シリア戦役 08:シリア遠征の始まり
The start of the Syrian Campaign

ファラオの運河の調査

ファラオの運河

※ファラオの運河。Image by annie brocolie/Wikimedia Commons

 1799年12月30日、男装した愛人ポーリーヌを連れたボナパルト一行はスエズを発ち、約10㎞離れたところに干からびたファラオの運河の遺跡を発見した。

 一行はファラオの運河の遺跡を追跡し、この日アジェラウド(Adgeroud)の砦で眠り、翌31日は砂漠を約40㎞進み、1月1日にベルベイスに到着した。

 1月3日、ボナパルトはフアレブ(Houareb)のオアシスに行き、エジプトの耕作地と水源地への入り口でファラオの運河の遺跡を見つけた。

 そして数kmにわたって運河を追跡し、2方向からの視察に満足すると、スエズの旅に同行していたエジプト研究所の数学部門の会員であり橋と道路の責任者であるル・ペール(Jacques-Marie Le Père)に、すぐに初期調査を行うよう命じた。

※ファラオの運河は、スエズから北に延びてグレートビター湖南岸に到達し、グレートビター湖北岸から西に延びてピトゥム(Pithom)を通りザガジグまで繋げていた運河である。ピトゥムとはヘロポリス(Heropolis)のことである。

※スエズからベルベイスまでの行程で、ナポレオンは12月30日にスエズを出発して約10㎞離れた地点でファラオの運河の遺跡を発見し、そこから16㎞ほど運河を追跡してアジェラウド(現在のアグロド(Agrod))の砦で一泊し、12月31日に約40㎞砂漠を行き、1月1日にベルベイスに到着している。記述の中に湖の記述はないため湖経由ではなく、帰りも砂漠の中を突っ切ったことが分かる。

 しかし、飲料水の不足、地元住民からの襲撃の危険、後に編成されるシリア遠征隊の出発が迫っていたため、調査はすぐに中止されることとなる。

 1月5日、ベルベイスのボナパルトは、エル・サルヘイヤに部隊が到着した後に第85半旅団の残りなどをカティアに向かわせてラグランジュ将軍率いるレイニエ師団前衛部隊を補強をするよう命じた。

シドニー・スミス将軍のコンスタンティノープルへの到着とイギリスとオスマン帝国との同盟の締結

 同5日、シドニー・スミスがコンスタンティノープルに到着し、イギリスとオスマン帝国との同盟が締結された。

 この時、オスマン帝国はジェザル・アフマド・パシャに対してフランスに対抗する意思を示しており、ジェザル・アフマド・パシャはそれに従いすでに軍事行動を開始していた。

 イギリスとオスマン帝国は共同でエジプトを取り戻すことが話し合われ、作戦はすぐに具体性を帯びていった。

 その作戦とは、エジプトに進軍するための前衛として十分な強度を持つと思われるジェザル・アフマド・パシャ軍をエジプトに向かわせ、アレクサンドリア沖のイギリス戦隊が陽動作戦を実行し、オスマン帝国軍がそれらを支援して最終的にはエジプトを征服するというものだった。

 これらの作戦はナイル川河口への強力な陽動作戦と上エジプトで抵抗しているムラード・ベイ軍によってフランス軍の兵力は分散される計画だった。

 この時、シドニー・スミスやオスマン帝国の宮廷、ジェザル・アフマド・パシャは、ボナパルトはエジプトを征服しているところであり、これから内政機構の構築を行なう必要があるだろうと予想されるため、すぐには軍を派遣できないだろうと考えていた。

シリアへの遠征の決断

 一方、1月7日までにカイロに戻ったボナパルトはレヴァントの支配者であるジェザル・アフマド・パシャが1月2日にエジプトとの国境付近に位置するエル・アリシュを占領させたことを知った。

 これまでジェザル・アフマド・パシャは元ダマスカス総督アブドラ・パシャ率いる軍約12,000人をガザに集結させていたが、オスマン帝国とイギリスの同盟が成立したことにより、その内の4,000人と大砲3門をアブドラ・パシャ軍の前衛としてエル・アリシュに移動させたのである。

 アブドラ・パシャ軍前衛が入城したエル・アリシュ砦はカティアから東に3日半、約100kmのところにあり、途中40㎞ほどの砂漠を行軍する必要がある。

 これを知ったボナパルトはオスマン帝国との衝突は避けることができないと考え、すぐに遠征準備に取り掛かった。

 ボナパルトはオスマン帝国軍の準備が整う前にジェザル・アフマド・パシャの軍を打ち破って先ずは本拠地であるアッコまで攻め上るつもりであり、このシリア遠征では速さが重要だと考えていた。

 加えて、ボナパルトはすでにこの時点で、アッコを占領した後はダマスカスやアレッポに進軍し、コンスタンティノープルに攻め上ることを考えていた。

 地中海をイギリス軍に封鎖されたフランス軍が本国に帰還するためには陸路を通る必要があり、アジアとヨーロッパの境界であるコンスタンティノープルを占領できれば、ヨーロッパは目と鼻の先となるのである。

1799年1月1日時点でのフランス東洋軍の強度とシリア遠征のための再編成

 1799年1月1日時点で、フランス東洋軍は戦闘員と非戦闘員合わせて2万9,700人の兵士を擁していた。

 内訳は歩兵2万2,000人、騎兵3,000人、砲兵3,200人、工兵3,200人、ガイド600人、 非戦闘員、労働者、民間人従業員900人であり、合計29,700人だった。

 1月7日、ボナパルトはこれらの兵力を3つの軍に分け、ドゼー師団は上エジプト、ドゥガ師団は下エジプト、そして自らはシリア方面への遠征隊を指揮することとした。

 ドゼー師団にはフリアン将軍、ベリヤード将軍、ダヴー将軍、ラサール将軍が所属し、ドゥガ師団にはラヌッセ将軍、マルモン将軍、マルメラス将軍が所属していた。

 そしてボナパルト将軍は4個師団とミュラ騎兵隊でシリア遠征軍を編成した。

シリア戦役におけるフランス軍の構成と強度

 クレベール師団はヴェルディエ将軍とジュノー将軍が所属し、軽歩兵の2個半旅団の一部、および第25および第75戦列歩兵半旅団、合計2,349人で構成された。

 レイニエ師団はラグランジュ将軍が所属し、第90および第95戦列半旅団、合計2,160人で構成された。

 ランヌ師団はヴォー将軍、ロビン将軍、ランボー(Rambeau)将軍が所属し、軽歩兵第22半旅団の一部、第13および第69戦列歩兵半旅団、合計2,924人で構成された。

 ボン師団はランポン将軍とヴィアル将軍が所属し、第40軽歩兵半旅団、第18および第32戦列半旅団の一部、合計2,449人で構成された。

 ミュラ将軍は騎兵900騎と4ポンド砲4門を指揮した。

 ドマルタン将軍は砲兵1,385人を指揮し、カファレッリ将軍は工兵340人を指揮した。

 予備の大砲は、12ポンド砲4門、8ポンド砲4門、榴弾砲4門、6インチ迫撃砲4門、合計16門があり、各師団には、野砲が6門、騎兵隊には騎馬砲が6門、近衛隊には騎馬砲が6門、合計36門の大砲が配備されていた。

 これらの他にラクダ連隊が創設される予定となっており、ボナパルト将軍にはベシェール将軍が指揮する護衛騎兵400騎が付き従っていた。

 そして地中海ではペレー少将率いる小艦隊が海岸沿いを進むこととなっていた。

 シリア遠征軍の総兵力はおよそ13,000人を数えることとなった。

ラクダ連隊の創設と物資輸送用動物の確保

「エジプトにおけるナポレオンと側近」。ジャン・レオン・ジェローム(Jean Leon Gerome)画。1868年。

※「エジプトにおけるナポレオンと側近」。ジャン・レオン・ジェローム(Jean Leon Gerome)画。1868年。

 1799年1月9日、ボナパルトはヒトコブラクダ連隊を創設した。

 ヒトコブラクダ連隊は2個中隊で構成され、1個中隊はそれぞれヒトコブラクダ50頭を有する4個小隊から成り、連隊は旅団長によって率いられることとされた。

 兵士たちはヒトコブラクダに乗り、歩兵と同様にライフル、銃剣、弾薬袋、そして非常に長い槍で武装し、規定された仕様に従って、灰色の服を着て、アラブのターバンとマントを着けることとなった。

 ヒトコブラクダ連隊は不格好ながらもまるでアラビアの戦士のような出で立ちだったと言われている。

 その他、ボナパルトは砲兵隊の基地、食料、弾薬、そして砂漠を横断する軍隊に必要なあらゆるものを輸送するためにカイロでラバやラクダを集めた。

 しかしラクダが不足していたため、カイロ行きの品物を積んでスエズから来た隊商とトールのアラブ人の隊商以外のラクダの隊商を襲撃し、ラクダを奪うよう命じた。

エル・アリシュへの道の整備

1799年、シリア遠征当時のカティアからエル・アリシュまでの井戸の場所

※1799年、シリア遠征当時のカティアからエル・アリシュまでの井戸の場所。

 1月11日、ボナパルトはカファレッリ工兵将軍に1月20日にカティアに行き、1月24日にエル・アリシュへ向けて出発するよう命じた。

 当時、カティアからエル・アリシュへの道には軍が駐屯できる井戸が3ヵ所あったが、これらの井戸からは1~2個大隊分の水を供給できる水量しか無かった。

 1つ目の井戸はカティアから約26㎞東に位置するビル・エル・アブド(Bir el Abd)、2つ目はビル・エル・アブドから約30㎞東に位置するビルケット・アイヒ(Birket Aich)、3つ目はビルケット・アイヒから約32㎞東、エル・アリシュから約12㎞西に位置するメソウディア(Méçoudiah)の3ヵ所である。

 この命令には、工兵を先に出発させることにより井戸を修復し、新たに掘削することでより多くの水を確保するという意図があった。

ナポレオンによる紅海支配計画とシリア遠征の進捗

 1月15日、ガントーム少将はスエズに行って海軍を整備し、クセイルへ行くよう命じられた。

 クセイルを拠点として紅海の安全を確保し、貿易を促進することが目的だった。

 しかし船舶が少なかったため、ガントーム少将は先ず船舶の建造から開始させた。

 加えて、紅海一帯はクセイルやアラビア半島のヤンブーやジッダなどの領主の影響下にあったため、ボナパルトの思うようには進まなかった。

 ガントーム少将はこれらの命令を行なった後、シリア遠征における海軍強化のためにダミエッタに向けて旅立った。

 1月18日、ボナパルトはメヌー将軍にロゼッタの指揮をジュリアン副官に任せ、カイロに向かうよう命じた。

※メヌー将軍は以前からロゼッタの田舎ではなくカイロに行きたいという要望をボナパルトに伝えており、デルタ地帯の征服もひと段落ついたためシリア遠征を契機としてその願いが叶ったのだろう。

 同日夜、クレベール将軍は、カティアへの補給に必要なすべての護送船団の出発を開始するために、カイロを出発しダミエッタに向かった。

 ダミエッタのドゥガ将軍はカイロに呼び寄せられ、総司令官がエジプト国外への遠征に出ている間、上エジプトの指揮を任された。

 フランス東洋軍によるシリア遠征準備は着々と進んでいた。