エジプト戦役 39:ナポレオンのピラミッド観光とスフィンクスの鼻の伝説
Napoleon visited the pyramids
※「ボナパルトとスフィンクス(Bonaparte ante la Esfinge)」。ジャン・レオン・ジェローム(Jean Leon Gerome)画。1886年。
フランス共和国建国記念日
1798年9月22日、ボナパルトはフランス共和国の建国記念日を祝うために盛大な式典を催した。
この式典のために2つの凱旋門が製作された。
その内の1つにはピラミッドの戦いが描かれており、そこには「アッラーのほかに神はなし、ムハンマドは神の使徒なり。」とイスラム教の信仰告白の文言が刻まれていた。
しかしピラミッドの戦いはカイロの人々にとって敗北の記憶でしかなく、フランスとカイロの人々との融和は遠く離れることとなった。
式典当日、ボナパルトは演説の後、「共和国万歳!」叫ぶと、式典参加者たちも「共和国万歳!」と叫び、大砲の一斉射撃が行われた。
大砲の射撃の後、「大隊により列を接近せよ」の号令でピラミッドの周辺に集結したボン師団、ランヌ旅団、護衛の騎兵たちは、各列が4列以下、合計16列になるように整列し、「マーチ(Marche)」の号令でピラミッドに向かって突撃してその周辺に陣取り、ピケットを立てた。
それからすべての旗が大隊の先頭に立ってピラミッドの近くに進み、旗にピンで、「アレクサンドリア占領、シュブラ・キットの戦い、ピラミッドの戦い」と書かれた金文字の標識を取り付けた。
そしてボナパルトが演説し、愛国的な賛歌が歌われた。
◎ナポレオンの演説
「我々は共和国建国 7 年の初日を祝います。
5年前、フランス国民の独立は脅かされました。
しかし、君たちはトゥーロンを占領しました。
それは我々の敵の破滅の前兆でした。
1年後、デゴでオーストリア人を破りました。
翌年、君たちはアルプスの頂上に登りました。
そして2年前にマントヴァと戦い、サン・ジョルジュで有名な勝利を収めました。
昨年、君たちはドイツから帰国して、ドラヴァ川とイゾンツォ川の源流にいました。
そのとき誰が、今日君たちが古代大陸の中心、ナイル川のほとりにいるだろうと予想したでしょうか。
芸術と商業で有名なイギリス人から、恐ろしく凶暴なベドウィンまで、君たちは世界の注目を集めています。
兵士たちよ!君たちの運命は美しい、なぜなら君たちは自分がしてきたこと、そして人々が君たちに対して抱く評価に値するからです。
このピラミッドに名前が刻まれている勇敢な人々のように、君たちは名誉のうちに死ぬか、それとも月桂樹とすべての人々の賞賛に包まれて祖国に帰ることになるだろう。
我々がヨーロッパから離れていた5ヵ月間、我々は同胞たちから常に懸念の対象となっていました。
この日、4,000万人の国民が代議制政府の時代を祝い、4,000万人の国民が皆さんのことを思います。
我々が全体的な平和、休息、商業の繁栄、そして市民的自由の恩恵を受けているのは、彼らの労働と彼らの血のおかげである、と誰もが言うだろう。」
演説と賛歌の後、「列を形成せよ」の号令でピラミッド周辺の各縦隊が右に向きを変え、定位置を移動して展開した後、パレードが開始された。
式典の後、庭園で祝賀会が開かれ、余興として兵士を派遣してピラミッドの頂上にフランス国旗を立てさせたと言われている。
ナポレオンのピラミッド観光
※「ピラミッドの前で王のミイラを見つめるナポレオン・ボナパルト(1798年)(Napoléon Bonaparte devant les pyramides, contemplant la momie d'un roi (1798))」。モーリス・オランジェ(Maurice Orange)画。1895年。
9月23日、建国記念日の翌日、ボナパルトはピラミッドに行くことを希望した幹部に、ギザへの集合を伝えた。
23日はギザで就寝し、翌24日午前6時にギザを出発し、ボナパルト一行をグレジュー(Pierre Joseph Bérardier Grézieu)将軍が率いる200人の部隊が護衛する計画だった。
※1798年9月23日付のナポレオンの書簡には「市民の皆さん、警告しますが、ピラミッドを見たい人は今晩ギザに行って寝てください。私たちは明日3日(9月24日)、ちょうど朝の6時にそこから出発します。グレジュー副将軍は、そこへ行きたい人々を護衛する責任を負っています。」と書かれている。
ナポレオンがクフ王のピラミッドの中に入った伝説とは別に、ナポレオンと参謀たちがクフ王のピラミッドを訪れた逸話が残されているが、それはこの日である可能性が高い。
ベルティエをはじめとする側近たちや科学者数人がピラミッドの頂上まで登る傍ら、ナポレオンはピラミッドの麓の陰で計算をしながら休憩していた。
側近たちが下りてきてナポレオンの元に行くと、ナポレオンは「ピラミッドの石材で高さ6ピエ(1ピエ=約32.48㎝, 6ピエ=約194.88㎝)の壁を作ると仮定すると、壁は長さ1,000リーグ(約4,000㎞)となりフランスを一周することができる。」とピラミッドの石材の量を計算していたと言われている。
壁の厚さが0.3m(当時の壁の厚さの標準)、壁の高さが1.9488mと仮定した場合、壁の長さは4,587,226mとなる。
この時、ナポレオンは首から下が砂に埋もれたスフィンクスも見物している。
ナポレオンの計算とされているもの
ピラミッドの体積・・・148.2 x 2332 / 3 = 2,681,876m3
壁の厚さ・・・0.30mと仮定(当時の壁の厚さの標準)
壁の高さ・・・3mと仮定
壁の長さ・・・2,681,876 / (3 x 0.3) = 2,979,862m
フランスの面積・・・551,695 km2
フランスを正方形と仮定した場合の1辺・・・742,762m
フランスを正方形と仮定した場合の外周・・・2,971,048m
ピラミッドの石材で作ることが可能な壁の長さ 2,979,862m > フランスを正方形と仮定した場合の外周 2,971,048m
この計算では壁の高さがより高く設定されている。
数学好きのナポレオンらしい逸話だが、同行していた数学者のフーリエ(Jean Baptiste Joseph Fourier)が計算した可能性もある。
※フーリエは後にシャンポリオンにロゼッタストーン(本物はイギリスに奪われたため、フーリエが保管していたのは複製された石板か金属板だろう)を見せ、それがきっかけとなりシャンポリオンは解読に挑戦した。
実際のところ、当時の正確なフランスの面積を知ることは難しく、この計算が正しかったかどうかは不明であるが、後に数学者モンジュ(Gaspard Monge)が再計算をして計算が正しいことを認めたと言われている。
スフィンクスの鼻
エジプト遠征時に「ナポレオンがスフィンクスに向かって大砲を撃ち、鼻を破壊した。」という伝説が残されている。
しかし、1755年に出版されたFrederic Louis Norden著「Voyage d'Egypte et de Nubie: Tome premier」に掲載されたスケッチではすでにスフィンクスの鼻は欠けていた。
※Frederic Louis Norden著「Voyage d'Egypte et de Nubie: Tome premier」(1755)より抜粋
首から下は砂に埋もれ、鼻が欠けていることが分かる。
そのため、ナポレオンがスフィンクスの鼻を破壊したという伝説は事実ではない。
恐らく噂に尾ひれがついてそれらしく語り継がれたのだろう。
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