エジプト戦役 10:カイロの降伏とアレクサンドリアへ向かうネルソン
The submission of Cairo and Nelson heading to Alexandria
ラ・ヴァレッテの回想録におけるエジプトに到着したラ・ヴァレッテとブリュイ提督との会話
オスマン帝国への書簡を届けた副官ラ・ヴァレッテ将軍はボナパルトとの合流命令を受けており、アブキールに向かっている途上にあった。
7月21日、アブキールから数リーグ離れたところで、ラ・ヴァレッテが乗っていたフリゲート艦がフランス艦隊を偵察に来たイギリス船に追跡された。
ラ・ヴァレッテの乗るフリゲート艦はイギリス船を振り切り、旗艦「オリエント」の元に到着した。
ラ・ヴァレッテがブリュイ提督にイギリス船の追跡を受けたことを伝えると、ブリュイ提督は「ボナパルト将軍はアレクサンドリアを出発し、砂漠の奥地へ向かう際、私(ブリュイ提督)に「アレクサンドリアの旧港(エウノストス港)に入るか、軍の物資をすべて降ろした後、艦隊とともにコルフ島に行く」かのどちらかを命じました。しかしそれ以来、軍からもその指揮官からも何の知らせも受けていません。私は旧港のへの航行を調査してもらいましたが、北西の風が吹いている場合にカヌーを使用してのみ入ることができるということが分かりました。 この作業には長い時間がかかり、入港に適した日はたったの1日でした。」と自身の立場を話し始めた。
※実際のところナポレオンは「アレクサンドリアの旧港(エウノストス港)かもしくはアブキール湾のどちらかで優勢な敵艦隊を撃退できる態勢を整えるよう命じ、もし敵戦力が非常に優れており撃退できないと判断した場合、コルフ島へ撤退せよ。」と命じている。旧港の状況はほぼその通りである。恐らくブリュイ提督はナポレオン率いる陸軍がエジプトで孤立しないようにするためにアレクサンドリアの旧港に入り、もしイギリス艦隊が来ても撃退しようと考えていたのだろう。
そして「軍から連絡があるまで、私がエジプトの海岸から離れることができないことはよく理解されていると思います。エジプトの状況をフランスに伝えることなくヨーロッパの港に帰還してまた戻ってくることができますか?もしボナパルト将軍がエジプトで乗り越えることが不可能な障害に遭遇し、再乗船を余儀なくされたとしたら(エジプトでの敗北を余儀なくされたら)、彼(ボナパルト)は私に自由に使える唯一の退却手段を彼から奪ったとして、犯罪になるのではないでしょうか。ここに来て今日初めてイギリスの船を見ました。おそらく明日か明後日にも私は襲われることになるでしょう。旧港に移動させた艦船をアブキール湾に移動させるつもりです。あなた(ラ・ヴァレッテ)が私を信じて、一緒にいてくれるなら心強いです。そしてあなたはボナパルト将軍に大勝利の知らせを届けに行くことができます。私はアレクサンドリアの旧港に入ることも、(イギリス船の)ニュースを受け取る前に海岸を離れることもできなかったので、ここ(アブキール湾)に布陣しました。船首と船尾に錨を降ろしているのは、乗組員の半分だけを連れてトゥーロンを出航したため、航海しながら戦うのに十分な人材がいないからです。」と続けた。
ガントーム(Honoré Joseph Antoine Ganteaume)少将(この時点では大佐)はこう付け加えた。「(フランス艦隊の位置は)ご覧のこの小島(アブキール島(現在のネルソン島))からは少し離れています。なぜなら、海底によって錨が押しのけられ、これ以上近づくと危険だからです。 しかし、こちら側は(アブキール島からの)強力な砲台によって守られています。
※ガントーム大佐は海底によって錨が押しのけられる陸地に接近できるギリギリのところに布陣しているから背後に回り込まれることは無いだろう。フランス艦隊の先頭はアブキール島に築かれた強力な砲台によって守られているため、イギリス艦隊がフランス艦隊左翼側から来た場合、撃退できるということを言っているのだと推測できる。
夜、ブリュイ提督と話した後、ラ・ヴァレッテは130門の大砲を搭載したこの巨大な艦船(旗艦「オリエント(フランス語読みだとオリアン)」)の上を一人で歩いた。
そこでは誰にも会わず、ラ・ヴァレッテはノートルダム大聖堂にいるように感じた。
この孤独の特異性をさらに高めたのは、エジプト上陸前には2,145人もの乗員がいたが、今では600人しか残っていなかったことだった。
この巨大な城塞(旗艦「オリエント」)を見れば見るほど、ラ・ヴァレッテは戦いを目撃したくなくなった。
実際、ラ・ヴァレッテは海軍士官ではなく、自分の任務はボナパルト将軍と合流することだった。
ラ・ヴァレッテは「ボナパルトに勝利の知らせを伝える人は不足することはないだろうし、もし何かがあって私が捕虜になったり殺されたり、あるいは屈服したりしたら、私は非常に責められ、誰も私に同情することはないだろう。」と考えた。
そこでラ・ヴァレッテはブリュイ提督を探してこう言った。
「すべてを考慮すると、私は道を続けなければなりません。私は行って、私の使命とあなたを見つけた時の立場について報告しなければなりません。」
ブリュイ提督はラ・ヴァレッテをロゼッタに送り届けるためのカヌーを用意した。
ラ・ヴァレッテは海面が下がるまで17時間待ち、ナイル川の河口へ向かった。
その後ロゼッタに到着するとメヌー将軍と会い、武装船を手配してもらった。
メヌー将軍によるとナイル川には何も危険はないとのことだった。
そしてラ・ヴァレッテはカイロのボナパルトの元へ旅立った。
デュマ将軍との確執
ピラミッドの戦いの後、デュマ将軍は騎兵が不足していたため、猟銃を手にしたまま一兵卒として参加し、ギザのボナパルトに会いに行った。
デュマはアル・ラフマニーヤの会合以来、総司令官が自分を冷遇していることに気づいており、説明を求めた。
説明を得るのは難しくなかった。
デュマを見ると、ボナパルトは眉をひそめ、帽子を頭に乗せてこう言った。
「ああ!あなたか。わかった、ではこの執務室に入ろう。」
そして、そう言いながらドアを開けた。
デュマが先に入り、ボナパルトは後に続き、ドアに鍵をかけた。
ボナパルトはデュマに「あなたは私に対して不正行為をした。あなたは軍の士気を低下させようとしている。私はダマンフールで起こったことをすべて知っている。」と言った。
それからデュマは一歩前に出て、ボナパルトがサーベルの柄に添えている腕に手を置いた。
そして「それについてお答えするつもりです。ですがその前にあなたがどのような意図でこの扉を閉めたのか、またどのような目的で私にこの打ち明け話の栄誉を与えてくださるのかお伺いします。」
「軍の最初の者と最後の者は規律の前では平等であると伝えるために、その機会があれば太鼓のように将軍を撃つつもりだ。」
「それは可能です。将軍。しかし、私は、再度確認すれば撃たれなかったであろう人たちがいると信じています。」
「いや、もし彼らが私の計画を妨げるなら!」
「(話が違う方向に行こうとしていることを)気をつけてください、将軍。先ほどあなたは規律について話していました。今は自分のことしか話していません・・・」
続けてデュマは「さて、説明をさせていただきたいと思います・・・その通り、ダマンフールでの会合は真実です。将軍たちは最初の行進で意気消沈し、この遠征の目的は何なのか疑問に思った。そう、彼らはそこに将軍としての利益ではなく個人的な野心の動機があると信じていたのです。私は国の栄光と名誉のために世界を旅すると言いました。でもそれがあなたの気まぐれだけなら、私は最初の一歩で(エジプト遠征を)やめます。さて、私がその晩(ダマンフールでの会合で)言ったことをあなたに伝えます。私の言葉をあなたに報告した最低な男が、私があなたに話した以外のことをあなたに話したとしたら、彼はスパイであるだけでなく、それよりもさらに悪い、中傷者です。」と告げ口をした者を非難した。
ボナパルトはしばらくデュマを見つめ、愛情を込めてこう言った。
「それでデュマ、あなたは頭の中で二つの部分を作り、片方にフランスを置き、もう片方に私を置いている。あなたは、私が自分の利益とフランスの利益、私の財産とフランスの財産を分けていると信じている。私は、フランスの利益が個人の利益よりも優先されなければならないと信じています。その個人がどれほど偉大であっても・・・国家の運命が個人の運命に従属してはならないと私は信じています。」
「それで、私と別れる準備はできていますか?」とボナパルトは問いかけた。
デュマは「はい、あなたがフランスから離れるのが分かったらすぐに。」と答えた。
「あなたは間違っています、デュマ・・・」ボナパルトは冷たく言った。。
「それはあり得ることです。しかし私はスッラの独裁もカエサルの独裁も認めません。」とデュマは答えた。
そしてデュマが「訪れた最初の機会にフランスに戻ることができるかどうか」を尋ねるとボナパルトは「それは良いことです!あなたの行く手にいかなる障害も置かないことを約束します。」と答えた。
「ありがとうございます、将軍。これが私の唯一の希望です。」
そして、お辞儀をしながら、デュマはドアの方へ歩き、ボルトを引いて出て行った。
デュマが退室するとき、彼はボナパルトが次のような言葉をつぶやくのを聞いた。
「私の幸運を信じない盲目よ!」
15分後、デュマは自分とボナパルトの間でどのようなことがあったのかをデルモンクール(Dermoncourt)大尉に話した。
※ダマンフールの会合とあるが、恐らくはダマンフールではなくアル・ラフマニーヤである。1つ目の理由として、この会合はスイカパーティーであり、兵士たちがスイカにむしゃぶりついたという記述があるのがナイル川沿いのアル・ラフマニーヤに到着してからだ。2つ目の理由は、会合にはランヌやミュラも参加しているが、ランヌとミュラはロゼッタ経由で合流しており、ダマンフールには立ち寄っていないことだ。なぜデュマはダマンフールと言ったのかに違和感を感じる。そしてフランスの政治から隔絶されたエジプト遠征の最中に、兵士たちが疲弊している状況でナポレオンがフランス共和国で独裁できると推測しているのにも違和感を感じる。場所の間違いや予言のようなエピソードは創作の可能性を疑ってしまう。
このエピソードの一部(密室での話し合いの内容)が創作であり、フランスの利益に反するような行ないをしてナポレオンに叱責され、病気とホームシックによりエジプト遠征から離脱した情けない男と思われたくなかったという可能性すらある。
カイロの降伏
1798年7月22日、ボナパルトはギザの本部で対岸にあるカイロ攻略の指揮を執っており、カイロの住民を安心させ信頼を得るための宣言を送っていた。
ナイル川を渡るためには船が必要だったが、1日経っても肝心のペレー艦隊が到着せず、ペレー大佐から座礁したとの連絡が届けられたため、火災を免れナイル川左岸側に残された数少ない船で右岸へ渡ることを決定した。
ボナパルトはデュプイ(Dupuy)少将にカイロ城塞を占領するよう命じ、もしカイロ城塞を占領することに成功したらボン将軍に師団を移動させて駐屯するよう命じた。
そしてヴィアル将軍にローダ島を経由して右岸へ渡り、カイロの手前に布陣するよう命じた。
ヴィアル旅団は23日夜明けとともにローダ島(Al Manyal ar-Rawdah)に渡り、ローダ島南のメキアス(Mékias)に大隊を配置した。
23日、ドゼー将軍に対し、ナイル川が氾濫したときに浸水せず、かつナイル川に近い場所に3つの砦を翌24日に構築するよう命じた。
これらの砦は三角形を形成し、塹壕によって結合され、この三角形が師団全体を収容し、塹壕陣地として機能させる計画だった。
ドゥガ将軍にはベドウィンに対抗するためにピラミッド方面に星形要塞を建設するよう命じていた。
そして23日と24日、カイロの代表団がギザのボナパルトの元に訪れ、降伏した。
ボナパルトは熟練の通訳を介してカイロの代表団を安心させ、好意的な感情が得られるように話したと言われている。
カイロへの入場
※「デュプイ将軍のカイロ入城(Entrée du Général Dupuy au Caire)」ジャン・アンドレ・リクセン(Jean-André Rixens)画。1899年。
7月24日、ボナパルトはデュプイ旅団を先頭にカイロを占領し、25日にはボナパルト自身もカイロに入った。
ボナパルトは街の一端のエズベキエ(Ezbekiéh)広場にあるエルフィ・ベイ(Elfi Bey)の邸宅へ向かい、そこを滞在場所に定めた。
※エズベキエ(Ezbekiéh)広場はブウラクと旧カイロ市街の間に位置している。
フランス人、ヴェネツィア人、イギリス人の邸宅からヨーロッパ人に合う家具などの調度品を提供させ、その後、建築家ル・ペールにフランスの風習や慣習に合わせるよう指示した。
ル・ペールはそれに応え、とても美しい階段を作り、邸宅のレイアウト全体を変更した。
カイロの兵士や住民に対し武器の引き渡し命令を行なったが、エジプトで影響力を持つムラード・ベイの妻を長とするハーレムだけは引き渡し命令に従わず、多数のライフルを所持した。
ボナパルトは9人の首長を集め、カイロの統治を一任し、現地民で構成されるトルコ軍団を創設した。
トルコ軍団の最初の仕事はデュプイ将軍指揮下での警察業務だったと言われている。
そして兵士の要望に応え、オーブンやパン屋、商店、病院などの設置を命じた。
ピラミッドの戦いのニュースは、砂漠へと消えて行ったベドウィンと下エジプトへの逃亡兵によって異例の速さで砂漠全体と下エジプト全土に広がっていった。
エジプト各地のモスクにおいてもピラミッドの戦いにおけるフランス軍の勝利が掲示され、それにともないフランスに敵対する者達の活動は少なくなった。
その結果、途絶えていたアレクサンドリアとロゼッタとの連絡線が再確立された。
しかし、7月27日、ピラミッドの戦いに勝利し、カイロに入城たにもかかわらずフランス兵数名がベドウィンの一団に襲われる事件が起こった。
これらの兵士達は武器を持っていないところを襲われており、未だベドウィンの脅威が去っていないことがわかる。
ムラード・ベイとの協定
ボナパルトはムラード・ベイ討伐のためにドゼー師団を派遣したかったが、遠征の開始に適した季節はまだ到来していなかった。
ナイル川の運河や分水路にボートが通るまでには1ヶ月はかかるだろうと考えられた。
ピラミッドの戦いの数日後、ボナパルトはムラード・ベイを取り込むか、もしくは一時的な停戦を目的として、マムルークの友人でありヴェネツィアの領事でもある商人ロゼッティに書簡を持たせムラード・ベイの元に派遣した。
ムラード・ベイへ宛てた書簡の内容は、ムラード・ベイとそのマムルーク人全員の村の財産と家の財産を保護し、フランス共和国の士官として受け入れ、ベイを将軍、カシェフを大佐の待遇で迎え入れるというものだった。
※カシェフはマムルークの部隊指揮官のことだと考えられる。
ムラード・ベイはこの提案に同意し、「よく知った尊敬している国であるフランスの将軍の寛大さに全面的に依存している」と述べ、エスネ(Esné)に引退し、首長(Emir)の称号を得て2つの山からシエーヌ(Syène)までの渓谷を支配することとなった。
※エスネ(Esné)は現在のケナ県、シエーヌ(Syène)は現在のアスワン。推測だが、2つの山はメイドゥム・ピラミッドとハワーラのピラミッドのことであり、ギザ県のすぐ南に位置するベニ・スエフ県以南をムラード・ベイが支配することとなったのだろう。
そして将軍(ナポレオン)の裁量に応じて、必要と判断した場合にはどこにでも使用できるよう、800人のマムルーク人から成る部隊を提供するつもりであり、もし将軍がその権力をシリアにまで拡大するのであれば、そこに施設を設立してもらうという提案を受け入れるだろうと言った。
しかし、ムラード・ベイの服従の態度は表面的なものであり、心の底ではフランス軍の存在を忌々しく思っていた。
そのため、シリアへの権力の拡大をナポレオンに示唆したのは、フランス軍とオスマン帝国軍を戦わせることが狙いだったのだろうと考えられる。
その後、ボナパルトはランポン旅団をギザ州アトフィ(Atfih)の占領へ向かわせた。
ドゼー将軍の余暇
※「メンフィスのハトホル神殿跡」。2004年8月、セバスチャン(Sébastien)氏による撮影。(パブリックドメイン)
ドゼーが見たメンフィスはこれよりもっと遺物が散乱し雑然としていたと考えられる。
ドゼー将軍は上エジプト遠征が開始されるまでの合間を利用して自らの地位を強化し、歩兵しかいない師団に騎兵隊を創設し、エジプトに住む民族の習慣を研究し、記念碑や歴史年代記の研究に勤しんだ。
この時、ドゼーはヤシの木が生い茂る木立の向かいにあるテルセ(Terseh)に陣地の周囲を定めていた。
※テルセ(Terseh)はギザ南西にある町
師団左翼はナイル川によって支えられ、その砲台が設置されていた。
師団の右側には巨大なピラミッドの群がそびえ立っており、師団前方にはこのヤシの木のカーテンに隠れてメンフィスの遺跡が横たわっていた。
この遺跡は古代では有名な都市であり、毎年鋤で平らにされた形のない瓦礫の山となっており、ヘロドトス、ディオドロス、ストラボン、プリニウスなどの書物を読んで知っていなければそれが遺跡だと認識できない状態だった。
しかし、所々に半分消えかかった象形文字、陶器やアラバスターの破片を伴う砂岩と花崗岩のブロックがまだいくつか見つけることができた。
兵士たちは毎日、ドゼー将軍がこれらの遺跡の中をさまよっているのを目にした。
ドゼーはセラペウム(Sérapéum)と王の宮殿の痕跡を探しており、セソストリス(Sésostris)とプサミティコス(Psammiticus)の巨像が倒れたプタハ大神殿(フウト・カ・プタハ (Hout-ka-Ptah))の前にモリス(Moris)によって建てられた壮大なプロピュライア(神殿の入り口)がどうなったのか疑問に思っていた。
ドゼーはこの有名な都市を思い描いた。
頭の中で、神殿、宮殿、スフィンクスの通りを隆起させ、アピス神の祭り、王の就任式、死者の裁きに出席し、20人の捕虜の手によってピラミッドが段階的に作り上げられていくのを見て、ファラオの玉座のふもとで自由を求めるイスラエル人の祈りを聞いた。
しかし、敵国の戦車がこの都市の城壁を突き破り、都市は終焉を迎えた。
ドゼーは死のイメージだけが、これらの壮大な墓であるピラミッドの不滅の塊とともに生き残っているように感じた。
このようにしてドゼー将軍はメンフィスの遺跡群で知見を広げながら戦闘の季節の到来を待っていた。
軍の再編成とダミエッタの占領及びイブラヒム・ベイ軍討伐準備
ボナパルトは軍の再編成を行い、上エジプトのムラード・ベイと砂漠のベドウィンをドゼー師団で警戒させつつ、29日にブウラクのヴィアル将軍に部隊を与えてダミエッタへと出発させ、レイニエ師団でベルベイス(Belbes)のイブラヒム・ベイ軍討伐準備に乗り出した。
今までヴィアル旅団だった部隊の指揮権はランヌ将軍に引き継がれた。
その間、カイロ、アレクサンドリア、ロゼッタ、ダミエッタ、アル・ラフマニーヤなど主要都市間のナイル川を利用した兵站線の整備を命じ、ナイル川流域の重要地点にある州に将軍と部隊を配置して下エジプトの支配を着々と進めていっていた。
ネルソン戦隊のアレクサンドリアへの再出発
※1798年7月20日から8月1日に行われるナイルの海戦までのネルソン戦隊の航路。
一方、シチリア島のシラクサを出発したネルソンは7月28日にペロポネソス半島沖に到着していた。
7月29日、ペロポネソス半島メッセニア(Messenia)のコロ二(Koroni)湾へ情報収集に向かった戦列艦「カローデン」のトロウブリッジ艦長から「約4週間前にフランス艦隊がクレタ島から南東に針路を取ったのが目撃された」という情報がもたらされた。
同日、アレクサンダー・ボール船長からも同様の情報がもたらされると、ネルソンは直ちに全艦をアレクサンドリアへ向けて出航した。
この時「カローデン」はコロニ港で1隻のフランス商船を拿捕し、積み荷を他の艦にも分配したと言われている。
ラ・ヴァレッテの回想録におけるアブキール湾の海戦前夜の出来事
7月30日、カイロに到着したラ・ヴァレッテはボナパルトに自身に課せられた任務の報告やブリュイ提督が指揮するフランス艦隊の状況、そしてエジプトへの船旅の途中、アブキールの近くでイギリス船に追跡されたことなどを伝えた。
ボナパルトは副官ラ・ヴァレッテからもたらされたネルソン戦隊に関する情報を精査し、「イギリス戦隊はプレーリアル12日(5月31日)にジブラルタル海峡を渡り、23日(6月11日)にトゥーロン沖、29日(6月17日)にナポリ沖、そしてメシドール9日(6月27日)にアレキサンドリア沖に到着したのだろう。そして数で劣るイギリス軍はマルタを封鎖することで満足しているのだろう。」と推測した。
そして艦隊がまだアブキール湾にいることに激怒し、すぐに副官のトーマス・プロスパー・ジュリアン(Thomas Prosper Jullien)大尉に15人の護衛を付けて「直ちにアレクサンドリア港へ入港するか、もしくはコルフ島へ移動せよ」との命令書を持たせてブリュイ提督の元に派遣した。
この大尉には「フランス艦隊がエジプトを離れるのを見届けるまで帰還してはならない」と口頭で命じていた。
しかしジュリアン大尉はアルカム(Alqam)村に到着すると護衛もろとも住民によって殺害されたためフランス艦隊がエジプトから離れるのを見届けることはできず、ボナパルトの命令書がブリュイ提督の手に届くことも無かった。
ナポレオンからブリュイ提督への7月30日付の命令
1798年7月30日、ボナパルトはブリュイ提督に命令書を送った。
その内容は「アレクサンドリアの旧港の水深調査の成功について聞いたため、すでに入港しているだろうと期待していること」、「ペレー少将はナイル川で長期間必要とされること」、「50隻の食糧を積んだ船が到着していると思うため、それを適切に保管、整理すること」、「軍資金が不足していること」「同封してあるダミエッタへの命令書を護衛艦で送ること」、「イギリス軍の行動全体を見ると、イギリス軍は数で劣っており、マルタを封鎖して物資がそこに到着するのを阻止することで満足していると思われること」、「(東地中海の)出入り口(マルタ島周辺海域)に影響を与えることができる位置に自軍がいることが重要であるため、すぐにアレクサンドリア港に入港するか、到着した米と小麦を前線に送った後にコルフ島に向かうこと」、「もしコルフ島に向かうのであれば、我々(エジプトに上陸している陸軍)に奉仕できるすべての船・・・ベネチアとフランスのフリゲート艦がアレクサンドリアに留まるように注意すること」だった。
ラ・ヴァレッテが主張する通り、ボナパルトは7月30日に本国との連絡線の遮断という致命的な事態を回避するための命令書をブリュイ提督に送っている。
しかし、ジュリアン大尉がブリュイ提督の元に最短で到着できたとしても時すでに遅く、ネルソン戦隊はすぐそこにまで迫ってきていたためアレクサンドリア港やコルフ島に移動する時間は無かっただろう。
ボナパルトはイギリス海軍への警戒を怠ること無く対応策を考えていたが、時間と空間は彼に味方せず、ネルソン戦隊との決戦を回避することは叶わなかった。
そしてこの後、不足している軍資金を捻出するために、クレベール将軍へはアレクサンドリア市に対して資金を拠出するよう、メヌー将軍へはロゼッタの民衆から寄付金を徴集するよう、ダミエッタに向かっている途中のヴィアル将軍へはダミエッタの商人や公務員に対し寄付金を拠出させるよう命令書を送った。
参考文献References
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻
・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)
Egypt03・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」
・Antoine Marie Chamant La Valette著「Mémoires et souvenirs du comte Lavallette, 第1巻」(1831)
・Alexandre Dumas著「Mes mémoires, 第1巻」(1865)
・Félix Martha-Beker (comte de Mons)著「Le général Desaix: étude historique」(1852)
・その他