エジプト戦役 09:「ピラミッドの戦い」におけるマムルーク軍の敗因と補足 
Reasons for the defeat of the Mamluk army in the “Battle of the Pyramids” and additional information

「ピラミッドの戦い」におけるマムルーク軍の敗因

 一般に広まっている「ピラミッドの戦い」はフランス軍は正方形の方陣でマムルーク軍を近づけさえもせず、容易に打ち破ったというものである。

 しかしそれは事実ではない。

 マムルーク軍も勇敢に戦っており、それに対してフランス兵は恐怖を抱き必死に戦っていた。

 それでもマムルーク軍が敗北したのには理由がある。

>>「ピラミッドの戦い」はこちら

1、大砲の不足

 フランス軍の方陣に対して有効打撃を与えることができたのは「大砲」である。

 エンバベでは40門(一部はナイル川方面に向いている固定砲台)、ビクティルに2門の大砲が配備されていたが、フランスの方陣に危機的状況を作り出せたのはエンバベでの戦闘時である。

 そのためより多くの大砲と砲弾があればマムルーク騎兵との連携でフランス軍の方陣を崩壊させ、その攻勢をはね返せたのではないかと考えられる。

2、大砲の運用方法

 ビクティルには2門の大砲が配備されていたが、ドゼー師団の方陣に有効打を与えることができていなかった。

 尚且つ、エンバベには40門の大砲がありながら、ボン師団の方陣を完全に崩せなかった。

 これら理由からマムルーク軍の大砲は命中精度が低かったのだろうと推測できる。

 効果的な大砲の運用には大砲を使用する目的への理解や数学的な知識、多くの訓練が必要であるが、それぞれのレベルが低かったのだろう。

3、「シュブラ・キットの戦い」での経験が生かせなかった

 大砲の他にフランス軍の方陣に打ち勝つためには、「ピラミッドの戦い」でムラード・ベイが行ったように、フランス軍が方陣を形成する前に叩くという方法がある。

 ムラード・ベイはフランス軍の動きを見て素早く判断し、フランス軍が方陣を形成する前に攻撃しようとしたが、フランス軍の方陣の形成速度と規律はすばらしく、失敗に終わっている。

 「シュブラ・キットの戦い」においても方陣に敗れているため、フランス軍が方陣を形成し始めてから動くのではなく、フランス軍が方陣を形成する前に騎兵突撃するということを事前に計画し、リスクは高かろうと何らかの作戦を立案して実行に移すべきだった。

4、歩兵の弱さ

 マムルーク騎兵はこの時代の最高の騎兵の1つであるが、軍の基本である歩兵の主装備はこん棒であり秩序立って行動できていなかった。

 そのためフランス軍の秩序立った機動を魔術だと噂した。

 いくら歩兵の数が多くともマスケット銃とこん棒では戦いにならず、規律や秩序がなければ数的優位を活かすことはできない。

 内部的に歩兵を近代化しようとするとそれは歩兵の地位向上にもつながるためマムルーク騎兵の反発を招く可能性が高いという状況ではあったが、歩兵の近代化を少しづつでも進めるべきだっただろう。

「ピラミッドの戦い」に関する歴史的地図について

最も広く知られているペローによる「ピラミッドの戦い」の地図

1798年7月21日に行われた「ピラミッドの戦い」の地図

※Jacques Marquet de Norvins著「Histoire de Napoléon, 第1巻」(1827年)より抜粋。1798年7月21日、「ピラミッドの戦いの地図」。Aristide Michel Perrot作。

 各一次資料を精査した結果、どうもこの「ピラミッドの戦い」の地図は正確では無くイメージ図のようである。

 この地図がイメージ図であると考える理由は以下の点である。

1、ランポン旅団がエンバベ(Embabeh)とギザ(Giza)の間に進出して連絡を遮断していない。

2、ドゥガ師団がエンバベとギザの間にいるはずのランポン旅団の支援を行っておらず、後方にいる。

3、ランポン旅団がエンバベとギザの間におらず、尚且つボン師団がエンバベの西側にいないのにも関わらず、ボン師団の方陣の一面を分離して形成されたはずのマルモン旅団がエンバベの南側を封鎖している。(マルモン旅団がエンバベの南側を封鎖していること自体は正しい)

4、方陣が正方形である。

5、マムルーク軍はエンバベとビクティル(Biktil)の間に塹壕を掘りフランス軍を待ち構え、ドゼー師団とレイニエ師団はビクティルの前でマムルーク軍に急襲されて包囲されたが、地図ではエンバベとビクティルの間で包囲されている。

6、ビクティルからピラミッド群の間にマムルーク軍左翼とペドウィン軍がいない。

7、ビクティルの位置が怪しい。

などである。

 細かく指摘すれば他にも怪しい点はたくさんあるが、割愛する。

ルソーによる「ピラミッドの戦い」の地図

ルソーによる「ピラミッドの戦い」の地図

※François Charles Liskenne et Jean Baptiste Balthasar de Sauvan著「Bibliothèque historique et militaire: Atlas, 第8巻」(1853年)より抜粋。1798年7月21日、「ピラミッドの戦いの地図」。Jim Rousseau作。

 ペローの地図と比較してより各一次資料に近い形で描かれている。

 下記画像を確認すると集落の位置が現代地図の村の中心部があったであろう位置とほぼ一致するため村の配置などは正確であり、この地図によってビクティル(Biktil)=ビクティル(Bechtel)=バシュティル(Bashtil)だと分かる。

 当時のカイロのナイル川西岸(左岸)側は水路網がある程度整備されており、ビクティルの前にも水路が伸びていたことから、恐らく水路(小川)もある程度正確なのではないかと考えられる。

ルソーによる「ピラミッドの戦い」の地図と現代地図との比較

※ルソーの「ピラミッドの戦いの地図」と現代地図との比較。村の痕跡があった地点とルソーの地図の村のある地点がほぼ一致することが分かる。

しかし、以下の点が当ブログ著者の見解と異なっている。

1、ランポン旅団がエンバベ(Embabeh)とギザ(Giza)の間に進出して連絡を遮断していない。

2、第2段階目(赤色)においてボン師団とヴィアル旅団(旧メヌー師団)の位置が逆である。

3、第3段階目(紫色)においてヴィアル旅団はエンバベの占領をしていたはずにも関わらずギザの占領に加わっている。

4、第3段階目(紫色)において包囲される前にギザからナイル川沿いに上エジプトへと撤退したはずのムラード・ベイ軍の退却線が描かれていない。

5、ムラード・ベイが戦場を離れた後、残された軍は下エジプトや砂漠に逃亡したが、下エジプト(デルタ地帯方面)への退却線が描かれていない。

などである

「ピラミッドの戦い」についての補足

 これまで様々な歴史家が「ピラミッドの戦い」について書かれた本を発行しているが、特に兵力について大きな相違がある。

 それは主に騎兵1騎に対しての3~4人の従者(歩兵)をマムルーク軍の兵力に含めるかどうかの違いなのだと考えられる。

 実際、こん棒が主装備の歩兵はほぼ役に立たず、マムルーク騎兵が戦っただけのように見える。

 それに加え一次資料の中にはマムルーク騎兵との戦いしか書かれていないものも多いため、「ナポレオンは兵力などの数値を大げさに言う傾向がある」と主張する歴史家もいる。

 騎兵1騎に対して3~4人の従者が付き従ったというのはセントヘレナのナポレオンの主張であり、本ブログではその主張を採用している。

 そのため、「従者は戦力ではない」、「従者はいなかった」と考える方は従者の存在を無いものとして考察して欲しい。