エジプト戦役 32:アル・バーナサへの進軍命令とムハンマド・エル・コライムの処刑
Muhammad Karim was executed

ドゼー将軍へのアル・バーナサ進軍命令

1798年9月4日、ナポレオンのアル・バーナサ襲撃計画

※1798年9月4日、ナポレオンのアル・バーナサ襲撃計画

 1798年9月4日、ドゼー将軍は、ムラード・ベイ軍がアル・バーナサ(Al Bahnasa)に集結しているが、州都ベニ・スエフとアル・バーナサの間はナイル川の氾濫により8本の運河が通り周囲は沼地のようになっており、泥の湖も出現していたためたどり着くことは困難であることをボナパルトに報告した。

※9月3日にドゼー将軍が師団の一部を率いてアル・バーナサを攻撃したという説もあるが、ナポレオンは9月4日にアル・バーナサに行くようドゼー将軍に書簡を送っているため、9月3日はまだアル・バーナサを攻撃してはいない。

 同日、ドゼー将軍からの報告を受け取ったボナパルトはムラード・ベイはナイル川に再び戻って南下する可能性が高いと考えており、アル・バーナサからアブー・ジルジ(Abu Jirj)へ繋がっている運河があるだろうと確信めいた予想をしていた。

 当時のアブー・ジルジはナイル川沿いのそれなりに大きな町であり、恐らく、ムラード・ベイが容易にアル・バーナサへたどり着いたルートがあるはずだと考えたのだろう。

 ボナパルトはエジプトにおいて兵力を分散させる分進合撃を好まず、兵力を集中させることを常に念頭に置いて戦略を練っていた。

 そのため、アル・バーナサのムラード・ベイ軍に対して兵力を分散させて包囲機動をとることを良しとせず、ドゼー将軍に対し、アブー・ジルジに兵力を集中させてアル・バーナサへ直接向かうこと、もしそれが不可能ならばマッラウィ(Mallawi)までナイル川を遡り、ジョセフ運河を下ってムラード・ベイ軍の前を押さえ、対決することを命じた。

 そして、もしムラード・ベイがドゼー師団の攻撃を持ち堪えるなら、できる限りの損害を与えるよう伝えた。

 同時に、ファイユーム州にはまだ部隊を送らないよう指示した。

 この時点でファイユーム州に少数の占領部隊を派遣したとしても、ムラード・ベイ軍がファイユーム州に向かった場合、駆逐されてしまう可能性があった。

 そのためファイユーム州の制圧はアル・バーナサにいるムラード・ベイの動向を見てから判断すべきであると考えたのである。

 そしてこの日、フランスに帰順したイブラヒム・アガ(Ibrahim Agha)に大隊指揮権を与え、スエズを占領するよう命じた。

※イブラヒム・アガはイブラヒム・ベイとは別人である。アガ(agha)やベイ(Bey)は役職名であり、ベイの方が上である。

アブー・ジルジへの到着

 9月5日、ドゼー将軍はビスケットなどの食糧の供給を受けた後、ボナパルトの命令に従ってアブー・ジルジに向かった。

 夜7時にアブー・ジルジに到着した時、150騎のマムルーク騎兵が荷物、食料、弾薬を積んだ多くのジェルメとともにまだアル・バーナサにいることを知った。

 この時、アル・バーナサにいたムラード・ベイ軍は後衛であり、ナイル川で切り離した艦隊と合流しつつあった。

 そのため、この日ドゼー将軍は休息し、6日に師団の集結を待ちつつ、ムラード・ベイ軍後衛を打ち砕いて物資を奪うための準備に取り掛かった。

元アレクサンドリアの首長ムハンマド・コライム・パシャの処刑

ムハンマド・エル・コライム・パシャ

※ムハンマド・エル・コライム・パシャ。

 アレクサンドリアで反乱を主導したムハンマド・コライム・パシャの捜査と裁判は9月5日まで続いていた。

 裁判の結果、共和国に忠誠を誓った後もマムルーク朝やイギリスとの諜報活動を続け、さらにはスパイとしても活動したとして反逆罪で有罪判決を受けた。

 しかし、フランス軍の悲惨な懐事情という温情によりムハンマド・コライム・パシャに自らの首を30,000タラリで買い戻せる権利が与えられた。

※1798年9月5日付のナポレオンの書簡には通貨単位はフラン(Franc)やフランスリヤル(liard)ではなく「talari」と記載されている。当時のエジプトでは特定の通貨は発行されておらず、主にオスマン帝国のクルシュ銀貨が使用されていた。ナポレオンは8月に造幣所を設立しているため、ナポレオンが新たに作った通貨単位の可能性も否定できない。余談だが、1798年当時のフランスリヤルは銅貨であり、端数の支払いに使われていた。フランスリヤルの最後の鋳造は1792年である。

 判決を聞いたムハンマド・コライム・パシャは「もし私が死ぬ運命にあるのなら、身代金を払っても死から守られるわけではない。もし私が生きる運命にあるのならば、なぜそれを払わなければならないのか」と言って自らの首を買い戻せる権利を放棄した。

 これはムハンマド・コライム・パシャにとっての聖戦(ジハード)だった。

 それを聞いたボナパルトは悩んだが、「6日正午に城塞(サラディン城塞)の広場でムハンマド・エル・コライムを銃殺せよ。」と命令を下し、ムハンマド・コライム・パシャのすべての財産を動産および不動産を問わず共和国の利益のために没収するよう命じた。

 9月6日正午、ムハンマド・コライム・パシャはサラディン城塞の前にあるルマイラ広場(現サラディン広場)でフランス共和国への裏切りの罪により銃殺刑に処された。

 彼の首はカイロの街中をパレードしてさらされた。