エジプト戦役 16:ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)<終盤> 
Battle of the Nile, Late stage

戦闘再開とフランクリンの降伏

1798年8月1日11時過ぎ頃、フランクリンの降伏

※1798年8月1日11時過ぎ頃、フランクリンの降伏

 両艦隊の乗組員たちがフランスの旗艦オリエント爆散の昏迷状態から立ち直るまで10分以上かかった。

 1798年8月1日午後10時10分過ぎ、沈黙を破ったのはフランクリンの砲撃だった。

 フランクリンは託された信頼を守ろうと乗組員の半数以上が死傷し、残された者達も疲労のピークに達しているにも関わらず下甲板の砲数門で戦闘(ディフェンスとスウィフトシャーへの砲撃)を再開したのである。

 フランクリンの残りの砲はすべて使い物にならなかった。

 イギリスの各艦艇はフランス艦隊中央の風下(南東方向)に向けて砲撃を再開し、10時20分まで砲撃を続けたがその後約10分間砲撃は完全に停止した。

 (恐らく)午後11時過ぎ頃、負傷しながらも攻撃を命令し続けたシャイラ少将が乗船するフランクリンは、メインマストとミズンマストを失い、すべての砲を潰され、乗組員の3分の2が死傷していた。

 フランクリンは周囲をオリオン、ディフェンス、スウィフトシャー、リアンダーに囲まれ、フランクリンを支援可能な味方はいなかった。

 10時半過ぎ、残された下甲板の砲も3門しかなく、フランクリンはもはや戦闘の継続が不可能であり、この圧倒的に劣勢な戦闘に終止符を打つ必要が生じた。

 フランクリンの艦長は降伏を決意し、戦艦旗を降ろすよう命じた。

 フランクリンはイギリスの乗船隊によって拿捕され、フランス艦隊左翼の司令官であるシャイラ少将も捕虜となった。

 この時点でイギリス艦艇のほとんどはマストと艤装の損傷が酷く、帆を開くことも、停泊地点から移動することもできなかった。

 動くことのできたイギリス艦艇はアレクサンダー、スウィフトシャー、マジェスティックのみだった。

 午後11時前後、右翼の先頭に停泊したトゥノンはアレクサンダー、マジェスティックと戦っており、スウィフトシャーは僚艦を支援するために移動を開始した。

 近づいてくるスウィフトシャーを見たトゥノンは砲撃を行った。

 しかしスウィフトシャーは時折にしかアレクサンダーを避けてトゥノンを砲撃することができず、ほぼ一方的に砲撃を受ける形となった。

 スウィフトシャーのハロウェル艦長は周囲に降り注ぐトゥノンの砲弾にひどく苛立っていた。

 小規模だった戦闘は徐々に熱くなり、3隻中2隻のイギリス戦列艦がフランス艦隊右翼に肉薄した。

 交戦中のイギリス艦艇に最も近かったトゥノンは、すでにひどい被害を受けていたが、非常に激しい反撃を行った。

トゥノンの漂流と2時間の戦闘停止

1798年8月2日午前2時15分時頃、トゥノンの漂流とフランス艦隊右翼の停泊場所の変更

※1798年8月2日午前2時15分時頃、トゥノンの漂流とフランス艦隊右翼の停泊場所の変更

 日付が変わった8月2日午前0時16分、ヴァンガードも降伏したフランス艦艇を拿捕するためにヴァッサル海尉率いる海兵隊の一団を派遣した。

 この時点ではアレクサンダー、スウィフトシャー、マジェスティック以外のイギリス艦艇は未だ動き出せずにいる状況だったが有利に戦況をすすめていた。

 午前2時15分頃、トゥノンはマストを失い、2度目のアンカーケーブルの切断を余儀なくされ、錨も残っていなかったため漂流し、海岸へと流された。

 ギョーム・テル、ジェネルー、ティモレオンは停泊場所を変更し、砲撃の届かないさらに風下に錨を下ろした。

 これらの艦艇は、ティモレオンの舵が破壊されていること以外大きな被害を受けていなかった。

 そして午前2時55分、再び戦線全体で砲撃が完全に停止した。

※恐らくこの頃までにスウィフトシャーは移動できる状況ではなくなっていたのではないかと考えられる。

戦闘再開とフランス艦隊右翼への戦力の集中

1798年8月2日午前5時~5時半頃、ネルソンによるフランス艦隊右翼への戦力集中命令

※1798年8月2日午前5時~5時半頃、ネルソンによるフランス艦隊右翼への戦力集中命令

 両軍の砲撃が停止している時を利用してネルソンはアレクサンダーとディフェンスからのボートを受け入れ、残存しているフランス艦艇と相対するための準備を整えるよう命じた。

 午前5時5分過ぎ、アレクサンダーとマジェスティックがフランス艦隊右翼への砲撃を開始した。

 テセウスを指揮するミラー艦長はイギリス艦2隻(アレクサンダー、マジェスティック)とフランス艦3隻(ギョーム・テル、ジェネルー、ティモレオン)との数的劣勢な戦いを見て、僚艦を支援するためにフランス艦隊右翼に向けて移動を開始した。

 テセウスは幸いにもマストと艤装の被害はほとんどなく、フランス艦隊左翼を制圧するとすぐにミラー艦長は艦の修復作業を行なっていたため他の艦に先立って行動を開始することができたのである。

 午前5時半前頃、フランス艦隊左翼と中央をほぼ制圧したネルソンは、戦力をフランス艦隊右翼に集中させるよう命じた。

 ゴリアテは錨を揚げて南へ向かい、ボートを先行させて水深を測らせつつテセウスに倣い未だ戦艦旗を掲げているフランスの艦艇の方へ向かった。

 最も遠く離れていたジーラスも錨を揚げて前進した。

 ほとんど被害がなかったリアンダーもネルソンから交戦中の艦艇を支援するよう合図で命令され、それに従った。

フリゲート艦アルテミーズの脱落とシリウーズの沈没

 午前5時54分、フランス戦線中央左側に陣取っていたフリゲート艦アルテミーズ(Artemise)が移動中のテセウスに舷側からの砲撃を加え、砲撃を命中させた。

 テセウスのミラー艦長はアルテミーズに反撃した。

 しかしその後すぐにアルテミーズの戦艦旗が下げられた(敗北を示した)。

 発砲直後に敗北を示すという行為は戦場で忌み嫌われる行為だった。

 ミラー艦長は降伏したアルテミーズを占領するために乗船隊を派遣した。

 別のフランスのフリゲート艦シリウーズ(Sérieuse)はイギリス艦をフランス艦隊から遠ざけようと必死に砲撃を行っていたが、何隻かのイギリス艦からの砲撃によって沈没した。

 しかしシリウーズの残骸は水上に残っていたため乗組員はそれらにしがみついて水面に浮かび、その後イギリスのボートに救助され捕虜となった。

フリゲート艦アルテミーズの放棄と放火

 午前6時30分、テセウスの乗船隊がアルテミーズの近くまでボートで接近したとき、アルテミーズ艦長エスタンドレット(Estandlet)は艦に火を放ち、乗組員の一部とともに海岸へ逃亡した。

 火が燃え広がりアルテミーズは漂流していった。

テセウス、ゴリアテ、リアンダーの前線への到着とウールー及びメルキュールの降伏

1798年8月2日午前6時半以降、テセウス、ゴリアテ、リアンダーの前線への到着とウールー及びメルキュールの降伏

※1798年8月2日午前6時半以降、テセウス、ゴリアテ、リアンダーの前線への到着とウールー及びメルキュールの降伏

 この時点で、イギリス艦隊のアレクサンダー、マジェスティックの2隻とフランス艦隊のギョーム・テル、ジェネルー、ティモレオンの3隻との距離は遠く、両艦隊は離れて砲弾を放っていた。

 これはフランス艦艇が気付かないうちに風下に流され続けたためだった。

 これは座礁しているウールー及びメルキュールとの距離もさらに離れてしまったということを意味していた。

 テセウスは浅瀬に乗り上げて身動きの取れないウールーの元に到着して攻撃を開始し、午前6時40分にゴリアテもテセウスの近くに停泊してウールーへの発砲を開始した。

 10分後の6時50分、ウールーが大砲を発砲してゴリアテに応戦しメルキュールもそれに倣った。

 その後アレクサンダーとリアンダーはメルキュールの元に到着して発砲を開始し、メルキュールも反撃した。

 しかしウールーとメルキュールは座礁して操舵不能だったためイギリス戦列艦に舷側の砲を向けることができず不利な戦闘を強制された。

 これらの攻撃によりウールーは戦艦旗を降ろすことを余儀なくされ、メルキュールはアレクサンダーの乗船隊によって占領された。

 この時点で未だ戦艦旗を掲げているフランス戦列艦は大破し操舵不能となりながらも抵抗の意思を見せているトゥノン、舵が破壊されて南に漂流し友軍と離れたティモレオン、損傷軽微のギョーム・テルとジェネルーの合計4隻であり、健在なフリゲート艦はディアーヌとジュスティスのみとなっていた。

フリゲート艦アルテミーズ及び爆弾艦エルクールの爆発

 午前7時半前頃、火災の起きたフランス船(アルテミーズ?)が波に流されていくのがロゼッタから見えた。

 その30分後、全く火災が発生していないと思われた別の船(恐らくエルクール)が突然爆発した。

※Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」によると1798年8月3日の集計時点において「焼失」と確認されたフランス艦はオリエント、ティモレオン、アルテミーズ、エルクールの4隻である。オリエントは8月1日に爆散し、アルテミーズは燃えている状態であり、ティモレオンは最後に爆発しているため、この時に爆発したのはエルクールだと考えられる。
ただ、アルテミーズが燃えているとロゼッタから観測できない状態だった場合、この全く火災が発生していない別の船はアルテミーズの可能性もある。

 ロゼッタから1マイル(約1.6㎞)離れたアブマンドゥル塔からの観測によると「その爆発は前夜の爆発(オリエントの爆発)と同じくらい恐ろしいものだった。」とのことである。

 そして火災が起きた船は岸から遠ざかるにつれて炎はいつの間にか弱まり、火災が収まったかに見えた。

カローデン艦長トロウブリッジの奮闘と

 8月2日朝、周囲が明るくなった頃、カローデンから下船してボートに乗り込み損害状況の確認を行った。

 その結果、舵が外れて後部にかなりの損傷を負っていることが判明した。

 トロウブリッジ艦長はすぐに乗組員にすべてのポンプを動かすよう命じたが艦を浮かせるのがやっとの状態だった。

 トロウブリッジ艦長はこの最悪の状況を打破するためにカローデンの修復作業を精力的に行った。

ナイルの海戦の決着

 ロゼッタからの観測によると交戦中のフランス艦艇の何隻かは意気消沈しているように見え、両艦隊は混ざり合って戦っていたため遠くからの観察ではフランス艦隊かイギリス艦隊かを区別することも、どちらが有利なのかも見分けることができなかった。

 しかし、如何に有利な状況で戦っていたとは言えイギリス艦隊は大きな被害を受けており、攻撃の手は弱まっていた。

 ヴィルヌーヴ少将はこの部隊は時間を最大限に活用し、午前11時前頃にギョーム・テル、ジェネルー、ディアーヌ、ジュスティスを整列させ、戦列を組んだ。

 ヴィルヌーヴ少将は航行不能なトゥノンとティモレオンを戦場に置き去りにし航行可能なギョーム・テル、ジェネルー、ディアーヌ、ジュスティスの4隻でアブキール湾の戦域を離れるという苦渋の決断を行なったのである。

 午前10時57分、イギリス戦列艦が戦列を組んでフリゲート艦ディアーヌとジュスティスに舷側を向けて停止し、砲撃を開始した。

 午前11時過ぎ頃、戦いを避けるためにジェネルー(Généreux)とギョーム・テル(Guillaume Tell)はアンカーケーブルを切断して2隻のフリゲート、ジュスティス(Justice)とディアーヌ(Diane)、ブリッグ船サラミーヌ(Salamine)とともにアブキール湾の外に出た。

 座礁して航行不能となっているトゥノンとティモレオンは戦場に取り残された。

 この時のトゥノンには多くのフランス兵が海から引き上げられて救助され、甲板上に溢れていたと言われている。

 午前11時過ぎ、アブキール湾から出たフランス戦列艦2隻とフリゲート艦2隻はイギリス艦隊の大砲の遥か射程外で錨を降ろして海上に浮いていた。

 この時、適度な風があり、空は晴れていた。

 ネルソンはアブキール湾沖に浮かぶ健在な4隻のフランス艦艇を警戒しつつ、占領完了し座礁しているフランス艦艇を再び水上に浮かび上がらせ、曳航するための準備などを行った。

 出航できる状態ではなかったティモレオンは右に舵を切ったが、前部が浅瀬に激突する不運に見舞われ、その衝撃でフォアマストが倒れた。

 その後、ベレロフォンがアブキール湾東端で修理中であると気付いたジュスティスはベレロフォンを拿捕するために接近を開始した。

 しかしジーラスがベレロフォンにフリゲート艦ジュスティスの乗船隊が乗り込むのを阻止し、ジュスティスを追跡した。

 午後12時45分、ジュスティスはギョーム・テル等と合流し、ジーラスがフランス艦隊の逃亡を阻止するためにアブキール湾沖に停泊しているフランス戦列艦2隻とフリゲート艦2隻に向けて発砲を開始すると、フランス艦隊はしばらくしてからアブキール湾沖から東に撤退して行った。

 その際、ヴィルヌーヴ少将はアブキール湾の海戦について報告するためにサラミーヌを分離し、ボナパルトの元へ派遣した。

 ジーラスのフッド艦長はヴィルヌーヴ少将の指揮する4隻のフランス艦を追跡しようとしたが、ネルソン戦隊の損傷は酷くジーラスを支援できる状態の艦はなかった。

 そのためジーラスはネルソンに深追いをしないよう止められ、呼び戻された。

 日没時、アブキール湾から離れて行ったヴィルヌーヴ少将率いる一行だったが、アブキール湾から見える位置にいたと言われている。

 アブキール湾に取り残されたトゥノンとティモレオンは未だ戦艦旗を掲げていたものの、これによりナイルの海戦の勝敗は決した。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・James Stanier Clarke and John M'Arthur著「The Life of Admiral Lord Nelson from His Manuscripts: Volume 2」(1809)

・Cooper Willyams著「A Voyage Up the Mediterranean in His Majesty's Ship the Swiftsure」(1802)

・「Histoire des Combats D'Aboukir, De Rrafalgar, De Lissa, Du Cap Finistere, et de plusieurs autres batailles navales, Depuis 1798 Jusqu'en 1813」(1829)

・John Marshall著「Royal Naval Biography,Vol 1. Part 2.」(1823)

・Edward Pelham Brenton 著「The Naval History of Great Britain: From the Year MDCCLXXXIII to MDCCCXXII,Vol II.」(1823)

・John Ross,他著「Memoirs and Correspondence of Admiral Lord De Saumarez: Volume 2」