エジプト戦役 26:敗北後の多忙とネルソン戦隊の出発
Nelson departs
ナイルの海戦での敗北の対応
8月18日、ボナパルトはレバノンのトリポリにいるフランス領事宛てに書簡を送り、急使をマルタかローマの北西に位置するチビタヴェッキア、もしくはサルデーニャ島南端のカリアリに派遣して容易にトゥーロンへ戻れるよう手配しフランス本国のニュースを送るよう依頼した。
そして、マルタに大量の食糧を、アレクサンドリアに羊を送るよう要請した。
ナイルの海戦によって地中海の制海権はイギリスに移ったため、マルタ島が封鎖される前にマルタに大量の食糧を送ることによって、マルタ島でヴォーボワ将軍が長期間の防衛戦を可能にすることが目的だと考えられる。
しかし、アレクサンドリア港とロゼッタ港はネルソン戦隊によって封鎖されているため、この書簡はロゼッタで止められた。
加えてダマンフールでの住民反乱が起きたことを知ったボナパルトは、マルモン将軍に約1500人を率いさせ、ダマンフールでの反乱鎮圧、アブキール要塞の改善とロゼッタとの連携強化、海岸での防衛と監視の強化を命じた。
ナイルの海戦の敗北によりあちこちで不穏な空気が流れ、遂にダマンフールの住民が決起したのである。
命を受けたマルモン将軍はすぐに準備を行い、8月20日にカイロを発った。
8月19日、ボナパルトはフランス政府に書簡を送った。
その書簡にはエジプト上陸から今までの報告、フランス政府に対するコルフ島の強化と地中海でのイギリス軍の動向把握の要請、タレーランがコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に滞在しているかどうかの確認などが書かれていた。
ナポレオンはエジプト遠征の計画段階においてタレーランがコンスタンティノープルに赴いてオスマン帝国を懐柔するという約束を結んでいた。
しかし、タレーランはエジプト遠征に深く関与せず、この約束を果たすことは無かった。
この時すでに、ラ・ヴァレッテの失敗、そしてタレーランの不義理によりエジプト遠征前から計画していたナポレオンの対オスマン帝国外交戦略は瓦解していた。
加えて、エジプト総督セイド・アブー・バクル・パシャという最後の鍵を手に入れることもできなかったため、オスマン帝国との関係を修復できる可能性のあるカードのすべてが失われていたのである。
関係修復を望むなら、運に縋るか、新たな交渉のカードを手に入れる必要があった。
この日、ボナパルトはブリュイ夫人に夫の戦死を悼む手紙を送っている。
ネルソン戦隊のアブキール湾からの出航
8月19日、艦の修復を終えたネルソンは、アレクサンドリアとロゼッタの封鎖部隊の指揮を3等戦列艦「ジーラス」艦長サミュエル・フッド卿に一任し、アブキール湾を出発した。
艦を修復したとはいえ応急的なものであり、尚且つネルソン戦隊の損害は大きく、ジブラルタルまでの航海に耐えられるだけの更なる修理を行う必要があった。
そのため、ネルソンは戦列艦「ヴァンガード」、「アレクサンダー」、「カローデン」、フリゲート艦「ボンヌ・シトイエンヌ」を含む戦隊で友好国ナポリへ向かった。
数日後、オリオンを指揮するソーマレス艦長は残りの13隻を率いてジブラルタルへ向かった。
サミュエル・フッド艦長は味方が来援するまでアブキール湾に留まって封鎖部隊を指揮し、その後、ナポリ王国に滞在中のネルソンと合流することとなる。
ほとんどの艦がボロボロであり、本格的な修理が必要な状態だった。
ナポレオンのエジプト東部の物流網構想
※1798年8月21日、ナポレオンのエジプト東部の物流網構想
8月21日、ボナパルトはレイニエ将軍にダミエッタとの後方連絡線を確立するよう命じた。
これまではカイロを中心とした「線の物流網」だったものが、ダミエッタ、マンスーラ、エル・サルヘイヤ、ベルベイス間の物流網が確立されることにより「面の物流網」となり、エジプト東部の支配と防衛がよりやりやすくなるのである。
加えて、将来的にシリアへ侵攻する場合においてもマンザラ湖を利用して物流網を広げることができる。
しかし、ダミエッタとエル・サルヘイヤの間の地域であるダカリーヤ州はムジャヒド・ハッサン・トゥバールが支配している地域だった。
当時、エジプトで最も裕福だったハッサン・トゥバールは、40人の首長を従え、民衆にも慕われている人物であり、イブラヒム・ベイがベルベイスに逃れた時から書簡を交わし、フランス軍に対抗することを約束していた。
エル・ジャマリーヤでの戦闘
その頃、ドゥガ将軍はダマス将軍に300人の兵士を率いさせ、アシュムン運河を偵察し、服従を拒否した村々を制圧するためにマンスーラからエル・マンザラへ向かわせていた。
途中、ダマス将軍はエル・ジャマリーヤ(El Gamaleya)で民衆の激しい抵抗に遭遇した。
戦闘が4時間続いた後、ダマス将軍はアシュムン海のほとりで耐えることも戦闘を継続することもできないと判断し、エル・ジャマリーヤに火を放って帰還した。
※アシュムン海とは、当時、デケルネス(Dekernes)からマンザラ湖のほとりにあるエル・マタリヤ(El matariya)まで広がっていた汽水湖のこと。アシュムン運河はマンスーラからアシュムン海に流れ込む運河だと考えられる。
ヴィルヌーブ艦隊への希望
※1798年8月、マルタへ向かうヴィルヌーブ残存艦隊
同日、フランス東洋軍艦隊の残存艦隊を指揮するヴィルヌーブ少将がケリドニア(Chelidonia)岬(現在のCape Gelidonya)から10リーグ(約40㎞)離れた海上から送った書簡がボナパルトの元に届けられ、そこにはヴィルヌーブ艦隊がマルタに向かうことが記されていた。
多くの艦船を失ったナポレオンにとっての生命線は、マルタ島及びコルフ島とアンコーナへの連絡線を遮断されないようすることだったが、同時に、アンコーナ、コルフ島、アレクサンドリアの艦船をかき集めてヴィルヌーブ艦隊と合流させ、トルコ艦隊を封じ込めることも視野に入れていた。
そのため、ボナパルトはマルタ島、コルフ島、そしてアンコーナの強化を何度もフランス政府に要請し、ヴィルヌーブ少将にアンコーナ、コルフ島、アレクサンドリアに準備した艦船と合流するよう命じた。
しかし、サミュエル・フッド艦長率いる封鎖部隊によってアレクサンドリアとロゼッタの艦船は身動きが取れない状況であるため、もし艦船をかき集めることができたとしても、アンコーナとコルフ島のものだけだっただろうと考えられる。
そしてドマルタン砲兵将軍にアレクサンドリア周辺の強化を命じた。
エジプト人首長達への説得
ナイルの海戦の敗北でエジプトの首長達は、フランス軍は窮地に立たされていると考えていた。
彼らはいつでもフランスを見限る用意ができており、その機会を窺っていた。
ボナパルトはネルソン戦隊が海岸を離れた後、「ネルソン戦隊は別のフランス艦隊によって追跡されている。」と偽りを流布して首長達をなだめた。
実際、陸上ではフランス軍は圧倒的な力でイブラヒム・ベイをエジプトから追い出し、ムラード・ベイもフランス軍に手も足も出ず、デルタ地帯を制圧し、フランス軍が勝利しているように見えていた。
そのためエジプトの首長達はフランスへの裏切りの顔を隠した。
その後、ボナパルトは軍の威勢を示し、統率を強化するため、観閲と演習を増加させた。
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