シリア戦役 15:エル・アリシュ砦包囲戦
Siege of Fort El Arish

フランス軍のエル・アリシュ周辺への集結

 1799年2月15日朝、ビル・エル・アブドのボン将軍は、師団を率いて出発し、約30㎞離れた2つ目の井戸のあるビルケット・アイヒ(Birket Aich)に向かい、ミュラ将軍は15日午前8時に、14日夜に到着した騎兵隊と砲兵隊とともに出発し、カティアから約20㎞離れた、3つの貯水槽があるビル・エル・アブドで就寝した。

 2月15日、ボナパルトはランヌ師団、ミュラ騎兵隊とともに1つ目の井戸のあるビル・エル・アブドに移動した。

 2月16日、ボナパルトはカッファレリ将軍率いる工兵師団を回収しつつ、3つ目の井戸のあるメソウディアの野営地に到着し、そして翌17日、ついにエル・アリシュ周辺にレイニエ師団とクレベール師団、ボン師団、ランヌ師団、そしてミュラ騎兵隊などのシリア遠征隊が集結した。

エル・アリシュ砦包囲戦の始まり

 アブドラ・パシャ軍の敗北はエル・アリシュ守備隊に何の影響も与えず、守備隊はクレベール師団に包囲されているにも関わらず徹底抗戦を決意しているようだった。

 一方フランス軍は、流砂の中の行軍で12個砲兵小隊の到着が遅れていたため、僅かな砲数でエル・アリシュを攻略することを余儀なくされていた。

 ドマルタン将軍は遅れている砲兵小隊の行軍速度を上げ、19日朝までに12個小隊の内の2個小隊が到着でき、残りの10個小隊は早くても20日までに到着できると考えられた。

 2月17日、カファレッリ将軍はエル・アリシュ砦の正面から背後にかけて約80mの塹壕を2つ掘り、3つの砲台を設置するよう命じられた。

 1つは8ポンド砲4門で正面の塔へ砲撃し、他の2つは榴弾砲2門ずつで砲撃するのである。

 さらに正門前に大砲を設置し、東にある裏門(廃棄物用の門)の下にトンネルを掘り、地雷を設置するよう命じられた。

 そしてボナパルトは、深夜12時までに、砲台の覆いをとり、エル・アリシュ砦への砲撃を開始できる時刻を知らせるよう求めた。

 包囲戦の指揮はレイニエ将軍に一任され、包囲中のクレベール師団と交代することとなった。

 この日、カティアに到着したであろうランポン旅団に可能な限り多くの食糧をエル・アリシュに送るよう命じた。

 カファレッリ将軍率いる工兵隊によりカティアからエル・アリシュまでの行軍はある程度整備されたが、それでも流砂などにより砲兵隊や輸送隊などの行軍は遅れていたのである。

ナポレオンの案山子(かかし)作戦

 ボナパルトは、塹壕を掘り砲台を設置するにあたり、エル・アリシュ守備隊による妨害がひどい場合、エル・アリシュ砦の西側の前線に沿って50人の哨戒部隊を派遣して不安を与え、作業地点に注意を向けさせないようアドバイスした。

 そして棒を組み合わせたものに兵士の作業着や帽子を着せて20体ほどの案山子を作り、さまざまな場所に立たせるよう命じた。

 エル・アリシュ守備隊に案山子が歩哨だと勘違いさせることにより弾薬を消費させ、もし歩哨が案山子であると気付いたとき、本物の歩哨への攻撃を躊躇わせるための嫌がらせだった。

エル・アリシュ砦包囲戦

1799年2月18日~20日、エル・アリシュ砦包囲戦

※1799年2月18日~20日、エル・アリシュ砦包囲戦

 2月18日未明、フランス軍本体はエル・アリシュの正面、村と地中海の間にある砂丘に布陣した。

 そして3つの砲台の準備が整うとボナパルトの合図で大砲が火を噴いた。

 フランス軍による砲撃はエル・アリシュ砦の塔の1つを破壊して沈黙させ、突破口が開かれた。

 村に隣接している東の門の下に埋めた地雷も爆発し、門が崩れ落ちた。

 ボナパルトはエル・アリシュ守備隊の司令官イブラヒム・ニザムに降伏勧告を行った。

 しかし、エル・アリシュ守備隊側から派遣された2人の使者は降伏に対する権限が十分に与えられていなかった。

 そのためイブラヒム・ニザムに、選ばれた30人以外の武器を放棄してエジプトの港へ行き、乗船してシリア以外のオスマン帝国の港へ向かうこと、選ばれた30人の指揮官は武器を保持し、適切と判断すればシリアへ撤退し、この戦争でフランスに対して武器を取らないことを約束することを降伏条件とする書簡を送った。

 しかし守備隊は「砦を死ぬまで守れ」という命令を受けており、従う決心をしていたため耳を貸そうとしなかった。

 ボナパルトはエル・アリシュ砦に総攻撃を仕掛けた場合、恐らく400人~500人の犠牲者が発生するだろうと想定していたが、増援を受けることができないシリア遠征軍の立場ではそのような犠牲を払うことはできないと考えていた。

 しかし同時に、砂漠での移動速度を考えると食糧や物資の不足、前線での砲兵隊の不足が深刻となり、他方ではアブドラ・パシャがハーン・ユーニスで民衆を結集し、毎日援軍を受けて兵力を増強していたため、エル・アリシュで時間を無駄にすることもできないとも考えていた。

 そのためボナパルトは総攻撃を延期してイスラムの慣習を尊重しつつ辛抱強く交渉を重ねたが良い返事を得ることはできなかった。

 守備隊の表情を観察すると救助を望んでいるのは明らかであり、エル・アリシュ砦内の井戸の水は枯渇しつつあった。

 それに加えて砲兵隊がエル・アリシュに到着し始めていたため、ボナパルトは彼らの気力を断とうと考えた。

 2月20日朝、フランス軍は新たに到着した大砲を設置して砦を砲撃し、800発~900発の砲弾を浴びせかけ、守備隊に死と恐怖をもたらした。

 それぞれの砲弾が、兵士たちが重なり合っていた小さな砦の真ん中で爆発したため多くの人々を死傷させた。

 すると守備隊は態度を一変させ、太鼓を打ち鳴らし、演説を行なった後、降伏文書に署名した。

 守備隊は武器を斜面に置き、馬を引き渡し、砂漠の道を通ってバグダッドに向かうこと、現在の戦争中はフランス軍に対して武器を取らないこと、そしてエジプトにもシリアにも1年間戻らないことを誓った。

 彼等はバグダッドの方向へ24㎞にわたって護衛された。

 エル・アリシュ砦包囲戦でのエル・アリシュ守備隊の損害は約200人が死亡、負傷、あるいは捕虜となった。

 そして300人のモーグラビン人がフランス軍への奉仕を要請し、砦にあった馬250頭、ラクダ100頭、大砲3門を失った。

 翌21日、捕虜、旗、大砲はエル・サルヘイヤのイスラムの議員の元に送られ、そこからカイロへ送られた。

 これらはカイロのポルト・デ・ヴィクトワール(ナスル門)を通る凱旋入場に使用されたと言われている。

 その後、工兵たちはエル・アリシュ砦の破損箇所を修復し、砦を良好な状態に復元し、4つの小円錐台を建設して砦の収容力を高め、近くの浅瀬で火を起こせるようにした。

オスマン帝国とイギリス海軍によるエジプト遠征計画の変更とシドニー・スミス将軍のコンスタンティノープルからの出航

【ナポレオンのシリア遠征】ロードス島の位置と重要性

※ロードス島の位置と重要性

 フランス軍によるエル・アリシュ占領の知らせはオスマン帝国とイギリス海軍に驚きをもって迎えられた。

 まさかこのような迅速さでフランス軍が動くとは思わなかったのである。

 エジプト征服中のボナパルト将軍はマムルーク軍を駆逐した後、エジプトの内政に時間を割いているはずだった。

 地中海と陸からほぼ同時にエジプトに侵攻する計画を覆され、逆侵攻を受ける形となったオスマン帝国とイギリス海軍は、まずはシリア方面へ侵攻してきたフランス軍への対応を求められることとなった。

 2月19日、エル・アリシュにフランス軍が現れたことを知ったシドニー・スミス将軍は戦列艦ティーグルに乗りコンスタンティノープルを出発してロードス島に向かった。

 コンスタンティノープルから見てロードス島はエジプトへ侵攻するにしてもシリアを防衛するにしても地中海での重要な拠点であり、シドニー・スミス将軍はそのことを理解していた。

 オスマン帝国とイギリスは1月5日に同盟を結び、ナポレオンの計画を阻止するために共同で動いていたが、オスマン帝国軍は大規模な連合作戦を実行できるほど軍事科学が発達していなかった。

 そのためオスマン帝国軍の行動は遅かった。

 しかもボナパルトの迅速な作戦行動によりジェザル・アフマド・パシャ軍が危険にさらされようとしていた。

 シドニー・スミス将軍は作戦の実行を早めるために至急行動に移す必要に迫られた。