エジプト戦役 20:ダミエッタへ向かうヴィアル旅団とアル・ハンカへの集結
Concentration of forces in Al-Khankah
ダミエッタへ向かったヴィアル旅団の行程とダミエッタ支流周辺地域の占領
※ダミエッタへ向かったヴィアル旅団の行程
1798年8月3日夜、エル・ミニエ(El Menieh)を出発したヴィアル旅団は8月4日の日の出前にマンスーラ(Mansourah)に到着した。
エル・ミニエ(El Menieh)はミニエット・サマヌード(Minyet Samannoud)のことだと考えられる。
5日未明にマンスーラを出発してファレスクール(Fareskour)近郊に停泊し、6日午前2時にファレスクールを出発し、午前5時頃、遂にダミエッタに到着した。
ヴィアル将軍はダミエッタ市の主要指導者らの訪問を受けた後、ダミエッタ上流の2つの運河に挟まれた右岸に旅団を布陣させた。
その後、ヴィアル将軍はすぐにマンスーラの周辺制圧のためにサバティエ(Sabatier)大尉と砲兵分遣隊を派遣した。
サバティエ大尉は古代にはセベニトス(ギリシャ語:Σεβέννυτος )として知られていたサマヌード(Samannud)を占領するとムラード・ベイの所有物を発見し、同時にサマヌード周辺の豊かさと街の市場の重要性を指摘し、ナイル川ダミエッタ支流沿いのサマヌードから約8㎞西に美しい平原の中にあるメハレット・エル・ケビル(Mehallet-el-Kebir)の町が見えることを報告した。
メハレット・エル・ケビルにはフジェール旅団が向かっているところであり、占領までにあと数日かかると考えられた。
サバティエ大尉はサマヌードの街とその周辺を偵察する任務を任せられることとなった。
ダミエッタを占領したことにより、今までエジプトから出せなかった船を出航させることが可能となり、細々とながらコルフ島や本国などとの連絡が可能となった。
このことはボナパルトを勇気づけた。
アル・ハンカへの集結と軍の不満
※アル・ハンカへの集結
8月7日朝、ランヌ将軍にカイロからアル・ハンカ(Al Khankah)へ出発するよう命じ、カリューブのミュラ将軍にもアル・ハンカへ向かうよう命じた。
そしてボン将軍に対してカイロとアル・ハンカの中間に位置するエル・マタリヤ(El Mataryeh)に移動するよう命じ、軍後方の警戒とカイロとの連絡線の確保を行わせた。
ボナパルトの意図はアル・ハンカに兵力を集結させ、アル・ハンカから約30㎞のところに位置するベルベイスを攻撃することだった。
しかし、ランヌ旅団所属の士官や兵士達の一部はカイロを離れなければならないことを知ると不満を漏らした。
士官達は「熱波の猛暑の中で、水のない砂漠に軍隊を行進させ、日陰もなく熱帯の灼熱の太陽にさらそうとするなど前代未聞のことだ」と言った。
しかし7日の夜明けにはしぶしぶ武器を取った。
第9半旅団が先頭に立ったが、この半旅団は不満の塊であり、面従腹背を隠そうとしなかった。
ボナパルトは前に出て不快感を示し、大佐に右に向きを変えてカイロ市内に戻るよう命じ、厳しい口調で「第9半旅団の兵士達よ、私はあなたたちを必要としていない。」と言った。
そして第32半旅団に小隊に分かれて先導するよう命じた。
第9半旅団は長い説得の末、作戦への参加を許されたが、最後尾を進むこととなったと言われている。
そして、耕作された土地、多数の村、ヤシの木の森を離れて砂漠の端を辿り、7日中にアル・ハンカに到着した。