エジプト戦役 07:カイロへの道程と赤痢や眼病の発症 
Journey to Cairo

カイロへの行軍

※砂漠の行軍。砂漠でカイロへ向かうボナパルト将軍のフランスの兵士

カイロへの道程

1798年7月13日~21日、フランス軍のカイロへの道程

※1798年7月13日~21日、フランス軍のカイロへの道程

 1798年7月14日、シャブールで軍に休息を取らせたボナパルトは全軍にさらなる進軍を命じた。

 夕方、まず前衛であるドゼー師団はペレー艦隊とともにコウム・シェリク(Kawm Sharik)へ向かい、その後にレイニエ師団もコウム・シェリクへ向かって出発した。

 続いてボン師団とヴィアル旅団はエル・サワフ(El-Sawaf)に向かい、最後にドゥガ師団が予備軍としてアン・ネギレー(An Nijaylah)へ向かった。

 ボナパルトはその日の夜にシャブールからナイル川沿いを約22㎞ほど遡った場所にあるナイル川からの用水路が引かれたコウム・シェリクに到着した。

 マムルーク軍の敗残兵は昼も夜もフランス軍に追われて逃げ続けていた。

 コウム・シェリクではスイカが大量にあったため、兵士達はスイカを貪るように食べた。

 この時はまだ兵士達の健康に大きな問題があるようには見えなかった。

 フランス軍の先頭は、15日にはコウム・シェリクから約13㎞離れアルカム(Alqam)、16日にはアルカムから約22㎞離れたアブー・ノシャベ(Abu Nashabah)、17日にはアブー・ノシャベから約16㎞離れたワルダン(Wardan)に到着した。

※ナポレオンのいる本部は、先頭からほぼ1日遅れでこれらの場所に移動した。

 エジプトの灼熱の気候のため、夕方以降に進軍を始め、午前9時には野営するという生活であり、17日はワルダンのヤシの森の木陰に野営地を設置した。

 右岸のデルタ地帯側からの食糧の供給により中間地点の占領による兵力の分散をしなくてよかったため、フランス軍は23,000人の兵力を有したまま進軍を続けた。

 ザヨンチェク旅団は、ナイル川がダミエッタ支流とロゼッタ支流の2つに分かれてデルタ地帯を形成する地点である「牛の腹」として知られる地点に陣取った。

 フランス軍は若干の休憩を挟みながら18日にはワルダンから約25㎞離れたアル・ラハウィ(AR Rahawi)、19日にはアル・ラハウィから約3㎞離れたオム・ディナール(Umm Dinar)に到達し、ムラード・ベイ軍を追跡しつつナイル川沿いを南下した。

 フランス軍はオム・ディナールで初めてピラミッドを目にした。

 砂漠の地平線に3つのピラミッド(メンカウラー王、カフラー王、クフ王のピラミッド)が並んでおり、まるで3つの大きな岩のように見えたが、よく見ると人工物であることが認識できたと言われている。

 そしてカイロの南東に位置するモカッタム(Mokattam)の丘陵地帯に建てられたモスクも視認できた。

 ボナパルトはオム・ディナールでムラード・ベイが60,000人の兵力でブウラクの対岸のエンバベの前に布陣し、待ち構えていることを知った。

 7月20日午前2時、前衛のドゼー師団は約600人のマムルーク軍の敗残兵を発見したが、彼らは直ちに撤退して行った。

 フランス軍は後続部隊のオム・ディナール周辺への集結を急ぎ、戦闘準備を開始した。

 そして午後2時、ドゼー師団はエンバベから3リーグ(約12㎞)離れたエル・イクサス(Al Ikhsas)とブティ(Burtus)に到着した。

 ボン師団とレイニエ師団はドゼー師団を追ってニクレを出発しており、最後衛のドゥガ師団がようやくオム・ディナールの西1.5㎞ほどの所に位置するアル・ラハウィ(AR Rahawi)に到着した。

 ドゥガ将軍はその後、21日午前2時に出発し、エル・イクサスにいるボン師団の後を追うよう命じられ、他の各師団もエンバベの前に向かって出発した。

 20日時点でフランス軍の総司令部はオム・ディナールにあり、各師団はナイル川の近くをエンバベに向けて進軍していた。

 21日午前8時、カイロの400本ものミナレット(モスクの塔)を見て兵士たちは歓喜の叫び声を上げた。

 カイロは今まで通ってきたナイル川沿いの村とは全く比較にならない大都市だった。

 午前9時、フランス軍はマムルーク軍を視認した。

 そしてナイル川に平行して布陣し、少しの休息に入った。

アレクサンドリアの反乱

 フランス軍がオム・ディナールに到着するまでの間、アレクサンドリアの行政長であるムハンマド・コライム・パシャはフランス軍に対抗するよう民衆に呼びかけた。

 アレクサンドリアの民衆はその呼びかけに共鳴し、19日中に反フランスの気運が市内に広がった。

 アレクサンドリアを任されていたクレベール将軍は反乱を鎮圧するために軍を派遣し主導者を逮捕した。

 7月20日、コライム・パシャは逮捕され、反乱は終息に向かった。

 その後、コライム・パシャはフランス艦隊が停泊しているアブキールに移送され、そこからロゼッタへ移送された。

ネルソン戦隊のシチリア島への到着とキプロス島への出発の決定

 7月20日、シチリア島に到着したネルソン戦隊はシラクサで新たな食糧と水を調達した。

 フランス艦隊の目的地はエジプトであると判明していたが、その行方はマルタより東に向かったという漠然としたことしか分かっておらず、フリゲート艦を欠いたネルソン戦隊の索敵能力ではフランス艦隊は発見できず、ネルソンはフリゲート艦の不在を嘆いた。

 唯一の情報は、「7月1日にフランス艦隊がクレタ島沖で目撃された。」という報告のみであり、クレタ島周辺のどの辺りにいたのかすら不明だった。

 ネルソンは物資の補給完了後にペロポネソス半島などまだ探索していない地域に立ち寄って情報を収集しつつキプロス島に向かうことを決定した。

過酷な行軍に対する兵士達の不満

1798年エジプト。エジプト侵攻中に厳しい砂漠の環境に対処するナポレオン・ボナパルト(右)指揮下のフランス軍。

※「1798年エジプト。エジプト侵攻中に厳しい砂漠の環境に対処するナポレオン・ボナパルト(右)指揮下のフランス軍」19世紀初頭

 シャブールからオム・ディナールまでの5日間の行軍中、フランスの将軍や士官、兵士達の不満は増大していた。

 水牛小屋と同じくらい惨めな家、灼熱の太陽、乾燥した日陰のない平原、汚れた泥水が流れるナイル川、砂漠の恐ろしい男、醜く気性の荒い不潔な女、そしてパンもワインも手に入らない国にいることを不満に思っていた。

 カイロを知るフランス人がカイロの美しさと贅沢さを語り、この国は悲惨であるどころか世界で最も裕福であり、 カイロに着いたらすぐにパンとワインを食べられるだろうと言うと兵士達は悲しそうにこう言った。

「カイロは(これまでの村と比較して)2~3倍の大きさかもしれないが、生活に耐えられるものは何もない小屋の集合体だろう。」

 それを聞いたナポレオンは兵士達に近づき、「これまでナイル川周辺一帯の評判は良くないが(経済的に)成長し始めており、(カイロを知るフランス人が言う)この川についての評価はすべて正当化されるだろうこと」、「小麦の山の上で野営し、数日以内には製粉所とかまどができるだろうこと」、「大変な苦労をして歩いたこの荒れ果てた、非常に単調な悲しい土地が、間もなく収穫と豊かな農作物で覆われ、それが(イタリアの)豊かで肥沃なポー川の周辺一帯のようになるだろうこと」、「レンズ豆、ソラ豆、鶏、ハトがあったこと」、「不満は誇張されており、暑さは間違いなく酷かったがイタリア戦役(第一次イタリア遠征)中の7月と8月の行進も非常に疲れるものであり、(このエジプトでの行進も)休んで秩序を保っていれば耐えられるだろうこと」などを伝えた。

 しかしこれらの話は一時的な効果しかもたらさなかった。

赤痢と眼病の発症

 シャブールからワルダンへの行軍中、赤痢や結膜炎、夜盲症(鳥目)などを発症する兵士達がいた。

※夜盲症は暗い所に順応する目の機能が低下する症状。

 この時、赤痢に罹患する者は少数であり、結膜炎や夜盲症はおよそ1週間ほどで治るケースが多かったため、それほど深刻な病気のようには思われていなかった。

 しかし赤痢は発熱や下痢、嘔吐、全身のだるさにより倒れる者がいたため、これらの兵士をボートに乗せて帰還させた。

赤痢についての考察

 当時のフランス兵が罹った赤痢は、恐らく生のスイカやかぼちゃなどを食べたことによるアメーバ赤痢なのではないかと考えられる。

 アメーバ赤痢は感染者の10%~20%ほどに症状が出て、個人差はあるが感染してから2週間~4週間(数日~数年のブレがある)の潜伏期間があり、死に至ることもある危険な病気である。

 7月19日に病人をボートに乗せて帰還させるよう命じているため、18日~19日くらいに症状が出始めた者がいたのだろう。

 エジプトに上陸して2週間以上経過していることもあり、症状が見られる頃だろうと考えられる。

眼病についての考察

 エジプト遠征時にフランス軍が悩まされた眼病は大きく分けて2種類あると考えられる。

 1つはコッホ・ウィークス菌による季節性の眼炎、もう1つはトラコーマだ。

 コッホ・ウィークス(Koch-Weeks)菌による眼炎は、4月~11月にかけてエジプト全土で流行し、潜伏期間が1日~2日でおよそ1週間程度で完治することが多く深刻になるケースは少ない。

 しかしトラコーマは初期症状においてコッホ・ウィークス菌による眼炎の症状と似ている部分もあるが、後期になると感染した人の約5%が視覚障害または失明に至る深刻な病気である。

 トラコーマの潜伏期間は個人差はあるがおよそ5日~12日と言われており、初期は結膜炎、めやにが多い、小さなぶつぶつなどの症状が出て、その後、角膜が白濁としてきて数年かけて症状が進行し、視覚障害または失明に至る。

 恐らくこの時のフランス軍にアレクサンドリアを占領した7月2日の翌日頃からコッホ・ウィークス菌による眼炎の症状が現れた者がいたが放っておけば治る者が多かったため深刻に思われず、7月7日前後から発症したと思われるトラコーマに感染した兵士も放っておけば治るのではないかと考えられていた。

シュブラ・キットの戦い後のマムルーク軍の動向

 一方、マムルーク軍側では、シュブラ・キットの戦いでの敗北の報はすぐにカイロにまで届き、人々に不安と動揺が広がっていた。

 逃亡してきた兵士はフランス軍の方陣とその整然とした機動を「フランスのスルタンは魔術師で軍を自由に操れる」と広め、ブドウ弾やマスケット銃での銃撃を「火の父」と呼んだ。

 オスマン帝国のエジプト総督(パシャ)セイド・アブー・バクル(Seid Abou Beker)はイブラヒム・ベイとともにフランスの商人を通じてボナパルトを探して交渉を行なおうとしていたが、ムラード・ベイがシュブラ・キットでフランス軍に敗北を喫しており、交渉への道は遠のいていた。

 イブラヒム・ベイは港のあるブウラク(Boulaq)でマムルークや部族長、貴族の子弟で構成される騎兵、その従者、オスマン帝国歩兵や民兵、合計60,000人以上の兵力を集結させ、ベドウィンにも救援を依頼していた。

 7月16日、ムラード・ベイはナイル川西岸のエンバベ(Embabeh)村に現れ、イブラヒム・ベイから約60,000の兵力を受け取り、エンバベとビクティル(Biktil)に至る塹壕を掘って要塞化するよう命令を下した。

 ムラード・ベイ軍は19日に塹壕を掘り始めた。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III, 第4巻

・Niello Sargy著「Memorie istoriche sopra la spedizione in Egitto di N. Bonaparte, Volumes 1-3」(1834)

・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne著「Mémoires de M. de Bourrienne, ministre d'état: sur Napoléon, 第2巻」(1829)

・アブド・アル・ラフマン・アル・ラフィーイー(عبد الرحمن الرافعي)著「エジプトにおける国民運動の歴史と統治システムの発展(تاريخ الحركة القومية وتطور نظام الحكم في مصر)1929

・Max Meyerof著「A Short History of Ophthalmia during the Egyptian Campaigns of 1708-1807」 The British Journal of Ophthalmology, 1932 March

・その他