エジプト戦役 02:エジプトへの上陸とアレクサンドリアの戦い
Battle of Alexandria
※「フランス軍のエジプト上陸(Débarquement de l'Armée Française en Egypte)」。エドゥアール・アンリ・テオフィル・パングレ(Édouard-Henri-Théophile Pingret)画。製作年不明。
エジプトへの上陸
※ナポレオンのエジプト上陸計画。
1798年7月1日、ボナパルトはアレクサンドリアに直接上陸するのではなく、アレクサンドリアの西に位置するジャジラット・エル・マラブウ(Jazirat al Marabit)半島周辺から上陸し、その後、アレクサンドリアを征服することを考えていた。
旗艦オリエントの右側にはクレベール将軍率いる船団、左側にはボン将軍率いる船団を配置し、ドゼー将軍率いる船団の右側にはレイニエ将軍率いる船団、左側にはメヌー将軍率いる船団を配置した。
しかしその日の夜、アレクサンドリアの守備隊が抵抗するつもりであり戦闘準備を行なっているとの情報がボナパルトの元に舞い込んだ。
ボナパルトは即座に各師団に上陸を開始するよう命じた。
メヌー師団が最初にエジプトの地を踏み、ボン師団、クレベール師団が次々と上陸した。
この時、海が荒れていたため騎兵と砲兵の上陸は後回しにされ、歩兵のみが上陸を行なった。
そして夜11時、ボナパルトはクレベール将軍とともに上陸を果たし、翌2日午前2時に3個縦隊約5000人で進軍を開始した。
ドゼー将軍はフランス兵の上陸を指揮し、レイニエ将軍はフランス兵の上陸を支援した。
アレクサンドリアの戦い
※1798年7月2日、アレクサンドリアの戦い
フランス軍がアレクサンドリアへ接近し、翌2日夜明け頃にポンペイウスの柱を視界に収めると、マムルークとアラブ人の一団がフランス軍の前哨部隊と戦闘を開始した。
※ナポレオンが視界に収めたポンペイウスの柱。「ポンペイウスの柱」。ジョゼフ=フィリベール・ジロー・ド・プランジェ(Joseph-Philibert Girault de Prangey)撮影。1842年
ボナパルトは右翼にボン師団、中央にクレベール師団、左翼にメヌー師団を配置して前線を押し上げ、ボン師団をロゼッタ門(Porte de Rosette)方面、クレベール師団をポンペイウスの柱方面、メヌー師団を城壁西側の三角要塞方面へ向かわせた。
アレクサンドリアの城壁ではすでにコライム・パシャと500人のアラブ兵、武装した民衆が待ち構え、フランス軍に対し城壁の上から銃撃や投石を行なっていた。
ボナパルトはポンペイウスの柱の側に本部を設置し、降伏勧告を行わずアレクサンドリアへの攻撃命令を下した。
ボン将軍はロゼッタ門へ強攻を仕掛け、クレベール将軍はポンペイウスの柱門(Porte de la Colonne Pompée)方面の城壁をよじ登り、メヌー将軍は師団の一部で西側城壁にある三角形の強固な部分(ナポレオンは三角要塞と呼んでいる)を封鎖して残りの部隊とともに城壁の別の部分に移動して強攻を行なった。
メヌー将軍は重傷ではないが体に7つの傷を負いながらも師団は最初に城壁内に侵入した。
クレベール将軍は歩兵がよじ登る地点を指示した後、額に銃弾を受け地面に吹き飛ばされた。
※アレクサンドリアで負傷したクレベール将軍(1798年)。アドルフ=フランソワ・パンネマーケル(Adolphe-François Pannemaker)作。1870年
クレベール将軍の傷は重傷ではあるが幸いにも致命傷とはならなかった。
クレベール師団の兵士達は奮起して城壁の中へ侵入を果たした。
ボン将軍指揮下のマルモン将軍率いる第4半旅団は斧でロゼッタ門を破壊し、ボン師団全体が城壁の中になだれ込んだ。
城壁での戦いで第32半旅団の副旅団長マス(Mas)大佐が戦死し、副官エスカル(Escale)将軍が重傷を負い、約150人もの死傷者が出た。
城壁を守っていたアラブ兵達はメヌー師団が封鎖した三角要塞、灯台、新市街に避難した。
コライム・パシャは徹底抗戦をアレクサンドリアの民衆に訴え抵抗を続けた。
三角要塞と半島側の新市街では戦いが繰り広げられ、アラブ人達は新市街の建物の1つ1つを砦としてフランス軍に対抗した。
前線で撃退されたフランス部隊が後方で立て直しを行なっている時、砂漠方向からベドウィン(砂漠の遊牧民)が30騎と50騎の騎兵小隊でフランス軍の後方に押し寄せ、敗残兵に襲い掛かっては撤退するなどの嫌がらせ攻撃が開始され、フランス兵数名が連れ去られた。
ボナパルトはこれらの嫌がらせ攻撃に対応しつつ、午前11時までに三角要塞と新市街を制圧し、コライム・パシャはカイート・ベイの要塞に立て籠もった。
アレクサンドリアの民衆は森林やモスクに逃げ込んだが男性、女性、老人、子供問わず虐殺され、フランス軍は4時間経っても略奪と虐殺を止めることは無かった。
コライム・パシャは抵抗を続けたが、遂に弾薬が無くなり、7月2日が終わる前までに降伏し、カイート・ベイの要塞を明け渡した。
虐殺を生き延びたアレクサンドリアの民衆達は自分の命がまだあることに驚いたようだった。
この時、ナポレオンはコライム・パシャの勇戦を賞賛したと言われている。
これによりフランス軍はアレクサンドリアの街、要塞、2つの港(エウノストス港と大港)を勢力下に置いた。
このアレクサンドリアの戦いで、フランス軍は30人~40人が死亡し、80人~100人が負傷したと言われている。
戦いの後、ガントーム(Ganteaume)海軍少将が「新港(大港)を封鎖しなかったことを怒っているとブリュイ提督に伝えて欲しい。」とボナパルトに訴えたという一幕もあった。
カイロへの初動
アレクサンドリアの戦いの最中、ボナパルトは上陸を終えロゼッタ門に到着したドゼー師団を先鋒としてアレクサンドリアとカイロの間に陣取るよう命じた。
この日、ドゼー師団はロゼッタ門から東に2リーグ(2 lieues ≒ 8 km)進軍し、アル・ベイダ(Al Bayda')村へ針路を取った。
この時、騎兵も砲兵も未だ上陸しておらず、歩兵と数個の軽砲のみでの進軍だった。
マムルーク軍から見てこの日のドゼー師団の位置はロゼッタ方面にもダマンフール(Damanhour)方面にも向かう可能性のある位置である。
恐らくナポレオンはマムルーク軍を分散させる意図でそのような位置にドゼー師団を向かわせたのだと考えられる。
ベドウィンとの交渉
アレクサンドリアの戦いの後、ボナパルトはフランス兵を誘拐したベドウィンに身代金を支払うためにデュマ将軍を派遣した。
エジプト人達は、体格に優れ威風堂々たるデュマ将軍がベドウィンと身代金の交渉を行なうために馬に乗って塹壕を越えるのを見て、ナポレオンではなくデュマ将軍がフランス軍のリーダーだと思ったと言われている。
参考文献References
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻
・アブド・アル・ラフマン・アル・ラフィーイー(عبد الرحمن الرافعي)著「エジプトにおける国民運動の歴史と統治システムの発展(تاريخ الحركة القومية وتطور نظام الحكم في مصر)1929
・その他