シリア戦役 25:カクーンの戦いとシドニー・スミス将軍のアッコへの到着
Battle of Qaqun
カクーンの戦い

※1799年3月15日、カクーンの戦い

※1800年代初頭のナブルス周辺地図
1799年3月14日夜明け、ボナパルトはヤッファの野営地を撤収するよう命じた。
ボン師団とランヌ師団および司令部はヤッファを出発して徒歩7時間の距離を歩き、夕方にメスキでクレベール師団と合流した。
ヤッファとラムレの指揮権は副官のグレジュー(Grezieux)将軍に与えられていた。
※グレジューはナポレオンの副官の1人であり、ピラミッドを観光した際に護衛部隊を指揮していた将軍である。
15日、ゼイータ(Zeitah)に向かって進軍し、正午、クレベール師団がカクーン(Kakoun)にある隊商宿に到着した。
※現代地図ではゼイータ(Zeita)という村がカクーンの北東のハイファへの道沿いに存在する。おそらくその村に塔があったのだろう。そしてカクーンの当時のアルファベット表記は「Kakoun」や「Qaqun」などがあり、現代地図では「Qaqun」となっている。
クレベール将軍は、戦闘隊形を組んだ4,000人のナブルス(Nablus)人に支援されたアブドラ・パシャ軍がアッコへの道と平行して進んでいるのを見た。
※ナブルス(Nablus)はエルサレムの北約49kmのところに位置する街。ただここで言うナブルスは、ナブルスの街を含む行政区域としてのナブルスだと考えられる。
4,000人のナブルス人(Naplousien)で構成される軍は山岳地帯で左翼を形成し、アブドラ・パシャ軍2,000騎はコルソウム(Korsoum)の高地で右翼を形成していた。
※コルソウム(Korsoum)とは、恐らくデイル・アル・グスン(Dayr al-Ghusun)のことだと考えられる。
アブドラ・パシャの計画はフランス軍の側面に陣取って進軍を阻止し、ナブルス軍の布陣する山岳地帯にフランス軍を誘導して進入させ、アッコへの進軍を遅らせることだった。
フランス軍はクレベール師団を左翼、ランヌ師団を右翼、ボン師団を予備軍として配置し、左翼を前進させた。
クレベール師団とボン師団は方陣を形成してアブドラ・パシャ軍に向かって進軍したが、アブドラ・パシャ軍は戦闘を避けて野営地を撤収した。
ランヌ師団は、アブドラ・パシャ軍の右翼へ移動して(退路を)遮断し、山岳地帯に入ることなくアッコかダマスカスへ撤退させるよう命令された。
ランヌ将軍は熱意のままに前進した。
そして岩の間へ退却するアブドラ・パシャ軍右翼を追跡し、ナブルス軍を攻撃して敗走させた。
軽歩兵はナブルス軍を追って出発し、山岳地帯に侵入してかなり前方に突進した。
総司令官は、目的もなく行われていた戦闘を中止し撤退せよという命令を何度も繰り返さざるを得なかった。
ランヌ将軍はついに従い、ナブルス軍の追跡をやめた。
しかし、ナブルス軍はこのランヌ師団の後退を敗走とみなし、今度は逆にランヌ師団の軽歩兵隊を追跡し、自分たちが熟知している岩の真ん中で有利に射撃を行った。
ランヌ師団は軽歩兵隊を支援し、ナブルス軍を平原に誘い込もうとした。
しかし、ナブルス軍は山の入り口で停止した。
その後、アブドラ・パシャ軍はエスドラエロン平原(Plaine d'Esdrelon)を通ってアッコに向かい、ナブルス軍はナブルスの街に撤退して行った。
※エスドラエロン平原(Plaine d'Esdrelon)はエズレル平野やイズレエルの谷とも呼ばれている。
その後、逃亡したアブドラ・パシャ軍はアッコまでの約70㎞の距離を4時間で駆け抜け、フランス軍の接近と恐怖を知らせた。
この戦いでナブルス軍の損害は死傷者1,000人であり、ランヌ師団の損害は250人が負傷したと言われている。
ナブルス軍の損害は甚大なものであり、その後、ナブルス軍は長い間フランス軍と戦うのを躊躇した。
※ベルティエの回想録ではナブルス軍の損害は死傷者400人、フランス軍の損害は死亡15人、負傷30人と書かれている。
この日の夕方、ボナパルトはゼイータに野営地を設営して夜を過ごした。
シドニー・スミス将軍のアッコへの到着

※「ウィリアム・シドニー・スミス卿(Sir William Sidney Smith)」。ロバート・カー・ポーター(Robert Ker Porter)画。1802年初頭。
3月15日、アレクサンドリアへの陽動攻撃は成果を出すことができず、その上ガザとヤッファが陥落したことを知ったシドニー・スミス将軍はアッコにいるトロウブリッジ大佐と交代でアレクサンドリア沖を出航した。
フランス軍は北上を続けており、次の目標は港のあるハイファとアッコだろうと予想された。
エジプトから大砲や食糧などの物資を運ぶにしても陸路だと広大な砂漠地帯やカルメル山を越えねばならず、海路で輸送する必要があるからだ。
特に重砲は砂漠地帯を越えることはできないと考えられた。
アッコ要塞内の状況
一方、アッコ要塞では2日後に戦いが始まると命じられていた。
多くのイスラム教徒の兵士が集結し、城門は固く閉ざされていたため街は大きな恐怖に包まれていた。
アッコの唯一の出口である港もヨーロッパ行きの船は無く、イスラム教徒所有のコンスタンティノープル行きの船だけがあった。
包囲される直前にアッコに入ったユダヤ教のラビであるナフマン・ブラツラフ(Rabbi Nachman Bratslav)の記述によると、「ユダヤ人にとって彼等(イスラム教徒たち)と航海するのは危険ではあったが、アッコに留まるよりはましだった。」とのことである。
その後、ナフマン・ブラツラフはロードス島を経由してコンスタンティノープルに行き、黒海に乗り出してドナウ川に入り、ルーマニアの港町ガラチ(Galați)まで航海してウクライナのメドベージェフカ(Медведівка)に戻ったと言われている。
シドニー・スミス将軍のアッコへの到着
3月16日、シドニー・スミス将軍は戦列艦「ティーグル」と「テセウス」とともにアッコ港に到着した。
イギリスから兵士を乗せた船が到着すると(戦いが迫っていることが現実味を帯びたためか)アッコの街の恐怖は増大した。
街はひどく混雑し、収容しきれないほどの人々が門に押し寄せた。
しかしジェザル・アフマド・パシャは門を固く閉ざし、2時間以内に唯一の出口である海側から逃げるよう命じた。
ジェザル・アフマド・パシャは街の防衛体制を整え、残された非戦闘員全員を虐殺するつもりだった。
そのため凄まじい騒音と大きな恐怖が街に広がった。
※この時、ジェザル・アフマド・パシャはアッコから撤退するための準備をしていたが、シドニー・スミス将軍の説得により思いとどまり、アッコで戦うことを決断したという。
アッコ要塞の防衛強化
3月16日時点でフランス軍の先頭はカルメル山を越え、アッコの目と鼻の先にある港町ハイファに向かおうとしていた。
シドニー・スミス将軍は時間を無駄にすることなく要塞の視察を行った。
しかし要塞は荒廃して壊滅的な状態であり、砲兵隊がほとんど存在しないことが判明した。
城壁も見た目だけは立派だったが、フランス軍の砲兵隊の前には無力だと考えられた。
そのためジェザル・アフマド・パシャに助言をし、戦列艦ティーグルに同乗していたイギリスに亡命した元フランス人技術将校フェリポー(Phélypeaux)大佐の指導によりアッコ要塞の強化を行なわせた。
ダグラス少佐と水兵たちはジェザル・アフマド・パシャ率いるアッコ守備軍の士気を奮い立たせ、 要塞の防衛術を教えた。
※セントヘレナ島でナポレオンに付き従っていたイギリス人医師バリー・オメーラ(Barry O'Meara)によると、ナポレオンはアッコ包囲戦で活躍したこの元フランス人技術将校フェリポーについて、「この才能ある人物の下で工学を学んだ」と語ったとのことである。
この時、フランス軍はカルメル山を越えようとしており、アッコへ到着するまで僅か数日しか猶予が無かったため、作業は急ピッチで開始された。
これらの作業はアッコ要塞の防衛任務を一任されたジェザル・アフマド・パシャの首席顧問であるハイム・ファリヒ(Haim Farhi)が指揮を執った。
500人~600人の水兵を砲兵として獲得したことはオスマン帝国軍にとって大きな利点だったが、大砲も砲弾も僅かであり、イギリスの戦列艦に積まれていた物資に頼らざるを得ない状況だった。
加えて、この時のアッコには防御のための資材や物資も不足していた。
アッコ要塞を本当に守り切れるのかは様々な手段を尽くしたとしてもなお不透明だった。
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