シリア戦役 10:ドゼー師団によるムラード・ベイ軍の追跡行
The pursuit of Mourad Bey's army by the Desaix division

ドゼー師団のテーベ到着

1799年1月24日、ドゼー師団のテーベ到着

※1799年1月24日、ドゼー師団のテーベ到着

 ムラード・ベイはナイル川を遡って撤退を続けた。

 ヤンブーのハッサンはナイル川を渡ってケナに向かい、すでにクセイルに上陸していたヤンブー守備隊の第2隊を待つことにした。

 エルフィ・ベイはナイル川を渡って右岸を北上し、ソハーグの東に位置するアフミーム(Akhmim)の上のオアシスに逃れた。

 1月23日午前1時、ドゼーは散らばって逃亡しているムラード・ベイ軍の残骸が再集結するのを阻むために、一瞬の猶予も与えてはならないと考え、ナイル川の左岸に沿って追跡を続け、この日の内にデンデラに到着し神殿複合体の中心で野営した。

 24日ナイル渓谷に突き出たテーベ丘陵地帯を回った後、ドゼーは眼前に有名なテーベの遺跡を見た。

※テーベは現在のルクソール。

 ホメロスが「百の門を持ち、二万の戦車が一度に出発できる都市」と歌ったテーベは、ナイル川の両岸に広がるその広大な囲い地をフランス軍に見せつけていた。

 西側にはメムノニウムとメディネト・ハブの遺跡があり、テーベの遺跡群を調査するのに数時間が費やされた。

 ドゼー将軍は、参謀とともに、大通り、オベリスク、墓、象形文字が残るこの静かな地域を旅した。

 これらの地域は、王の権威、神の力、偉大な民族の才能を誇示しているようだった。

 ドゼーはカルナック神殿の石に自らの名前を刻み、翌25日の日の出頃には太陽の最初の光がメムノンの巨像を響かせ、古代から語り継がれているあの音を聞こうとした。

※古代ローマ時代の地理学者ストラボンによると、メムノンの巨像は2体あり、正面右側の巨像は紀元前27年の地震によりヒビが入り、夜明けになると、うめき声や口笛のような音を発したと言われている。ハドリアヌス帝とその妻サビナは130年にメムノンの巨像を訪れ、「日の出後の最初の一時間のうちに、メムノンの声を2度聴いた」という証言を残している。

 ドゼーはボナパルトにデンデラとテーベについて、「上エジプトを横断中、我々は非常に美しい古代遺跡を大量に発見しました。 特にテーベの遺跡とテンティラ(デンデラ)神殿の遺跡は人類の知恵の傑作であり、全世界の賞賛に値するものです。」との報告書を送ったと言われている。

ドゼー師団のエスナへの到着

1799年1月25日夕方、ドゼー師団のエスナへの到着

※1799年1月25日夕方、ドゼー師団のエスナへの到着

 ドゼー師団はギリシャ人がディオスポリス・マグナ(神々の都市)と名付けたこの壮大な廃墟の大都市で一日休息し、翌25日にマムルーク軍の追撃を再開した。

 アルマント(Armant)を通過して2つの山の間の川幅が狭くなるところを通り、アスフォン(Asfoun)といった他の歴史的な場所を通過し、その日の夕方にエスナに到着した。

 ムラード・ベイ軍は急いで逃亡し、荷物やテントを燃やし、いくつかの軍に分かれて行動した。

 ムラード・ベイ、ハッサン・ベイ、および他の8人のベイはマムルーク軍とともにエドフ方向へ逃れた。

 ドゼーはエスナを占領し、そこに要塞を築き、倉庫、商店、大きな病院を設立した。

オスマン・ベイ軍の分離

 ムラード・ベイがエドフに到着したところで、これまで忠実に付き従ってきたオスマン・ベイが配下のマムルーク騎兵250騎とともにナイル川の対岸にある故郷(エル・ラディシア(El Radisia)周辺地域)に潜むことを申し出た。

 ムラード・ベイはこれを許可した。

 サマヌードの戦いの直後にエルフィ・ベイが、ケナではヤンブーのハッサンが、そしてエドフではオスマン・ベイがムラード・ベイの元を離れた。

 しかし、彼らは離反したわけではなく、フランス軍を打ち倒すという意思を共通認識として心に秘めていた。

ドゼー師団のエドフへの到着

1799年1月26日、ドゼー師団のエドフへの到着

※1799年1月26日、ドゼー師団のエドフへの到着

 1月26日、ドゼーが行軍を続けると、 コプト正教徒の行列が師団に同行してディオクレティアヌス帝の命令で虐殺された殉教者たちが埋葬された場所に建てられた教会へ向かい、共和国軍の前でダビデの賛美歌が歌われた。

※西暦303年、ディオクレティアヌス帝の御世、キリストへの信仰を告白したソリス、ホルマン、アバヌーファ、シェンタスの4兄弟とそれを庇った母ドラギがアンセナの総督アルシアヌスによって虐殺された。その教会は、「殉教者、母ドラギと4人の子供たちの教会(Church of the Martyr Mother Teulogia and her Four Children)」である。

 ナイル川を上るにつれて、谷は狭くなり、航行はより困難になっていった。

 フリアンは旅団と共にエスナに留まり、ムラード・ベイと離れたエルフィ・ベイとヤンブーのハッサンの軍を監視し、ドゼー師団の後方を警戒した。

 師団はエドフ・・・古代ローマ時代にはアポロノポリス・マグナと呼ばれた地に到着した。

 エドフはエスナの南約40km離れたところにある大きな町で、川の流れを見下ろす高台に建てられたエドフ神殿の遺跡があった。

 住民たちはそれを城塞と呼んでいた。

 ドゼー将軍はこれらの遺跡の見学にたった1時間しか与えなかったため、エドフ神殿の囲いの外輪を1周しただけで時間は過ぎ去り、すべてを見学することはできなかったと言われている。