エジプト戦役 38:ナイルの海戦以降のフランス軍の懐事情とネルソン戦隊のナポリへの寄港
Nelson arrives at Naples
カイロで課した寄付金の支払い状況
ナポレオンが指揮するフランス東洋軍の財政は潤沢ではなく、自転車操業の状態だった。
兵士の給料、武器や食糧・飲料水の調達、水路や運河の整備、要塞の建設などで資金と人員が不足していた。
特にナイルの海戦での敗北により本国からの供給が途絶えたことが大きかった。
フランス軍はエジプトでの自給自足を強いられたため、税制改革を行い、富裕層や商人などに寄付金などを課して資金を調達していたが、寄付金の支払いに協力的でない者、金銭的に支払えない者もいた。
ナポレオンが書いた1798年9月21日付の書簡には、「本部、カイロ、共和歴VI年補完日5日 (1798 年 9 月 21 日)。ダマスカスの商人は8,300タラリの支払い義務を負っているが、支払っていない。コーヒー販売者は32,000タラリの支払い義務を負っているが、支払っていない。警官隊、1,000タラリ。ムラード・ベイの妻、8,000タラリ。マムルーク族の妻達、20,400タラリ。これらはすべて支払われていません。ただし、急ぐことが重要です。 我々の(資金の)必要性が緊急になっているからです。」
フランス軍は民衆から窃盗と略奪を行っていたマムルーク朝からの解放を謳っていたため、あからさまな略奪に頼るのは不可能だった。
ボナパルトは何とか平和裏に資金を確保するために、罪人に罰金を課す代わりに刑を減免し、反乱した村に重い寄付金を課し、何かにつけて金銭を要求した。
ボナパルトとしては、フランス本国との連絡線が完全に途切れようとしている中、エジプトの要塞化を進めて軍が自給自足ができるような国造りをし、地中海を取り戻し、外敵や国内の民衆の反乱の脅威から身を守り、将来的にマイソール王国への支援を行ってインドのイギリス勢力を駆逐するために必要な措置だった。
しかし、この過剰な要求は水面下で民衆に反フランスの意識を植え付けていった。
ネルソン戦隊のナポリへの到着とエマ・ハミルトンとの再会
※1798年9月22日、ヴァンガードの少将ホレーショ・ネルソン卿のナポリ到着。作者不明。
ナイルの海戦での勝利の知らせは、ネルソン少将に先駆けてブレイデン・ケイペル中尉とウィリアム・ホステ中尉によってナポリにもたらされた。
2人はハミルトン夫人の馬車に乗せられ、ハミルトン夫人に付き添われて、まるで本国で凱旋したかのように通りを進んだ。
ナポリ王国摂政マリア・カロリーナはこの勝利の報を聞くと大喜びし、その後、エマ・ハミルトンはネルソンに手紙を書いた。
エマからネルソンへの手紙:「これほど栄光に満ち、これほど完璧なものはかつてありませんでした。この喜ばしい知らせを聞いたとき、私は気を失いました・・・ 勝利者ネルソンと同じ地に生まれたことを実感しながら、誇りを持って空中を歩き、踏みしめています・・・ 私たちはあなたの邸宅を準備しています・・・ ウィリアム卿と私はあなたを抱きしめるのを待ちきれません。」
追記部分:「私の服は頭から足までネルソン風です。ショールも青い色で、全体に金色の錨があしらわれています。イヤリングはネルソンの錨です。つまり、私たちは全身ネルソン風なのです。ソネットをいくつか送りましたが、あなたに送るためにわざと船に乗ったに違いありません。すべてはあなたの体に書かれています。」
9月22日、遂にネルソン一行がナポリに到着した。
ナポリ国王フェルデナンド4世と駐ナポリ大使ウィリアム・ハミルトン卿は艀(はしけ)に乗ってネルソンを出迎えた。
そこには戦いで傷つきボロボロとなったネルソンの旗艦ヴァンガードの姿があり、戦いの激しさを物語っていた。
ローマへのフランスの進出と圧力に悩まされていたフェルディナンド4世とハミルトン卿はネルソン一行を熱烈に歓迎した。
これによりナイルの海戦についての正確な情報がナポリにもたらされ、オーストリアにも情報の共有がなされた。
フェルデナンド4世とその妻であり摂政であるマリア・カロリーナはイギリスの勝利に勇気づけられ、マリア・カロリーナはネルソンへの個人的な贈り物としてナイルの海戦の勝利を記念する食器セットをナポリの南の街ポルティチ(Portici)にある王室窯に発注した。
窯の総指揮を執っていたドメニコ・ヴェントゥーリ(Domenico Venturi)はすぐさま製作に取り掛かったと言われている。
◎エマ・ハミルトンの肖像画
※「マルタ十字章を授与されたエマ・ハミルトン夫人(Emma, Lady Hamilton, wearing Maltese Cross award.)」。ジョアン・ハインリヒ・シュミット(Johann Heinrich Schmidt)画。1800年。
数日後、ネルソンは5年前に出会った当時18歳だったエマ・ハミルトン夫人と再会した。
1793年当時、ネルソンは出会ったとき淡い恋心を抱いていたが、その後、それを忘れ去っていた。
しかし、この再会は当時の記憶を呼び起こし、両者はほどなく恋に落ちた。
この不倫関係は、ネルソンとその妻の関係を終わらせ、その後イギリスの新聞にも掲載されたと言われている。
※後日、ネルソンとともにイギリスに帰ったエマ・ハミルトンは、ネルソンの妻であるフランシス・ネルソンのことを「下劣なトム・ティット・トット」、息子(ネルソンにとっては義理の息子)のジョサイアのことを「目を細めたガキ」と呼んで蔑んだ。ジョサイア・ニスベット少尉はサンタ・クルスの戦いで右腕を失ったネルソンの止血を必死でおこなったネルソンにとっての命の恩人でもある。エマはウィルソン卿やネルソンの前ではそのような素振りは見せなかったが、性格や精神に問題を抱えている女性であると推測できる。
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