エジプト戦役 37:ナポレオンによるファイユーム州遠征の承認
Napoleon authorised the invasion of Fayoum
アシュート周辺地域の安全の確保とファイユーム州遠征計画の提案
※1798年9月15日、ドゼー将軍がファイユーム州遠征を提案した理由
1798年9月15日に上エジプトの首都であるアシュートを占領したはいいが、ドゼー将軍はファイユーム方面にいるムラード・ベイ軍の脅威による後方連絡線の安全への懸念を持っていた。
現状でさえムラード・ベイ軍がギザやベニ・スエフ、ミニヤーなどのナイル川沿岸の街を攻撃してくる可能性があるのに加え、ドゼー師団がもしアシュートを越えて上エジプトの奥地に踏み入れた場合、ジョセフ運河から襲来したムラード・ベイ軍が師団の背後を衝いてくるかもしれないのである。
そのため、ドゼー将軍はギルガに後退したマムルーク軍の追跡を諦め、総司令官に「ジョゼフ運河に入りムラード・ベイを追跡する計画」を提案し増援を求める書簡を送った。
しかしその後、ソリマン・ベイの部下である3人のカシェフと、約300人のマムルークと数人のアラブ人が、妻たちと多くの乗組員とともに、アシュートから6リーグ(24㎞)離れたベンハディ(Benhadi)にいることを知った。
※ベンハディ(Benhadi)とは現在のバニ・アディ・アル・バーリィヤー(Bani Adi Al Baharyyah)のことだと考えられる。
9月18日、ドゼー将軍はベンハディのソリマン・ベイの部隊と連絡を取ろうと期待して、アシュートを出発した。
師団は山を迂回して、砂漠の中の過酷な行軍を経て、翌日(9月19日)夜明けにベンハディ(Benhadi)に到着した。
しかしソリマン・ベイの部隊はすでに姿を消していた。
ナポレオンによるギザでの観察
ボナパルトはドゼー将軍からの提案を承認したが、レイニエ師団はシリア方面への睨みをきかせなければならず、エジプト各地で頻発する住民反乱の鎮圧に出払っていたためカイロには予備軍であるボン師団とデュプイ旅団しか残されておらず、兵力も少なくなっていた。
しかしボナパルトはドゼー師団の兵站拠点にいる行軍可能な兵士全員をドゼー将軍の元へ送り、ギザとカイロの予備兵でその穴を埋めることにより、ささやかな増援を捻出した。
そして総司令官自らギザに赴いてムラード・ベイの動向を探り、指揮を執った。
この時点でフランス軍の偵察によれば、ムラード・ベイはファイユーム州と砂漠(ギザ州)の間にいるとの情報を得ていた。
ファイユーム州遠征計画の承認
1798年9月20日、ドゼー将軍がアシュートに戻ると、総司令官からのムラード・ベイ討伐を承認する書簡が届けられていた。
そのためドゼー将軍はすぐさま準備を行い、穀物輸送船団を護衛するために1個半旅団とアーヴィソ(小帆船)を残し、その日の夜、ファイユーム州に向かったムラード・ベイと対決するために師団と小艦隊とともにアシュートを出発した。
そしてこの日、後方のベニ・スエフ州の指揮をアトフィにいる療養中のランポン少将に一任した。
アトフィの防衛は現地採用の大隊指揮官であるハッサン・チョルバジ(Hassan Tchorbadji)と交代することとなった。
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