エジプト戦役 27:オスマン帝国内部の情勢とエジプト遠征の全体像
A Rough Overview of Napoleon's Egyptian Campaign
イブラヒム・ベイのシリアへの撤退
イブラヒム・ベイが派遣したカシェフの到着から8日後(恐らく8月21日前後)、ブリュイ提督率いるフランス東洋軍艦隊がネルソン戦隊に壊滅させられたことを知ったイブラヒム・ベイは派遣したカシェフをイブラヒム・ベイの元に戻すよう要求し、「フランス艦隊が壊滅したことにより状況が一変し、(フランス軍は)もはや助けを得ることができず、あらゆる方向に敵が存在し、最終的には敗北するだろう」と語った。
そして、シリア方面へ撤退して行った。
ボナパルトはシリアに送ったスパイからの報告を元に、「イブラヒム・ベイはガザで逮捕されるだろう」と推測した。
ドゼー師団へのムラード・ベイ軍討伐令
8月22日、ついにドゼー将軍にベニ・スエフ州への侵攻命令が下った。
ボナパルトはその際、ナイル川岸のムラード・ベイ軍の動向をよく知ることができるようアトフィ(Atfih)に24時間留まるよう要望した。
ドゼー師団の初期の目標は、ベニ・スエフ州とファイユーム州の制圧だった。
オスマン帝国内部の情勢
※フランシス・ブロッケル・スピルスベリー(Francis Brockell Spilsbury)著「1799年と1800年の戦役中に描かれた聖地とシリアの美しい風景(Picturesque Scenery in the Holy Land and Syria, Delineated During the Campaigns of 1799 and 1800)」(1819)より抜粋。トーマス・マクリーン(Thomas Mc Lean)画。
この人物が新たに大宰相とる盲目のユースフ・ズィヤウッディン・パシャである。右目を瞑っているのがわかる。
同日、ボナパルトはダミエッタのヴィアル将軍に、ダミエッタからロードス島のキャラベル船へ書簡を送るよう命じた。
この書簡はオスマン帝国大宰相(Grand Vizir)宛てのもので、もしロードス島に所定の船が見つからない場合、コンスタンティノープルへ運ぶよう指示していた。
8月22日時点の大宰相はサフランボルのイゼット・メフメト・パシャ(Safranbolulu Izzet Mehmet Pasha)だったが、彼は現エジプト総督セイド・アブー・バクル・パシャの前任者だったため、今回のナポレオンのエジプト侵攻において、数ヶ月にわたってフランスがエジプトを攻撃するという噂があったにもかかわらず何の対策も講じなかったことを理由に断罪されていた。
そして8月30日に大宰相職を解任され、代わりに盲目のユースフ・ズィヤウッディン・パシャ(Kör Yusuf Ziyaüddin Pasha)が大宰相に任命された。
この時、ユースフ・ズィヤウッディン・パシャはトラブゾン(Trabzon)州知事を務めていたため、職務の引継ぎを行いすぐにコンスタンティノープルへ向かった。
しかし、州都トラブゾンからコンスタンティノープルまで直線距離で約900㎞離れており、移動にそれなりの時間を要すると考えられた。
ナポレオンのエジプト遠征の全体像
※ナポレオンのエジプト遠征のおおよその計画。オスマン帝国の版図はおおよそであるため正確ではない。
ボナパルトは、イタリア遠征時からエジプトへの遠征について深く意見を交わし、コンスタンティノープルへ行きオスマン帝国をその外交手腕で懐柔すると約束をしたはずのフランス外務大臣タレーラン・ペリゴールがオベール=デュバイエ駐コンスタンティノープル大使の後任としてコンスタンティノープルに向かっていると信じていた。
ボナパルトはオスマン帝国と事を構えるつもりは無く、エジプトを要塞化し、インドのマイソール王国と協力してインドのイギリス勢力を排除することを考えていた。
1798年当時、「マイソールの虎(Sher-e-Mysore)」と畏れられていたマイソール王国スルタン、ティプー・サーヒブ(Sultan Fateh Ali Sahab Tipu)は、第3次マイソール戦争でコーンウォリス将軍率いるイギリス軍に敗北して領土の半分を失ったにもかかわらず、急速にインドの支配領域を広げマイソール王国へのさらなる侵略を目論んでいるイギリスに対抗し続けていた。
◎「マイソールの虎」ティプー・スルタン
※Maistre de la Tour,Charles Stewart著「The history of Hyder Shah, alias Hyder Ali Khan Bhadur, and of his son, Tippoo Sultaun」(1855)より抜粋。
ボナパルトは、風前の灯火とはいえイギリスに対抗し続けているマイソール王国と連絡を取り合い、インドへの足掛かりにしようとしたのである。
※1798年2月13日付のタレーランの報告書によると、「エジプトを占領して要塞化した後、スエズから15,000人の部隊をインドに派遣し、ティプー・サーヒブの軍と合流してイギリスを追い払う」と書かれている。
しかし、オスマン帝国側から見た場合、実質的にマムルークに支配されていたとはいえ、突然、自国領をフランスに奪われたのであり、例え友好国だったとしても看過できない出来事だった。
大宰相への書簡を送った日と同日、ボナパルトはガザのジェザル・アフマド・パシャにエジプト侵攻の理由とオスマン帝国と敵対するつもりはなく良好な関係を保ちたい旨の書簡を送っている。
このことから、やはりナポレオンが支配したかったのはエジプトのみであり、オスマン帝国を敵にしたくないナポレオンの意図が汲み取れる。
ナポレオンが当初のイギリスをインドから排除するための手段であるインドへの派兵を成し遂げるためには、オスマン帝国との和平、上エジプトとスエズの征服、地中海のイギリス海軍の排除とエジプト各地での住民反乱への対応が大きな課題となっていた。
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