シリア戦役 29:アッコ要塞攻城準備とオストラッハの戦い
Preparations for the attack on the Acre Fortress
アッコでの熱病の再発
1799年3月20日、砲兵隊の兵士が軍医デジュネットの目の前で病気になり、ヤッファで観察された病気と同様の症状を見せていた。
デジュネットはすぐに上官であるボン将軍とボナパルトにこのことを報告した。
ヤッファを離れたことにより収まったように見えた伝染病の危機はまだ去ってはいなかったのである。
しかし、海路をイギリス海軍によって遮断されたフランス軍がパリに帰還するためには陸路を通る必要があり、ボナパルトとしては熱病が理由で撤退するわけにはいかなかった。
攻城戦の準備

※参考:1799年のアッコ要塞見取り図
3月20日、アッコの街から約300mの地点に塹壕が開かれ、庭園や旧市街の埋められていない溝、水道橋の陰などが利用された。
封鎖部隊は、アッコの街からの出撃を有利に撃退し、すべての連絡を遮断するように確立された。
都市への侵入は何より突破口を切り開くことが重要だったが大口径の32ポンド砲や24ポンド砲など大口径の攻城砲は無く、12ポンド砲以下の小口径の大砲のみで突破口を切り開く必要があった。
アレクサンドリアから攻城砲が積み込まれたという知らせは届けられていなかったが、ボナパルトは突破砲台と対抗砲台の建設に取り掛かった。
包囲される側から見て、フランス軍の陣地は非常に有利な位置にあるように見えたと言われている。
3月21日、ボナパルトは高さ約1m、直径約50㎝のイグサの束(粗朶)を22日と23日の2日間で1,500個製作するよう命じた。
これらの粗朶は自軍の塹壕の端に運ばれることとなっていた。
※粗朶は敵の塹壕や掘を埋めたり、自軍の塹壕の壁を補強するためなどに使用される。
21日中までにはアッコ要塞東側の城壁前の廃墟にいる守備隊に対抗するための塹壕が掘られ始め、砲台の建設完了を待つまで小競り合いが続けられた。
1799年3月20日時点でのライン方面の状況
一方、ヨーロッパでは、ジュールダン将軍とカール大公の戦いが始まろうとしていた。
オストラッハ周辺戦域に集結した両軍の兵力は、ジュールダン将軍率いるドナウ軍の兵力約37,000人に対し、カール大公軍の兵力はナウエンドルフ前衛師団約17,000人を含めておよそ70,000人であり、その他にウルムからくる6,600人とオブザベーション軍10,000人に対応するためのスタライ(Sztáray)師団13,000人がいた。
この時、カール大公はナウエンドルフ師団と本体中央でジュールダン将軍率いるドナウ軍の前衛師団と中央を撃破してオストラッハを占領し、その後、左翼と中央でマルクドルフにいるドナウ軍右翼を包囲することを考えていた。
そしてボーデン湖とツェラー湖(Zeller See)の間にあるコンスタンツ(Konstanz)に進出すればマッセナ将軍率いるヘルヴェティア軍の後方を脅かすことができるのである。
対するジュールダン将軍は何としてもボーデン湖東端でヘルヴェティア軍との合流を成し遂げる必要があった。
ジュールダンとカール大公の兵力差はおよそ33,000人で圧倒的に劣勢だったこともあり、ジュールダンとしては早急にヘルヴェティア軍がフェルトキルヒ、ブレゲンツ、ロッハウ(Lochau)と進軍しカール大公軍の後方を脅かすことを望んでいた。
しかしフェルトキルヒはホッツェ将軍によって要塞化されておりマッセナは要塞攻略のための準備に時間を要していた。
オストラッハの戦い<前哨戦>
3月20日、フランス軍は前進を続けた。
フランス軍はバート・サウルガル方面ではバッハハウプテン(Bachhaupten)でオーストリア軍と遭遇したが、猛烈な勢いで追撃し、シュタット川の源流にあるジーセン(Siessen)の修道院まで追い払った。
オーストリアの騎兵隊は残されて森に隠れていた歩兵数人を探索した後、再集結をするためにバート・サウルガルへ向かった。
夜になるとこの縦隊は後退し、ボルシュターン(Bolstern)の背後に陣取り、フリトベルク村を哨戒部隊で援護し、他の哨戒部隊で右縦隊と連絡を取った。
アルツハウゼン方面では、フランス軍は目標のアルツハウゼンにまで到達したが、そこにはカール大公軍本体が到着しつつあり、その兵力差によって押し戻された。
そして夜7時までにはラッツェンロイテとホスキルヒをも放棄することを余儀なくされた。
オストラッハ戦い前夜のフランス軍の配置

※1799年3月20日、オストラッハの戦い前の両軍の配置と強度
20日夜の時点でのドナウ軍の配置は、ルフェーブル将軍率いる前衛師団9,000人は、右翼はケーニッヒセックヴァルト(Königseggwald)にまで後退し、中央はボルシュターン(Bolstern)にまで前進し、左翼はフリードベルク(Friedberg)の隘路を守っていた。
ヴァンダム中将が指揮するドナウ軍最左翼3,000人はジークマリンゲン(Sigmaringen)下流でドナウ川に流れ込む小川(恐らくラウヘルト川)の背後にいた。
ドナウ軍左翼のサン・シール師団7,000人はドナウ川に沿って進軍し、ようやくオストラッハの北約15㎞の距離があるメンゲン(Mengen)にまで到達していた。
ドナウ軍中央のスーアン師団7,000人はジュールダン将軍とともにオストラッハの西約10㎞の位置にあるフレンドルフにいた。
ドナウ軍右翼のフェリーノ師団8,000人はオストラッハから約35㎞の距離があるマルクドルフに本部を置き、ラーヴェンスブルクとの間に師団を展開させていた
オープール将軍率いる予備騎兵隊3,000騎はフレンドルフの背後にいた。
オストラッハの戦い前夜のオーストリア軍の配置
20日夜の時点でオーストリア軍は、ナウエンドルフ師団17,000人はバート・サウルガルとアルツハウゼン周辺地域、ヴァリス(Wallis)将軍率いるカール大公軍本体右翼12,000人はヘルバーティンゲン(Herbertingen)とリートリンゲン(Riedlingen)周辺地域、カール大公軍本体中央23,000人はナウエンドルフ師団の後方、シュターダー(Staader)将軍率いるカール大公本体左翼18,000人はラーヴェンスブルクに配置されていた。
ナウエンドルフ将軍率いる前衛師団はフルゲンシュタット(Fulgenstadt)やジーセン、へラーツキルヒ(Heratskirch)、ホスキルヒやケーニヒセック(Königsegg)にまで進出していた。
そしてカール大公はバート・サウルガルへ本部を移動させ、本体中央をナウエンドルフ師団の背後に前進させた。
オストラッハの戦い

※1799年3月21日、オストラッハの戦い
3月21日午前1時、濃霧の中、フリートベルクの先にあるフランス軍陣地が赤マントの群れに襲撃され、ターファーツヴァイラー(Tafertsweiler)の森(恐らくターファーツヴァイラーの北に位置するシュパッツェンの森(Spatzenwald))の上部まで後退を余儀なくされた。
そして6個大隊がボルシュターンの後方に陣取る夜警部隊を攻撃した。
ボルシュターン周辺の峠全てを守っていた部隊はターファーツヴァイラーへ順次撤退し、その後、一部はオストラッハへ、一部はジェットコフェン(Jettkofen)へ、一部はアインハルト(Einhart)へと撤退し、これら3つの重要拠点を防衛した。
アルツハウゼン方面ではホスキルヒの村の入り口でオーストリア軍と交戦していたがオストラッハへの後退を余儀なくされた。
この戦闘の際、ホスキルヒから引き返そうとしていた部隊がオストラッハへの退路を阻まれてオストラッハ川の右岸側を遡り、リートハウゼンに到達した。
オストラッハ川にかかる橋にまで進軍したオーストリア軍は3、4個大隊で激しい砲撃を浴びせかけた。
橋の背後に配置された4個軽歩兵中隊は、味方の砲火に守られながら英雄的な勇気でこの衝撃を耐え抜き、3時間にわたってオーストリア軍の攻撃を撃退し続けた。
その時、フリートベルク方面からオーストリア軍の攻勢が開始された。
これらオーストリアの部隊はアインハルトとジェットコフェンの間からオストラッハ川を渡りオストラッハの西約5㎞の位置にあるマゲンブーフ(Magenbuch)を占領することを目標としていた。
このオーストリア軍の機動を察知したルフェーブル将軍はアインハルトとジェットコフェンの間にあるヴァンゲン(Wangen)に予備として残していた歩兵隊と騎兵隊を向かわせた。
しかし、この地域では浅瀬があるため徒歩で川を渡ることが可能であり、オストラッハ川の渡河は比較的容易だと考えられた。
一方、オストラッハ側では、オーストリア軍の砲撃はすさまじく絶え間なく続いていた。
援軍も到着し、オーストリア軍は優位に立っていた。
オストラッハ川にかかる橋を守っていた4個中隊は橋を放棄し、オストラッハ村へと後退せざるを得なかったが、オストラッハ村の背後を守っていたボンテム旅団が橋を取り戻すよう命令を受け、その命令を実行した。
ルフェーブル将軍はオストラッハ川を渡ったオーストリア軍がマゲンブーフに通じる峠を占領しようとしているとの報告を受け、騎乗してジェットコフェンに向かった。
ルフェーブル将軍がジェットコフェンで指示を出していた時、左腕に銃弾を受けて負傷した。
ルフェーブル将軍は指揮を継続するために周囲の将校に見られないよう傷を隠そうとしたが、しばらく後、戦線離脱を余儀なくされた。
その後、ジュールダン将軍はスールト少将にルフェーブル師団の指揮を任せた。
これらの間にオーストリア軍はオストラッハ川を渡っていた。
ジュールダン将軍はモリトール将軍率いるスーアン師団の一部にマゲンブーフに向かうよう指示していた。
この命令の目的は、モリトール将軍が最も激しい攻撃を受けている峠へ進軍し、 そこを守備する部隊を支援できるようにするためだった。
このモリトール将軍が率いる部隊の到着は遅すぎた。
モリトール将軍は、ヴァンゲンとアインハルトの強力な戦力に屈し、スールト将軍率いる前衛部隊の元へ退却しているこれらの部隊と遭遇した。
モリトール将軍は攻撃を再開したかったが、オーストリア軍は既に森の中に散開し、大軍を率いていた。
一方、ヴァンゲン周辺を守っていたフランスの部隊は疲弊し、弾薬も不足していた。
オーストリア軍はこの隙を突いて騎兵隊で砲兵隊を攻撃しようとしたが、この攻撃はクライン将軍率いる部隊に撃退された。
霧が晴れ、フランス軍の眼前にオーストリア軍の騎兵と歩兵の巨大な戦列が姿を現した。
スールト将軍率いる前衛部隊と交戦しているオーストリア軍の戦力は25,000人に達していると考えられた。
ジュールダン将軍は彼我の戦力差に加え、左翼側ではオーストリア軍が優位に立っており、片翼包囲の危険を考慮してスールト将軍に前衛師団をフレンドルフ前の砦まで後退させるよう命じた。
スールト将軍はこの困難な撤退を完璧な秩序を保って実行し、最小限の被害で撤退を成功させた。
ホーエンテンゲンの戦い
一方、21日午前1時頃、オーストリア軍はドナウ軍左翼サン・シール師団の前線にも同様の攻撃を開始していた。
午前9時頃、戦闘は激化し、これまで戦線を維持していたホーエンテンゲン周辺に展開しているサン・シール師団の前衛部隊は圧倒的な兵力差によりメンゲンへの後退を余儀なくされた。
オーストリア軍右翼はヘルバーティンゲン(Herbertingen)に2個歩兵大隊、1,000~1,200騎の騎兵、大砲数門を配置していた。
この部隊はリートリンゲン(Riedlingen)にいる1個歩兵大隊、数個歩兵中隊の支援を受けていた。
リートリンゲンはウルムとヘルバーティンゲンの連絡線の中継地であり、サン・シール将軍はこのリートリンゲンに陽動攻撃を行うことでオーストリア軍右翼の動きを止めようとした。
この陽動攻撃はサン・シール将軍の想像した通りの効果をもたらし、オーストリア軍右翼はリートリンゲンやヘルバーティンゲンから動くことができなかった。
そしてこの隙を突いてホーエンテンゲン周辺地域に部隊を派遣して再占領した。
サン・シール将軍はホーエンテンゲンの位置の利点を利用してオーストリア軍前衛師団やカール大公軍中央を側面攻撃するためにフリートベルクに向かわせようと準備した。
しかし、ジュールダン将軍からフレンドルフへの撤退の報を受け取り、メンゲンのアーブラッハ川の背後に撤退するよう命じられた。
カール大公はホーエンテンゲンに部隊を派遣し、ホーエンテンゲンにいるサン・シール師団右翼を撃退した。
サン・シール将軍は右翼をオストラッハ川の背後に撤退させた。
オーストリア軍はサン・シール師団右翼を攻撃してオストラッハ川を渡ろうとしたが撃退された。
そのためロスナ(Rosna)でオストラッハ川を渡ってルルフィンゲン(Rulfingen)を圧迫しようとした。
ルルフィンゲンはメンゲンとメスキルヒの間にあり、オーストリア軍はメスキルヒへの退路を遮断するように機動したのである。
しかしこの動きを察知したサン・シール将軍が派遣した部隊によって撃退され、サン・シール師団はメルキルヒへの退路を確保することに成功した。
オストラッハとホーエンテンゲンの戦いでオーストリア軍の損害は戦死者、負傷者、捕虜合わせて4000人以上にのぼり、フランス軍の損害は1,400人~1,500人程度で大半は負傷者だったと言われている。
その後、ドナウ軍右翼を指揮するフェリーノ将軍はオストラッハでの敗北を知るとジュールダン将軍の命令通りすぐにザーレム(Salem)に撤退した。
※「Memoir of the Operations of the Army of the Danube, Under the Command of General Jourdan, 1799」によると、ジュールダンはフェリーノ師団にサルフメノイラー(Salfmenoeiller)に撤退するよう命じているが、マルクドルフからシュトックアッハの間にサルフメノイラーという町や村はみあたらない。ただザーレム修道院は過去サルマンスェイラー(Salmansweiler)と呼ばれていたため恐らくサルフメノイラーとはザーレムのことだろう。
この時、カール大公はフランス軍右翼(フェリーノ師団)がマルクドルフに留まるか撤退が遅れることを考え、ラーヴェンスブルクの左翼とともに包囲することを計画していたが、フランス軍右翼が素早く撤退したことによりこの計画は空振りに終わった。
加えてカール大公軍はレヒ川を渡河して以降、強行軍で進軍したことにより疲弊し追撃はフランス軍によって阻止されたため、僅かな部隊で追跡することを余儀なくされた。
そのためこの日の撤退戦においてフランス軍は秩序を保って撤退することができ、損害は皆無だったと言われている。
シドニー・スミス将軍によるフランス船団の捕獲とハイファ港の封鎖
3月22日、2隻のイギリス戦列艦がモスクの山から観察されたとの報告があった。
その1時間後、6つの小さな帆が見え、ガントーム海軍少将はそれが攻城砲を積載したダミエッタ艦隊のタータン船(砲艦)であると認識した。
ガントーム少将が見たのは6つの小さな帆だったが、実際に捕らえられたのは7隻だった。
これら7隻のフランスの砲艦は3月19日にハイファに入港できず2隻のイギリス戦列艦に追跡された護衛船団の一部であり、残りの3隻は別れて逃亡していた。
後に判明したことだが、2隻のイギリス戦列艦は36時間にわたって彼らを追跡し、7隻の船を捕らえた。
残りの3隻は間違ったルートを辿ってフランスの海岸にたどり着き、その中には船団指揮官ヒューデレット船長のフリゲート艦も含まれていたという。
その後、2隻のイギリス戦列艦は、アッコ港に捕らえたフランス砲艦を停泊させた。
シドニー・スミス将軍は捕虜238人と攻城砲などの積み荷を降ろすよう命じた後、アッコ港から出航した。
フランス船から奪った攻城砲や弾薬はアッコ要塞の防衛のために使用され、砲艦はフランス拠点の破壊及び連絡線の遮断を目的とした海岸への攻撃やフランスの輸送船団を拿捕するために使用されることとなる。
これはアッコを包囲しているフランス軍にとって大きな痛手だったが、この時のボナパルトらフランスの幹部たちは小さな損失だと考えていた。
これ以降、フランス軍にとってアッコ・ハイファ周辺海域は常に致命的なものと認識された。
その後、封鎖を目的としてハイファ港の近くに停泊したシドニー・スミスだったが、ハイファ近海は船を停泊させるには良くない場所だった。
戦列艦テセウスは珊瑚礁によってアンカーケーブルが切断されて漂流し、15分間行方不明となる事件が起きた。
これを見たシドニー・スミス代将はハイファ港を封鎖するのではなく、占領することを決意した。
フランス軍と敵対して北上するナブルス人たちへの対応

※1799年3月下旬、カクーンの戦いで敗北したナブルス人たちの北上
シドニー・スミス将軍がハイファの占領を決意している頃、カクーンの戦いで元ダマスカス総督アブドラ・パシャとともに戦い敗れたナブルス人たちが北上して接近してきているという知らせを受け取った。
ナブルス人たちはフランス軍に与した地域の略奪を行なっているようだった。
そのためボナパルトはミュラ将軍に騎兵300騎と大砲を率いてシェファ・アムルに向かい、武装した住民を指揮してナブルス人たちを撃退するよう命じた。
任務完了次第ミュラ騎兵隊はアッコ前の本部に帰還する予定となっていた。
- TOP
- Syria 01
- Syria 02
- Syria 03
- Syria 04
- Syria 05
- Syria 06
- Syria 07
- Syria 08
- Samhud
- Syria 10
- Syria 11
- El Arish
- Syria 13
- Syria 14
- Fort El Arish
- Abu Manna
- Syria 17
- Gaza
- Syria 19
- Souhama
- Jaffa
- Syria 22
- Syria 23
- Syria 24
- Qaqun
- Syria 26
- Syria 27
- Syria 28
- Syria 29
- Syria 30
- Syria 31
- Syria 32
- Acco 01
- Byr el Bar
- Syria 35
- Acco 02
- Syria 37
- Magnano
関連する戦いRelated Battle
- 第一次イタリア遠征(1796年4月~1797年10月)Italian Campaign( April 1796 - October 1797 )
- ローマ占領(1797年12月~1798年2月)Occupation of Rome( December 1797 - February 1798 )
- エジプト遠征の前(1798年1月~1798年5月)before the invasion of Egypt( January - May 1798 )
- マルタ戦役(1798年5月~1798年6月)Malta Campaign( May - June 1798 )
- エジプト戦役(1798年6月~1798年11月)Egypt Campaign( June - November 1798 )