シリア戦役 34:ビル・エル・バールでの戦闘【ドゼー将軍の上エジプト征服】
Combat of Byr el Bar

ベリヤード旅団の危機とドゼー将軍のアシュートからの出発

 1799年3月8日にコプトスとアブヌードでヤンブーのハッサン軍とマムルーク軍を打ち破り、その後ケナ(Qena)に入ったベリヤード旅団だったが軍需物資の不足が深刻な状況となっていた。

 弾薬は兵士1人につき25発分であり、砲弾は無くブドウ弾も数発を残すのみだった。

 もしクイタに撤退して行ったマムルーク軍が態勢を立て直してケナに本格的な攻撃を仕掛けて来た場合、防衛は不可能だと考えられた。

 そのため、至急、物資を送ってもらえるようアシュートのドゼー将軍の元に書簡を送った。

 ドゼー将軍はベリヤード将軍からの書簡が届くとすぐにできる限りの軍需品を集めて輸送船への積み込みを開始した。

 1799年3月18日、ドゼー師団はナイル川を渡り、輸送船団を護衛するためにアシュートを出発した。

ダヴー及びベリヤード騎兵隊の前進とヤンブー守備隊及びマムルーク軍の砂漠への撤退

キフト周辺の古地図(1801)

※キフト周辺の古地図(1801)

 3月30日、ドゼー師団と輸送船団がケナに到着してベリヤード旅団に物資を供給し、翌31日、2日間クーエ(Kouhé)に駐留していたヤンブー守備隊及びマムルーク軍と戦うために2つに分割した騎兵隊をダヴー将軍とベリヤード将軍に率いさせケナを出発させた。

※クーエ(Kouhé)とは、エル・クオルン(El Qarn)のことだろう。

 ダヴーとベリヤードが率いる騎兵隊が接近すると、まだ若いヤンブーのハッサンの甥が指揮するヤンブー守備隊とハッサン・ベイが指揮しオスマン・ベイ・ハッサンが付き従うマムルーク軍は砂漠に入った後に別れた。

 ハッサン・ベイとオスマン・ベイ・ハッサンはクイタ(Kuita)へ行き、ヤンブー守備隊はオスマン・ベイ・シェルカウイがすでにいたアブー・マンナへ向かった。

 しかし、ヤンブーとジッダの住民600~700人は守備隊から離脱し、アブー・マンナへは向かわずクセイルに戻った。

 ヤンブー守備隊は歩兵であり移動速度が遅いため、騎兵であるマムルーク軍はヤンブー守備隊がアブー・マンナに無事に移動できるよう囮となったのだろうと考えられる。

マムルーク軍の出撃

1800年代初頭のテーベ周辺地図

※1800年代初頭のテーベ周辺地図

 ヤンブー守備隊とマムルーク軍が砂漠に入ったことを知ったドゼーは、水の確保のためにベリヤード将軍にクイタ川の南の出入口にあるヒジャジ(Hijazah)村の貯水池を占領させ、ダヴー将軍に北の出入口付近にあるビル・エル・バールに向かわせた。

※ヒジャジ(Hijazah)は資料にはアジャジ(Adjazi)村と書かれている。ヒジャジの位置は古地図ではアジャジ(Agazi)やハジャジ(Hagazi)と書かれている。

 クイタ川以外の水辺に近づくことができなくなったマムルーク軍は、水が限られた4日間におよぶ困難な行軍を経なければ砂漠を離れることができなくなった。

 紅海沿岸にあるクセイルに行くにしても、大きく迂回してアブー・マンナに行くにしても、約150㎞もの砂漠と荒野の行軍を余儀なくされるのである。

 ベリヤード将軍は、砂漠を行軍するための準備として水を運ぶためのラクダを集め、ヒジャジに強力な分遣隊を残してクイタまで行軍するよう命じられた。

 ハッサン・ベイとオスマン・ベイ率いるマムルーク軍はベリヤード旅団がクイタへの遠征準備をしていることを知るとクイタを出発した。

 マムルーク軍の目には、フランスの騎兵隊が2隊に別れたため各個撃破してヤンブー守備隊と合流するための好機と映ったのだろう。

ビル・エル・バールでの戦闘

1799年4月2日、ビル・エル・バールでの戦闘【ドゼー将軍の上エジプト征服】

※1799年4月2日、ビル・エル・バールでの戦闘

 4月1日午後11時、マムルーク軍はビル・エル・バールの砂漠にあるダヴー騎兵隊の野営地前に到着し始めた。

 この時、脱走したマムルーク兵の1人がドゼー将軍の元に来訪し、マムルーク軍の意図はヤンブー守備隊と合流することであることを告げた。

 ドゼーはすぐにマムルーク軍の動きをヒジャジにいるベリヤード将軍に連絡し、ベリヤード将軍は分遣隊を派遣して救援に向かわせた。

 一方、ドゼー将軍は4月2日に300人を残してケナを出発し、砂漠を越えてダヴー騎兵隊のいるビル・エル・バールへ向かった。

 約1時間の行軍の後、偵察していた軽騎兵の一人がマムルーク軍の到着を告げた。

 師団前衛を指揮していた副官のラバッセ(Rabasse)はダヴー将軍に警告し、偵察を強化し、すでに突撃していた斥候兵を支援するために前進した。

 ラバッセは衝撃に耐えたが、数の多さに圧倒された。

 そして馬とともに倒されたにもかかわらず、損失なく、ちょうど到着したドゼー師団本体まで撤退した。

 ドゼーは、歩兵を直ちに前進させ、デュプレシス旅団長率いる騎兵は急峻な丘の上に陣取って待機して突撃を受けるよう命令を下した。

 しかし騎兵は丘の上に到達できず、陣地を築くことはできなかった。

 デュプレシス旅団長は功名心からか、ドゼー将軍から受けた命令を忘れてマムルーク軍に突撃した。

 その結果、デュプレシスは戦死し、その死によって混乱を引き起こした。

 そのためダヴー将軍は竜騎兵隊の戦列を前進させざるを得なくなった。

 ブーヴァキエ(Bouvaquier)中隊長の指揮下にあったこれらの竜騎兵たちは、マムルーク軍に激しく突撃し、マムルーク軍を混乱に陥れて撤退に追いやった。

 ドゼー師団の歩兵と砲兵は砂の上をゆっくりと苦労しながら前進したが、到着したときにはすべてが終わっていた。

 ビル・エル・バールでの戦闘でのマムルーク軍の損害は、死者20人以上とオスマン・ベイ・ハッサン含む多くの負傷者だったと言われ、対するフランス軍はデュプレシス旅団長とブーヴァキエ中隊長を含む数人の将校と数人の兵士が死亡し、数人が負傷したと言われている。

ヤンブー守備隊殲滅命令

1799年4月上旬、ダヴー騎兵隊によるヤンブー守備隊の追撃【ドゼー将軍の上エジプト征服】

※1799年4月上旬、ダヴー騎兵隊によるヤンブー守備隊の追撃

 この戦いの後、マムルーク軍は迂回し、数人の負傷者と馬を砂漠に残してすぐにクイタに戻った。

 これによりハッサン・ベイとオスマン・ベイ率いるマムルーク軍はヤンブー守備隊と完全に分断されることとなった。

 ドゼー将軍はベリヤード将軍に、マムルーク軍がクイタに留まるなら捜索し、もしクイタから去るなら追跡するよう書簡を送り、自身は4月2日中にケナに戻った。

 クイタに戻ったマムルーク軍は、その後アスワンへの旅路についた。

 ケナに到着したドゼー将軍は、第61軽騎兵連隊と第7軽騎兵連隊からなる機動部隊を編成してダヴー将軍に指揮させ、アブー・マンナ付近にいるとみられるヤンブー守備隊を一人残らず殲滅するよう命じた。

 そして同時に、ギルガの指揮官であるモランド旅団長にナイル川右岸の岩山に部隊を配置して指揮し、撤退してくるヤンブー守備隊の退却を阻むよう命じた。

 フランス騎兵隊が出発したことを知ったヤンブー守備隊は、戦いを避けるためにアブー・マンナを通過し、ナイル川右岸側を北上した。

 しかし、モランド旅団長率いる部隊がギルガの対岸にある岩山に配置されていることを知ると、バルディス(Bardis)の上流でナイル川を渡り、バルディスに入った。

 これを知ったモランド旅団長はナイル川を再び渡ってギルガに戻り、ギルガ守備隊から250人を連れてヤンブー守備隊に接近した。