エジプト戦役 34:フランスを取り巻く情勢情勢と世界初の軍へのコーヒーの配給
The situation surrounding France in 1798

1798年9月上旬時点でのフランスを取り巻く情勢

1798年ヨーロッパの勢力図

※1798年ヨーロッパの勢力図。
CraftMAP様の白地図を加工しています。

サルディーニャ王国

 サルディーニャ王国は、1796年のモンテノッテ戦役でナポレオンに敗北してサヴォイアやニースを割譲して以降フランスの強い影響下にあり、その後のオーストリアとの戦い時はフランスへの協力を余儀なくされ、国庫は空になり、軍は弱体化して組織が乱れ、民衆の間で革命が起こりつつあった。

 フランス共和国はさらに軍事的圧力をかけ、大陸に残された領土も奪い取ろうと動いていた。

 1798年9月10日時点で、首都トリノを初め周辺地域の要衝も軍事的に押さえられており、サルディーニャ王国に成す術は無かった。

スイス(ヘルヴェティア共和国)

 1798年4月12日にスイスに建国されたヘルヴェティア共和国は、8月19日にフランス共和国と正式な同盟条約を締結し、両国は相互の防衛と攻撃の支援を行うことが決定され、スイスはこれまでの「フランスの保護下での事実上の中立」を失っていた。

 そして、9月中にこの条約の批准文書の交換が行われる予定であり、国際的にもフランス共和国の属国となることを余儀なくされようとしていた。

イギリス

 イギリス本国では5月にアイルランドの反乱が発生し、それが各地に広がって行ったが、8月末頃には反乱軍はゲリラ抵抗の拠点にまで追い詰められていた。

 しかし、その後、フランス軍は海峡を越えてアイルランド遠征軍をメイヨー州に上陸させることに成功させていた。

インド

 インドでは、将来の初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーの兄であるリチャード・ウェルズリー(Richard Wellesley)男爵が1798年5月18日にインド総督として着任した。

 すでにインドにいたアーサーは兄リチャードをインドで出迎えた。

 インドでイギリスに抵抗しているのはほぼマイソール王国とマラーター王国のみとなっていた。

 リチャードは、マイソールのティプー・スルタンがフランスと軍事同盟を結ぼうと動いていること、そしてナポレオン・ボナパルト将軍が7月にエジプトに上陸したことを知るとマイソール王国の打倒を決意した。

 リチャードはエジプトでの時間稼ぎとエジプトの状況の把握のためにスエズへ部隊を派遣した。

 そして9月1日にニザーム王国を掌握して藩王国化し、マイソール王国への侵攻準備を急いだ。

オーストリア

 オーストリアは表には出さないがフランスに対抗するつもりであり、1798年5月にナポリ王国との同盟を締結し、た。

 オーストリアと交渉中のラシュタット会議はフランスの視点では終わりに近づいているように見えたが、オーストリアはさらに交渉を長引かせ、フランスに対抗しようとしていた。

ロシア

 ロシアのパーヴェル1世は、ネーデルラント、イタリア、スイスを次々と占領して姉妹共和国を樹立したフランス共和国を強く警戒していた。

プロイセン

 プロイセンでは、1797年11月9日、フリードリヒ ヴィルヘルム2世は息子であるフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に政権を委ねていた。

 そのため1798年9月時点では、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は権力基盤の掌握と内政に励んでおり、中立の立場を取っていた。

ナポリ王国

 ナポリ王国では、1797年10月のカンポフォルミオ条約の後、オーストリアにナポリ軍総司令官となる将軍の派遣を要請していた。

 オーストリア皇帝フランツ2世は個人的に、中将となったばかりのカール・フライヘル・マック・フォン・ライベリヒ(Karl Freiherr Mack von Leiberich)をナポリ王フェルデナンド4世に推薦した。

 フェルデナンド4世はこれを受け入れ、マック将軍はナポリ軍の最高指揮権を与えられることとなった。

 この時、ローマは1798年2月にフランス軍によって占領され、フランス共和国の姉妹共和国であるローマ共和国が建国されていた。

 ナポリ王国はいつフランスが攻め込んで来るのか不安に思っており、1798年5月にオーストリアと同盟を締結し、イギリスとも同盟は結んでいないものの良好な関係を保っていた。

世界初の軍隊へのコーヒーの配給

 9月13日、ボナパルトは各師団へのコーヒーの配給を指示した。

 配給されるのは焙煎されたコーヒー豆であり、コーヒーグラインダーも各師団に支給された。

 師団を離れて活動する別動隊に関しては、コーヒー豆を挽いて粉末状にして送ることとなった。

 これが世界初の軍隊でのコーヒーの配給である。

 特にエジプトでは暑い日中での活動を避け、日が沈んでから活動を開始することが多かったため、この不思議な力が湧き起こるコーヒーを軍に配給したのである。

ソンバット村の反乱

 ナポレオンが師団にコーヒーの配給を命じている頃、ガルービーヤ州では反乱が勃発していた。

 午後3時に第13半旅団の半数と第18竜騎兵の半数からなる分遣隊がソンバット(Sonbat)村で殺され、翌14日未明にヴェルディエ将軍が鎮圧に向かった。

 僅かな戦闘の後、村は強制的に焼き払われ、戦場に残った50人以上のアラブ人の大部分が溺死した。

 ヴェルディエ将軍はラクダと6,000頭以上の羊を奪い取った。

 反乱の別の部分はミット・ガマル近郊でミュラ将軍によって襲撃され、40人が殺害され、牛の一部が奪われ、逃亡を余儀なくされた。

 逃れた者たちはハッサン・トゥバールのお膝元であるダカリーヤ州に向かったのだろう。

ナポレオンの物流計画

 9月15日、ボナパルトはローダ島の南端に貯蔵施設を建設するよう命じた。

※この貯蔵施設は、恐らく8世紀~9世紀に建設されたローダ島に現存するナイロメーター(ナイル川の水位や透明度を測る施設)の近くに建てられたのだと考えられる。

 この貯蔵施設はナイル川を通るすべての物資を管理するためのものであり、各師団への物流の心臓部でもあった。

 ナイル川のロゼッタ支流とダミエッタ支流の間の運河の整備、マンザラ湖の探索と周辺物流路の開拓、そしてローダ島の貯蔵施設の完成により、西はアレクサンドリアのクレベール師団、北はロゼッタのメヌー師団とダミエッタのヴィアル旅団、東はエル・サルヘイヤのレイニエ師団、南は上エジプトへ侵攻中のドゼー師団への物流のすべてがカイロで管理でき、スムーズに行われる計画だった。

 フランス軍が長期間エジプトに閉じ込められたとしても戦争に耐えられるよう物流改革を行い、効率化と中央集権化を進めて行った。

 フランス本国との物流が途絶えたとしても、オスマン帝国と和解すれば残る敵はイギリスのみとなり、エジプトを拠点としてインドへの足掛かりとすることができるのである。

 ボナパルトはインドへの夢を諦めていなかった。

 しかし、ヨーロッパではフランスを脅威に思う国々が増え、水面下で策動し始めていた。

ポルトガル艦隊のマルタへの出発

 およそ3ヶ月前の6月30日、ポルトガルの南部海岸にあるラゴス(Lagos)で二サ(Nisa)侯爵ドミンゴス・ザビエル・デ・リマ(Domingos Xavier de Lima)率いるポルトガルの艦隊はジブラルタル海峡を通過してネルソン戦隊と合流するようイギリス地中海艦隊ジョン・ジャービス提督から要請を受けた。

 そのため二サ侯爵はすぐにネルソン戦隊を追ってアレクサンドリアに向かい、8月24日にアレクサンドリア沖に到着した。

 しかしそこにはサミュエル・フッド艦長率いる小規模な封鎖部隊がいるのみであり、ニサ侯爵はサミュエル・フッド艦長とともにアレクサンドリアの封鎖に加わった。

 9月15日、アレクサンドリアの封鎖を継続していたニサ侯爵の元にマルタの封鎖をするよう命令する書簡が届けられた。

 そのため、ニサ侯爵は艦隊を率いてマルタに向かった。