エジプト戦役 40:ファイユーム州遠征の始まりとダカリーヤ州への遠征準備
Beginning of the Fayoum Expedition
ドゼー師団によるファイユーム州への遠征の始まり
※1798年9月下旬、ムラード・ベイのマウズーラへの移動とドゼー師団のジョセフ運河への侵入。
1798年9月22日、ドゼー師団はジョセフ運河の入り口に到着し、カイロから船で来る食糧や弾薬などを受け取り、ジョセフ運河を下りムラード・ベイ軍と対決する準備を開始した。
一方、9月7日にアル・バーナサからの撤退を余儀なくされたムラード・ベイだったが、ベニ・スエフ州とミニヤー州の州境付近のジョセフ運河沿いの村に部隊を配置してファイユームに行き、この半月でファイユーム州を勢力下に収めて態勢を立て直し、ファイユーム州とギザ州の間で活動し、ドゼー師団に対抗すべく計画を練り、フランス軍に対抗できるよう準備を整えようとしていた。
そしてアシュートを占領したドゼー師団がジョセフ運河の入り口に向かったことを知ると、これを撃退するためにジョゼフ運河を遡り、マウズーラ(Muzurah)へ向かった。
9月24日、ドゼー将軍は、ナイル川のジョセフ運河の入り口に6隻の軍艦を残してナイル川とジョセフ運河の分岐点を守るよう命じた後、師団をジョセフ運河に沿うように進軍させ、自らは船に乗り込み師団の行軍に合わせてファイユーム州へ向かって出発した。
この時、ドゼー将軍はナイル川の霧によって引き起こされると考えられる眼炎を発症した患者たち約400人を6隻の軍艦の内の2隻に乗せてベニ・スエフに送り返した。
※当時、「盲人の国」と呼ばれていたエジプトでは眼炎は一般的な病気と認識されていた。そして眼炎は秋から冬にかけてナイル川を覆うように発生する霧によって感染するという迷信が信じられていた。
マンスーラからアシュムン海へ繋がるアシュムン運河沿いでの反抗
一方、9月23日、ボナパルトの元にダミエッタからのボートに乗っていたフランス人15人が殺害されたという情報が舞い込んできた。
※資料では事件が起きたのはミト・エル・カウリー(Myt-el-Khaouly)と記載されているが、恐らく現在のミト・アル・クーリー・ムアミン(Mit Al Khuli Muamin)だと考えられる。
事件が起きたのは17日月曜日午前9時であり、直後に5つの村がフランス軍への抵抗に加わったとのことだった。
そしてミト・エル・カウリーに集結した人々は低品質の大砲3~4門、80丁以上のライフルを保持しており、塹壕を掘り、カイロへの連絡線を遮断したとの情報も同時に収集された。
この時点までボナパルトはハッサン・トゥバールが蜂起したとは考えておらず、単なる住民の反乱だと考えていた。
しかしマンスーラからマンザラ湖に繋がる運河のちょうど中間辺りにあるこの村の周辺は、未だフランス軍の影響力の及んでいない地域であり、フランス軍がこれから進出しようとしている地域だった。
そして情報を収集した結果、フランス軍に対抗しようとしているのはダカリーヤ州エル・マンザラ(El Manzala)を支配するハッサン・トゥバール(Hassan Toubar)であるということが判明した。
ハッサン・トゥバールはダミエッタ、マンザラ、マンスーラの地域でフランス軍に対抗しよう武力蜂起したのである。
この時、9月19日にヴィアル旅団がダミエッタ近郊のエル・ショアラ村でトゥバール軍を打ち破り、撤退させていた。
これまでボナパルトはハッサン・トゥバールの懐柔を試みていたが、この出来事によりハッサン・トゥバールを討伐し、ダカリーヤ州を制圧する以外にダカリーヤ州を利用する術がないと悟った。
ボナパルトはマンスーラからダミエッタに向かわせたドゥガ将軍に、ダミエッタのヴィアル将軍及びエル・サルヘイヤのラグランジュ将軍と連絡を取り合い、この地域の制圧を命じた。
ハッサン・トゥバール討伐準備とシリア方面の対応
※ダカリーヤ州への侵攻準備とシリア方面の対応
アンドレオシー工兵将軍からのマンザラ湖周辺の報告書を読んだボナパルトは、アンドレオシー将軍にエジプトの東端にあるペルシウム(Pelusium)の遺跡に行くよう命じた。
アル・ジャミル村(現在のポートサイド)から南東約35㎞のところに位置しているペルシウムの遺跡はシナイ半島への入り口にある。
ボナパルトの考えでは、エジプトからシリアに攻め込む場合も、その逆の場合もマンザラ湖を通る必要があった。
シリアからエジプトに攻め込む場合は、地中海沿いではなくシナイ半島の砂漠を通りエル・サルヘイヤへ向かうルートもあるが、水と兵站的な意味合いで長期戦は難しかった。
そのため、マンザラ湖へと繋がるペルシウムの遺跡に700人~800人を収容できる砦を建設し、将来、シリアへと攻め込む可能性も考慮して軍の補給所として機能させるよう指示した。
※ペルシウムは1798年時点では遺跡となっているが、古代~中世にかけてエジプトを征服するための鍵と位置付けられるほどの重要地点だった。恐らくナポレオンはそのことを知っていたのだろう。
アンドレオシー将軍はこの他にもペルシウムでの真水の探索、ダミエッタやナイル川の港の防衛についての仕事を請け負っていた。
ボナパルトはこれまでの経験上、砂漠を掘れば新鮮な水が得られることを知っていたため、遺跡調査や砦建設の掘削時に真水が見つからないか試してみるつもりだったという面もあるが、元々軍事上の重要地点であることから井戸があったと推測したのだろう。
そしてこのアンドレオシー将軍の探索をヴィアル旅団とドゥガ師団に護衛させた。
この探索はマンザラ湖とその東の地域の探索と同時にダカリーヤ州の制圧とハッサン・トゥバール軍の討伐を目的としたものだった。
そのため、カイロからマンスーラに部隊を派遣し、ドゥガ師団のすべてをダミエッタに集結させた。
- TOP
- Egypt 01
- Alexandria
- Egypt 03
- Egypt 04
- Egypt 05
- Shubra Khit
- Egypt 07
- Pyramids
- Egypt 09
- Egypt 10
- Egypt 11
- Egypt 12
- Egypt 13
- Nile 01
- Nile 02
- Nile 03
- Nile 04
- Egypt 18
- Al Khankah
- Egypt 20
- Egypt 21
- El Salheya
- Egypt 23
- Egypt 24
- Egypt 25
- Egypt 26
- Egypt 27
- Egypt 28
- Egypt 29
- Egypt 30
- Egypt 31
- Egypt 32
- Al Bahnasa
- Egypt 34
- Egypt 35
- Ash Shuara
- Egypt 37
- Egypt 38
- Egypt 39
- Egypt 40
- Egypt 41
- Egypt 42
- Muzurah
- Sidmant