エジプト戦役 05:両軍の集結とフランス軍のシュブラ・キットへの進軍開始
The gathering of both armies and the beginning of the French army's advance
マムルーク軍への接近とナイル川沿いの後方連絡線の確保
※ドゼー師団とレイニエ師団によるナイル川沿いの後方連絡線の確保。
1798年7月9日午後、ダマンフールでの軍議が終わり、作戦が決定され、午後5時、レイニエ師団は騎兵隊を加えてアル・ラフマニーヤへ向かい、レイニエ師団の分遣隊はフゥワ(Fuwwah)へ向かった。
その1時間後、ドゼー師団がダヴー騎兵旅団とともにメニィエト・サラマー(Menyet Salamah)に向った。
レイニエ師団の目的はナイル川に到達してロゼッタからアル・ラフマニーヤまでの後方連絡線を確保しつつ食糧(米)を前線に運ぶことであり、ドゼー師団の目的はシュブラ・キット(Shubra Khit)周辺のムラード・ベイ軍を警戒し、レイニエ師団がアル・ラフマニーヤを占領するための支援を行なうためだった。
もしムラード・ベイが素早くアル・ラフマニーヤを急襲して占領した場合、フランス軍は不安定なダマンフール~アレクサンドリア間の後方連絡線を利用せざるを得なくなる可能性があったこともあるが、兵士達には水と食糧が必要だった。
この時ムラード・ベイ率いるマムルーク軍とオスマン帝国軍は、ダマンフールからの道とナイル川の合流点でありメニィエト・サラマーから南に約7㎞の地点に位置するシュブラ・キット周辺にフランス軍を撃退すべく集結しつつあった。
ムラード・ベイ軍は約150㎞の距離を船を利用してナイル川を下り、ほんの数日でシュブラ・キットに移動していたのである。
そしてボナパルトはボン将軍に2日分の食糧を確保した後、11日午前中にアル・ラフマニーヤに到達し、そこに留まるよう命じ、自身も幕僚を連れてアル・ラフマニーヤに旅立った。
この時、ドゥガ師団はナイル川を南下してメニィエト・エル・サイード(Menyet El-Saeed)を経由するルートでアル・ラフマニーヤへ向かっており、アル・ラフマニーヤまで1~2日の距離まで進軍していた。
そして同時にペレー大佐率いる3隻の砲艦を含む合計5隻の小艦隊もナイル川を遡上していた。
ドゼー師団とレイニエ師団がナイル川に到達した時、兵士達は歓喜してナイル川に飛び込み、浴びるように流れる川の水をそのまま飲んだと言われている。
ボナパルト本体が通ってきたルートは水がほぼ無い過酷な環境の砂漠やベドウィンによって後方連絡線を脅かされるため、計画通りドゥガ師団が通ってきたナイル川沿いのルートに後方連絡線を変更した。
ナポレオンの窮地
ボナパルトが幕僚とともにダマンフールからアル・ラフマニーヤに向かっている途中、ドゼー師団を包囲しようと移動しているであろうマムルーク部隊とアラブ人の集団(恐らくベドウィンの集団が落伍兵などを襲撃するためにドゼー師団を追うように徘徊していたのだろう)を発見した。
ボナパルトの周囲には少数の幕僚のみしかいなかった。
しかし体を隠せるほどの大きな砂丘があったため、ボナパルトは機転を効かせて幕僚とともにその影に身を隠した。
その後、アラブ人の集団は去り、師団の支援もあってボナパルトは事なきを得た。
両軍の集結
※1798年7月10日、ムラード・ベイ軍との最初の接触
7月10日、フランス軍はアル・ラフマニーヤに集結しつつあり、マムルーク軍はシュブラ・キットに集結しつつあった。
朝、マムルーク騎兵700騎~800騎で構成される先遣隊がシュブラ・キットから前進してドゼー師団と戦闘を行なった。
ドゼー師団はこのマムルーク騎兵部隊と戦い、ブドウ弾による砲撃が決定打となり撃退することに成功した。
フランス軍側の損害は4人であり、マムルーク軍側の損害もそれほど多くなかったと言われている。
ボナパルトがアル・ラフマニーヤに本部を置くと、ロゼッタからナイル川を遡っていたドゥガ師団の前衛がアル・ラフマニーヤに到着した。
前線では小競り合いが始まっていることから、マムルーク軍はすでにシュブラ・キット周辺に集結を完了させている可能性があり戦いが近いと考えたボナパルトはドゥガ師団本体と小艦隊の到着を急がせた。
デュマ将軍の天幕での会食
デュマ将軍はアル・ラフマニーヤでスイカを3個手に入れることができ、共に食べるためにドゼー、ランヌ、ミュラなどを誘った。
将軍達はスイカを食べつつ不満を共有した。
「エジプト戦役はその始まりから酷いものであり、アレクサンドリアを出発して以来、兵士達はとても苦しんでいる。遠くからは砂漠に広がるエメラルド色の幅広のリボンのように見えたエジプトが、古代では豊かな世界の穀倉地帯であった面影はなく、今は貧困、逃亡する住民、荒廃した村々が姿を現した。」
デュマ等はドゼー将軍の不満を聞いていたが、それは軍全体の不満だった。
デュマの天幕での集会はスイカを3個食べることが目的だった集会だが、しばらく全員が不機嫌を共有すると、政治的な側面を帯び始めた。
ボナパルトはこの会食での出来事をランヌもしくはミュラから聞き、これ以降、デュマ将軍を遠ざけるようになった。
※Alexandre Dumas著「Mes mémoires par Alexandre Dumas, 第1巻」P145~146。Michel Lévy Frères社より出版。(1865)
※同じ書籍のP156~157にダマンフールでの集会とも書いてあるが、ランヌとミュラはドゥガ師団とともにロゼッタ方面からナイル川を遡って来ており、ダマンフールには立ち寄っていない。そのためこの集会があったのはデュマ、ドゼー、ランヌ、ミュラが揃ったアル・ラフマニーヤである。
ムラード・ベイのフランス軍に対する評価とナポレオンのマムルーク軍に対する評価
※ムラード・ベイの肖像画。作者不明。1800年頃
前衛同士の小競り合いはあったものの、この時点では両軍ともお互いの実力を知らなかった。
マムルーク軍指揮官ムラード・ベイは金髪髭を生やした腕力の強い大男で、正式な軍事教育を受けておらず、才能によってその地位まで上り詰め、エリート軍人であるマムルークを統率している人物だった。
ムラード・ベイは当初からフランス軍の強さについてあまり評価していなかったが、最初の小競り合いでフランス軍に騎兵がほとんど見当たらないことを知ると「我々は騎兵である」とさらに侮ったと言われている。
確かにマムルークは幼少期から徹底した戦闘訓練を積んだ騎兵のエリートであり、イギリス製のライフルやピストルなどの近代武器を装備し、当時としては最高の騎兵の1つだった。
対するボナパルトはオスマン帝国やマムルーク朝に関する資料や書籍を詳細に読み込んでいた。
その中にはもちろんマムルーク軍について書かれているものもあった。
マムルーク軍は歩兵の主装備に銃を採用していないこと、大砲の少なさとその射程、そしてマムルーク騎兵の優秀さとその装備を理解していた。
そのためマムルーク軍で恐れるべきは騎兵であり、騎兵対策を行えばマムルーク軍に対し優位に立つことができるだろうと考えていた。
ドゥガ師団のアル・ラフマニーヤへの到着と進軍準備
7月11日、レイニエ将軍はナイル川沿岸の村々から必要な物資の提供を求めるために、数隻のボートを武装させ、それに歩兵の分遣隊を乗せてナイル川両岸を巡回させた。
そしてようやくドゥガ師団が小艦隊とともにアル・ラフマニーヤに到着し、その後ボン師団も到着した。
これでシュブラ・キットへ進軍しマムルーク軍と戦うための兵力が集結した。
その数、歩兵約20,000人、騎兵約3,000騎(馬不足のため徒歩で行軍している者も含む)、合計約23,000人となった。
ボナパルトは閲兵を行なって武装と兵士の状態を確認し、各師団に進軍準備を行なわせた。
そして7月12日までの時点で、フランス兵のごく一部に発熱や腹痛、下痢、嘔吐などの症状で倒れる者がおり、軍医によると現地のかぼちゃやスイカを生のまま食べたことが原因ではないかと考えられた。
そのためボナパルトはかぼちゃやスイカは食べないよう、そしてもし食べるなら加熱調理するよう各師団長に勧告した。
加熱調理したスイカはその後、フランス軍の食糧源の一つとなった。
フランス軍の進軍の開始
※1798年7月12日夜、シュブラ・キットへの行軍の開始
7月12日、午後4時~5時にかけて、ボナパルトはマムルーク軍の状況を把握するためにメニィエト・サラマーにいる前衛ドゼー師団を前進させて索敵させ、適切な距離を空けてボン師団、レイニエ師団、ヴィアル旅団、ドゥガ師団の順でメニィエト・サラマーに向かわせた。
午後5時、小艦隊を率いるペレー大佐をドゥガ師団と同時にアル・ラフマニーヤを出発させ、小帆船(恐らく物資を積んでいる)を護衛しつつメニィエト・サラマーの対岸に向かわせた。
アンドレオシー工兵将軍の部隊はシュブラ・キットの後方に上陸してマムルーク軍の退路を断つためにペレー大佐の小艦隊に乗船した。
そして自身はヴィアル旅団とともにメニィエト・サラマーに向いアル・ラフマニーヤを後にした。
夜7時、フランス軍はメニィエト・サラマーに集結し、月が昇るとすぐにシュブラ・キットへ出発した。
最も重要なことは、ムラード・ベイに塹壕を完成させて軍の結集を完了させる時間を与えないことだった。
ネルソン戦隊の動向
※1798年6月30日~7月12日までのネルソン戦隊の航路
6月30日にアレクサンドリア沖を発ったネルソン戦隊はキプロス島の西を航行しカラマニア(Caramania)沿岸を観察した後、西に針路を取って7月12日までにクレタ島南の沖合に到着していた。
※カラマニアとはアナトリア(Anatolia)南の地中海沿岸地域のヨーロッパから見た呼び名である。
しかしそれでもフランス艦隊を発見することはできず、そのまま針路を西に取ってシチリア島へ向かった。
この時点でシチリア島シラクサから東地中海をほぼ一周してきたが、フランス艦隊の影も形も無く、何の情報も得ることはできていなかった。
参考文献References
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻
・Niello Sargy著「Memorie istoriche sopra la spedizione in Egitto di N. Bonaparte, Volumes 1-3」(1834)
・Alexandre Dumas著「Mes mémoires par Alexandre Dumas, 第1巻」。Michel Lévy Frères社より出版。(1865)
・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」
・その他