エジプト戦役 33:アル・バーナサでの戦闘
Combat of Al Bahnasa

アル・バーナサでの戦闘

1798年9月7日、アル・バーナサでの戦闘

※1798年9月7日、アル・バーナサでの戦闘

 9月7日夜明け、ドゼー将軍はガレー船とブリッグ船にジョセフ運河の入り口まで航行を続けるよう命じた後、下馬して第21半旅団の第1大隊とともにアブー・ジルジを出発し、ムラード・ベイの後衛陣地に向かった。

 しかし、ナイル川の氾濫は広範囲に及んでおり、師団は最大の困難に直面した。

 ボナパルトの予想は外れ、アル・バーナサからアブー・ジルジに繋がる運河は存在しなかった。

 ナイル川からジョセフ運河の間は増水により平原にも水が入り込んで水路が通り、足元では周辺一帯のひび割れた溝に水が浸入して8つの運河を形成し、泥の湖が出現していた。

 兵士達は、ドゼー将軍が不平も言わず、腰まで水に浸かって泥まみれになりながら泥の湖を進んでいくのを見ており、兵士達も水に浸かって泥まみれになりながらドゼー将軍の後に続いた。

 4時間水の中を歩き続けた後、ようやくシェブービエ(Chéboubié)村に到着した。

※シェブービエ(Chéboubié)村とはアシュルーバー(Ashrubah)村のことだと考えられる。

 この時、ムラード・ベイは艦隊を受け入れるためにアル・バーナサに3人のベイ(指揮官)と150騎の後衛を残し、ジョセフ運河を下ってファイユーム州へ向かおうとしているところだった。

 ドゼー将軍はすぐにアル・バーナサに進軍した。

 ジョセフ運河に近づくと砲撃が行われ、ドゼー師団第21半旅団の銃兵隊が砲弾の中、アル・バーナサの少し南の右岸側の堤防を制圧した。

 ドゼー将軍が制圧した堤防に到着した時、ムラード・ベイがナイル川で切り離した艦隊がこの村を流れるジョセフ運河を通過しようとしているところだった。

 マムルークとアラブ人はジョセフ運河の左岸側にいて、ナイル川を遡って合流したジェルメ12隻を守ろうとした。

 第21半旅団の銃兵隊は岸辺に急いだ。

 銃兵隊は強力な一斉射撃を行い、マムルークを追い払い、アラブ人を解散させた。

 第21半旅団は12隻のジェルメを鹵獲し、その内の11隻には弾薬と食糧・・・特に大量の小麦が積まれており、12隻目には7門の大砲が搭載されていた。

 ムラード・ベイはこの戦闘を最後まで見ず、急いでファイユーム州へ旅立ったと言われている。

少年兵の採用

「太鼓を叩く少年(The Drummer Boy)」。ウィリアム・モリス・ハント(William Morris Hunt)画。1862年頃。

※「太鼓を叩く少年(The Drummer Boy)」。ウィリアム・モリス・ハント(William Morris Hunt)画。1862年頃。注:画像はイメージです。

 9月7日、ボナパルトは8歳以上16歳未満の放棄された少年奴隷に、それぞれの駐屯地を形成する軍団での生活を提供し、大隊当たり9人、中隊当たり4人の割合で軍に組み込むよう命じ、14歳以下はドラマーとして採用されることとなった。

 この施策は軍の人手不足の解消という側面もあるが、主人の死亡もしくは逃亡により生活の術を失った子供達への支援という意味合いもあった。

 少なくとも軍で生活できれば衣食住は保障されるのである。

ドゼー師団のさらなる南下

 9月8日、前日にアル・バーナサで勝利したドゼー将軍だったが、アブー・ジルジからアル・バーナサまでの連絡線を確立できなかったため、一旦ムラード・ベイ軍を追跡することを諦め、アブー・ジルジに戻って師団と合流した。

 そして船に乗り、再びムラード・ベイを追跡するためにジョセフ運河の入り口のあるダイルート・エル・シャリーフ(Dayrout El-Shareef)へと旅立った。

ランヌ将軍によるミヌフィーヤ州の反乱鎮圧

 9月9日、ミヌフィーヤ州で起きた反乱の鎮圧にランヌ将軍を向かわせるようベルティエ将軍に命じた。

 ランヌ将軍はブウラクに集められた300人の兵士を船に乗せ、反乱を起こしたアシュムン(Ashmun)村に出発した。

 アシュムン村はブウラクから約40㎞のところに位置するナイル川のロゼッタ支流とダミエッタ支流の間にある村である。

 クレベール師団はアレクサンドリア、メヌー師団はロゼッタ、ヴィアル旅団はダミエッタ、ドゥガ師団はマンスーラ、レイニエ師団はエル・サルヘイヤ、ドゼー師団はアブー・ジルジ、ランポン旅団はアトフィに分散し、カイロ周辺に残されたのはボン師団とカイロ市街の警備を担当するデュプイ旅団のみとなった。

マンザラ湖でのイギリスの気配

 9月10日、エル・サルヘイヤのレイニエ将軍に、ダミエッタからの補給路を確実なものとするために、堤防や運河をすべて利用して、シャルキーヤ州、特にマンザラ湖(Lake Manzala)周辺の地域を知るよう命じた。

※マンザラ湖はダミエッタとポートサイドの間に広がる汽水湖のことである。

 さらにボナパルトは、ヴィアル将軍から「マンザラ湖でヨーロッパの小型船を見た」という報告を受け、アンドレオシー工兵将軍にマンザラ湖の探索を命じ、ヴィアル将軍とドゥガ将軍にアンドレオシー工兵将軍の支援を行うよう命じた。

 シリアからのジェルメ(小帆船)やイギリスのボートがマンザラ湖の河口の一つから入り、マンザラ湖周辺地域一帯を支配するハッサン・トゥバール(Hassan Tobar)と連絡を取り合うことを懸念し、マンザラ湖自体の探索と同時にナイル川からマンザラ湖へ船で渡る方法がないかなどを探させたのである。

 この時、ハッサン・トゥバールはイブラヒム・ベイやイギリスと連絡を取り合い、マンザラ湖に船を集め、将来の戦いの準備を整えていた。

 ハッサン・トゥバールは、当時、エジプトで最も裕福な人物だったにもかかわらず、フランスにおもねることなく、私財を投じて武器や帆船を買い付けた。

 そしてマンザラ湖で大艦隊を組織するまでになっていた。