衛約2,500人が立て籠もっており、砦を封鎖する兵力を除くと約2,000人ほどしか動員できない状況だった。

 それにも関わらずレイニエ将軍は午前中の内にクレベール師団とエル・アリシュ砦の封鎖を交代し、アブドラ・パシャ軍に対抗するためにワディ・アル・アリシュの左岸にあるヤシの森に師団を集結させた。

ナポレオンのカティアへの到着

シリア遠征:エジプト軍総司令官ボナパルト

※「シリア遠征:エジプト軍総司令官ボナパルト(Bonaparte, général en chef de l'armée d'Egypte (campagne de Syrie))」。オーギュスト・ラフェ(Auguste Raffet)作。1835年頃。ナポレオンがラクダに乗って砂漠を越えシリアへ向かう場面。

 2月12日、ボナパルトはエル・サルヘイヤに到着した。

 この時点で、ボン将軍指揮下のランポン旅団はまだビルケト・エル・ハギーにおり、ボナパルトはすぐにエル・サルヘイヤに来るよう命じた。

 先行するボン師団はすでにカティアに到着しており、エル・アリシュへ出発しようとしてた。

 翌13日、ボナパルトはランヌ師団とミュラ騎兵隊とともにカンタラを通過してカティアに到着し、ランポン旅団はその後を行軍していた。

レイニエ将軍の夜襲作戦

1799年2月14日夜~15日未明、レイニエ将軍の夜襲作戦

※1799年2月14日夜~15日未明、レイニエ将軍の夜襲作戦

 レイニエ師団の前にいるアブドラ・パシャ軍本体の数は2月13日まで増加を続け、数が増えるにつれて騎兵隊の数的優位によってその行動は徐々に大胆になっていった。

 アブドラ・パシャ軍本体は非常に急峻な渓谷に覆われた台地に布陣しており、その場所の地の利を疑わなかった。

 レイニエ将軍は13日と14日を地形の偵察、準備、部隊の指揮を執る各士官への指示に費やし、アブドラ・パシャ軍本体への攻撃計画を立案した。

 2月14日夜11時、レイニエ将軍は野営地を離れ、右に進軍して渓谷(ワディ・アル・アリシュ)を4㎞ほど遡った後、東に方向転換して渓谷を通過した。

 日付は変わり、レイニエ師団は左を渓谷、右をシリア方面にしてアブドラ・パシャ軍を左側面から攻撃できる準備を整えた。

 レイニエ将軍は深い暗闇と静寂の中で部隊を大隊ごとに3つの縦隊を編成し、各縦隊には展開できる距離を保たせ、その間に砲兵を配置した。

 そして各縦隊は敵から200歩離れたところに歩兵を集結させて、これに50人の騎兵を加え、これにより各分遣隊の兵力は200人となった。

 その後、レイニエ師団は最大の静寂を保ちながら出発した。

 レイニエ将軍は最初の歩哨を発見するとすぐに立ち止まって部隊の位置を修正し、レイニエ将軍の合図で3つの歩兵分遣隊が3方向からアブドラ・パシャ軍のただ中に突撃した。

 レイニエ将軍は自軍と敵軍を見分けるために、各部隊に数個の暗いランタンを配布し、兵士は各々腕に白いハンカチを巻かせていた。

 それに加えて実際の戦闘現場では、言語の違いにより敵と味方の識別がより容易となっていた。

 すぐにアブドラ・パシャの陣営に警報が鳴り響いた。

 レイニエ将軍は3つの分遣隊の内の中央の隊列とともにパシャの天幕に到着したが、パシャは馬に乗る余裕さえなく徒歩で逃亡していた。

 イブラヒム・ベイ軍所属のカシム・ベイ含む2人のベイと数人の指揮官が捕らえられ、アブドラ・パシャ軍の損害は死者400人~500人、捕虜900人であり、すべてのラクダ、馬の大部分、すべての天幕と物資を奪われた。

 アブドラ・パシャは恐怖に駆られて逃亡し、エル・アリシュから約50㎞離れたハーン・ユーニス(Khan Yunis)でようやく部隊を集結させた。

 対するレイニエ師団の損害は死者3人、負傷者15人~20人だったと言われている。

 その後、レイニエ師団は17日までアブドラ・パシャの陣地があった位置に陣取り、クレベール師団によるエル・アリシュの封鎖を護衛した。

 この戦いでの勝利により、レイニエ将軍のエル・アリシュの戦いでの不名誉は返上された。