エジプト戦役 15:ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)<中盤> 
Battle of the Nile, Midway

午後7時過ぎ時点での交戦状況とコンケラの降伏

「ナイルの海戦」:1798年8月1日午後7時過ぎ時点での交戦状況とコンケラの降伏

※午後7時過ぎ時点での交戦状況とコンケラの降伏

 1798年8月1日午後7時頃、アブキール湾に完全な暗闇が訪れ、戦域全体が時折フランス艦隊の砲火によって照らされていた。

 3番艦スパルシアーテ及び4番艦アキロンと戦っていたネルソンはすぐに4つの灯火をそれぞれの帆柱の頂上に水平に掲げるよう各艦に指示した。

 戦隊左翼がフランス艦隊の前面に展開するまでの間、1番艦ゲリエはマストが破壊されて大きな被害を受け、オーディシャスとゴリアテの標的となった2番艦コンケラも浮舟の状態となったまま抵抗を続けていた。

 しかしコンケラは絶望的なほどの攻撃を受けてさらに人員が不足し、艦長も致命傷を負い、15分後、オーディシャスからの乗船隊に拿捕された。

 コンケラを無力化したオーディシャスはその後、ペープル・スーヴェランの左舷側へ移動した。

 スパルシアーテは、右舷側ではヴァンガードと交戦しつつ、左舷側ではオーディシャスの通過に耐え、その後、テセウスと交戦した。

 4番艦アキロンはヴァンガード、ミノタウロス、テセウスの3隻との交戦を余儀なくされ、5番艦ペープル・スーヴェランはオリオンとディフェンスと交戦しており、そこへオーディシャスが加わった。

 6番艦フランクリンはオリオンとディフェンス、7番艦オリエントはベレロフォンと交戦していた。

マジェスティックとトゥノンの死闘

ナイルの海戦:マジェスティックとトゥノンの死闘

※「アブキールの海戦で有名な戦列艦トゥノン(Les Vaisseaux Célèbres. Le Tonnant, au Combat D' Aboukir, (le 1er Août 1798))」。ルイ・ル・ブルトン(Louis Le Breton)画。奥のイギリス艦がマジェスティックで手前のフランス艦がトゥノン。

 マジェスティックと8番艦トゥノンは死闘を繰り広げていた。

 トゥノンを指揮するトゥアール艦長は片腕と両足を失ったにもかかわらず戦意を失わず指揮を執り続けていた。

1798年8月1日、トゥノン艦長トゥアールが片腕と両足を失いながらも部下に支えられて勇敢に指揮を執りマジェスティックと戦っている場面。

※「アブキール湾の海戦でのフランス艦トゥノン(French ship Tonnant at Abukir)」。オーギュスト・エティエンヌ・フランソワ・メイヤー(Auguste Étienne François Mayer)画。19世紀。

トゥノン艦長トゥアールが片腕と両足を失いながらも部下に支えられて勇敢に指揮を執りマジェスティックと戦っている場面。

 しかし遂に死期が訪れ、部下に最後の命令を下した。

「トゥノンの戦艦旗をミズンマストに掲げ続け、決して艦を引き渡すことのないように」というものだった。

 その後トゥアールは息を引き取った。

 トゥノンの乗組員たちは亡き艦長の命令を守り戦い続けた。

 マジェスティック側の被害も甚大なものだった。

 マジェスティックはトゥノンと戦闘を開始してから30分も経過しない内にジョージ・ブラグドン・ウェストコット(George Blagdon Westcott)艦長がマスケット銃の銃弾が喉に当たって死亡し、指揮はロバート・カスパート海尉に引き継がれていた。

 トゥノンはマジェスティックよりも大型の戦列艦であり、カスパート海尉が指揮するマジェスティックは劣勢な立場に立たされていた。

 そのためカスパート海尉はマジェスティックを南に退却させた。

 マジェスティックはその後、トゥノンとその後続のフランス艦ウールーの間の有利な位置に陣取り、戦闘を継続した。

ベレロフォンの脱落

ナイルの海戦:ベレロフォンの脱落とネルソンの負傷

※1798年8月1日午後8時頃、ベレロフォンの脱落とネルソンの負傷

 ベレロフォンは絶望的な状況に陥っていた。

 ベレロフォンよりはるかに強力な3層からなる1等戦列艦オリエントはベレロフォンに右舷砲を数発発射し、ボートを粉砕し、大砲を使用不能にし、艤装を切断した。

 上甲板にいたフランス海兵隊も上からベレロフォンの露出した上甲板にマスケット銃での一斉射撃を行ない、ダービー艦長は頭部負傷により意識不明となり、乗組員60人~70人が戦闘初期段階で死傷した。

 その後、ベレロフォンの指揮はダニエル海尉に委譲された。

 ダニエル海尉は負傷しながらも指揮を継続していたが、砲弾が直撃して左足を失った。

 ダニエル海尉はその後救護室に運ばれている最中にブドウ弾が当たり即死した。

 この時点までの戦闘で多くの上級士官達が死傷し、彼らは戦闘からの離脱を余儀なくされていた。

 午後7時50分、ベレロフォンのミズンマストが崩壊し、そのすぐ後にメインマストも崩壊した。

 メインマストの落下で死亡した者の中にはランダー海尉も含まれており、指揮は無傷のロバート・キャカート海尉に委譲された。

 ベレロフォンは勇敢に戦っており、オリエントも2度の火災を発生させていた。

 数カ所で同時に火災が発生し、鎮火したものの、船には200人以上の死傷者が出ていた。

 午後8時、キャカート海尉は下層で指揮を執っており、13歳の士官候補生ジョン・ハインドマーシュが短時間甲板上で上級士官の代わりを務めていた。

 ハインドマーシュは戦線から離れるためにアンカーケーブルの切断を命じ、スプリットセイルを吊り上げた。

 しかしスプリットセイルが風を受け止めた時、フォアマストに大きな負担がかかり過ぎたためフォアマストが崩壊してしまった。

※スプリットセイルとはヘッド(船嘴)の先に張る四角い帆のこと。

 すべての帆柱を失い完全に操舵不能となったベレロフォンは、乗組員が消火活動を行いながら、風と波に流されて戦闘から遠ざかり始めた。

 ベレロフォンはフランスの8番艦トゥノンの長距離からの砲撃を受けながら戦列から離れた。

ネルソンの負傷

ナイルの海戦でのヴァンガード内の様子。負傷して看護を受けているネルソンらを描いたもの。

※ウィリアム・ヒース(William Heath)画。Edward Orme著「Historic, military, and naval anecdotes of particular incidents which occurred to the armies of Great Britain and her allies in the Long-contested War, Terminating in the Battle of Waterloo」より抜粋

 午後6時半頃から始まった戦いは1時間半以上継続していた。

 この時点で脱落した戦列艦はフランスの2番艦コンケラとオリエントと戦っていたイギリスのベレロフォンのみだった。

 ジーラスはネルソン戦隊右翼の通過を支援した後、ゲリエと1対1で交戦した。

 降伏したコンケラの左舷船尾側にいたゴリアテは、スパルシアーテと船首側で交戦しつつ、交戦していない右舷砲を使用して沿岸付近に停泊していたフリゲート艦シリウーズと爆撃艦エルキュール(bomb vessel Hercule)と時折砲撃を交わした。

 オリオンとテセウスの通過に耐えたスパルシアーテは右舷側でヴァンガード、左舷側でオーディシャス、そして左舷船首側でゴリアテと交戦していた。

 3つの艦と交戦中のアキロンを指揮するアントワーヌ・ルネ・テヴナール(Antoine René Thévenard)艦長は乗組員が不足している中、錨を操作してヴァンガードの船首に右舷を向け、ヴァンガードに右舷側の砲火を集中させた。

 ヴァンガードのクオーターデッキにある14門の大砲の内アキロンと対峙している右舷側の7門中3門が破壊され、1門は繰り返し破壊され、砲手たちは死亡したか致命傷を負った。

 勇敢な海兵隊のファディ大佐は多くの部下とともに倒れ、ヴァンガードの甲板には血が流れた。

 このヴァンガードの危機にミノタウロスのトーマス・ルイ艦長はヴァンガードを援護するよう命じた。

 ルイ艦長はミノタウロスの舷側から大砲の先を露出させてアキロンのマストを吹き飛ばし、多数の乗組員を殺害した。

 これは午後8時頃の出来事であり、それによりヴァンガードの乗組員のうち27人が死亡、68人が負傷し、ヴァンガードの船体にも大きな被害を受けた。

 この時のアキロンからの攻撃により、ベリー艦長とともに甲板にいたネルソンの額にラングリッジ弾(鉄くずや釘などが砲弾の代わりに詰め込まれたブドウ弾)の破片が当たって転倒し、良い方の目(左目)の薄皮(まぶた)に傷を負った。

※ネルソンの右目は1794年7月12日のコルシカ島カルヴィの戦いで「光と闇は区別できるが、物体は識別できない」状態となっている。

※別の資料には「骨まで切り裂かれた額の皮膚が大きく垂れ下がり、良い方の目(左目)を覆った。」との記述もあるが、ネルソンの治療は包帯を巻かれただけであるため、額の皮膚が大きく垂れ下がるような傷を負ったというのは信じがたい。そして、その後のウィリアム・ビーチー(William Beechey)作のネルソンの肖像画では右目の上に大きな傷が見られるため、皮膚が大きく垂れ下がったとしても左目を覆うことはできないのではないだろうか。そのため額に被弾して転倒し、薄皮(まぶた)に傷を負ったという方が理に適っているように思える。ウィリアム・ビーチー作の肖像画はビーチーの死から100年以上経過しているが著作権関係で係争しているようであるため掲載しない。確認したい場合"William Beechey Nelson"で検索して欲しい。

 目が見えなくなり、半ば放心状態となったネルソンは、ベリー艦長に抱えられ、その後、部下に支えられながら下層に運ばれた。

 救護室は負傷者で溢れており、ネルソンは自分の順番が来るまで待ちたかったが、部下はすぐに外科医を呼んだ。

 ネルソンが外科医に発見されるまでしばらく時間がかかった。

 激しい痛みによりネルソンは自分の傷が致命傷であると考えた。

 外科医であるジェファーソンが傷を診察した結果、状態は重篤ではないと判断され、一時的に包帯を巻かれた。

 そして救護室で安静にしているよう伝えたが、ネルソンの不安と戦意を抑えることはできなかった。

 そのため同じく負傷していた海軍士官にネルソンに付き添うよう言った。

 死を覚悟したネルソンはカミン牧師を呼び出した後、自分の臨終を妻に伝えて欲しいと願い、ヴァンガードの支援に気高くやって来てくれた勇敢なミノタウロス艦長ルイに感謝するために、ミノタウロスを讃えるよう命じた。

 そして救護室でペンを取り、これまでの戦いの経過を記録に残そうとした。

フランス艦隊右翼を指揮するヴィルヌーヴ少将の判断

 フランス艦隊左翼と中央部で戦闘が繰り広げられている中、10番艦ティモレオン以降の右翼は全く動こうとしなかった。

 この時、右翼を指揮するヴィルヌーヴ副司令官は数人の士官の要求にもかかわらず戦いに参加せずオリエントからの合図を待っていた。

※ただこの時戦場には北西からの風が吹いていたため、オリエントからの合図があったとしても風下にいるフランス艦隊右翼が戦いに参加することは難しかっただろう。しかし、ウールーの後続艦であるティモレオンを戦いに参加させることはできたのではないだろうか。

アレクサンダー及びスウィフトシャーの戦場への突入とフランクリン艦長の負傷

1798年8月1日午後8時5分、アレクサンダー及びスウィフトシャーの戦場への突入

※1798年8月1日午後8時5分、アレクサンダー及びスウィフトシャーの戦場への突入

 午後8時頃、ヴァンガードが大きな被害を被っている時、午後5時にアレクサンドリア沖を出発したアレクサンダーとスウィフトシャーがアブキール湾に到着した。

 辺りには暗闇が広がり、ネルソン戦隊の他の艦の状況が全く分からなかったが、アブキール島の浅瀬にカローデンが座礁しているのが見えた。

 アレクサンダーはカローデンを灯台にして浅瀬を回避して戦場に向かい、スウィフトシャーはカローデンを観察しつつ勇敢にもアブキール湾に侵入した。

 大砲の砲火による明かりのみが戦場を照らし、敵と味方の区別は困難だった。

 スウィフトシャーが戦場に近づいた時、帆らしきものが近づいてくるのを発見した。

 スウィフトシャーを指揮するハロウェル艦長はすぐに発砲しないよう命じた。

 近づいてくる艦は損傷しており、これがもしフランス艦であれば逃走を妨害するつもりだった。

 しかし帆が緩んでいたことと船首の形状から、これはおそらくイギリス艦であると思われた。

 その後、その艦はベレロフォンであることが判明した。

 ベレロフォンは酷い損傷を負っており、すべてのマストが破壊され、トゥノンからの砲撃を受けつつ浮舟の状態で漂流していた。

 スウィフトシャーはベレロフォンを横目に見つつ戦場に突入した。

 午後8時5分、ハロウェル艦長はフランクリンの右舷側とオリエントの船首に向けて砲撃を開始した。

 その瞬間、アレクサンダーはオリエントの船尾を通過し、オリエントの背後に停泊した。

 そして右舷側に兵を集結させ、甲板上から激しい銃撃を続けた。

 フランクリンに乗船していたシャイラ副司令官は、後に次のように報告している。

「午後8時、オリエントと右舷側で交戦していた艦(ベレロフォン)は、有利な位置にあったにもかかわらず、マストを折られ、激しい攻撃に晒されたためアンカーケーブルを切断し、戦線からかなり遠くまで離れていった。 しかしこの瞬間、艦隊の後方に認識され、無傷の2隻の船(アレクサンダーとスウィフトシャー)が、右に舵を切って(フランス艦隊)中央部に向かった。その後、中央での戦いは非常に激しくなった。」

 フランクリンは下甲板の36ポンド砲と上甲板の24 ポンド砲で砲撃を続けたが、艦長モーリス・ジレ(Maurice Gillet)が重傷を負い、甲板から運び出され、戦線離脱を余儀なくされた。

 フランクリンはその後も活発に発砲を継続していたが被弾も多く、マスケット銃の弾薬を詰めた箱が爆発し炎がクォーターデッキの後部に現れた。

 この炎は幸いにも消火に成功したもののフランクリンは絶望的な状況に置かれていた。

スパルシアーテの降伏

1798年8月1日午後8時半過ぎ頃、スパルシアーテの降伏

※1798年8月1日午後8時半過ぎ頃、スパルシアーテの降伏

 午後8時半、ベリー(Berry)艦長は、スパルシアーテを占領するためにヴァンガードのゴールウェイ(Galwey)海尉を海兵隊とともに派遣した。

 スパルシアーテは3隻の戦列艦(ヴァンガード、ゴリアテ、テセウス)と対峙することを余儀なくされ、エメリオ(Maxime Julien Émeriau de Beauverger)艦長も2度負傷しながら指揮を執っていた。

 エメリオ艦長とスパルシアーテの乗組員は、強い抵抗を示し、スパルシアーテの艦内で激しい戦いが繰り広げられた。

 しかし圧倒的に不利な戦況にエメリオ艦長は降伏を決意した。

 その後、ゴールウェイ海尉はスパルシアーテを指揮するエメリオ(Maxime Julien Émeriau de Beauverger)艦長の剣を持ってボートで戻ってきた。

 ゴールウェイ海尉から報告を受けたベリー艦長はすぐに下の階で傷の治療していたネルソンの元に赴いて報告を行った。

 この時点で戦闘を継続しているゲリエ、アキロン、ペープル・スーヴェラン、フランクリンは圧倒的不利な状況で戦っており、オリエント(Orient)、トゥノン(Tonnant)、ウールー(Heureux)も勇戦していたものの、完全にネルソンの術中にあると考えられていた。

 勝利の行方はすでにイギリス側にあるように見えた。

 ベリー艦長も同様に思っており、提督と直接コミュニケーションをとることに満足していた。

※スパルティアーテが降伏する際、ネルソンはエメリオ艦長に真新しい三色旗を持参し、剣を手放すよう命じた。エメリオ艦長が剣を渡そうとすると命令したであろうネルソンはそれを拒否して次のように言った。「彼の剣を、それを担うのにふさわしい男の手に返そう。(Let his sword be returned to a man so worthy to bear it.)」というエピソードが残されているが、ベリー艦長の書簡にはこの出来事は記述されていない。エメリオの剣を持って来た時、ネルソンは甲板におらず、下層の救護室にいた。もしこのエピソードが真実なら、ネルソンがエメリオ艦長に直接言ったのではなく、ベリー艦長が救護室に来た際にベリー艦長に伝えたか、もしくは戦いの後に伝えたのだろう。

 この時までにベレロフォンを指揮するダービー艦長は指揮を再開できるほど回復しており、すべてのマストが破壊されたボロボロのベレロフォンはダービー艦長の命令でアブキール湾の東端に停泊し、乗組員は修理を始めた。

リアンダーの戦場への突入

1798年8月1日午後8時半過ぎ頃、リアンダーの戦場への突入

※1798年8月1日午後8時半過ぎ頃、リアンダーの戦場への突入

 フランス艦隊に突入した最後の艦は座礁したカローデンの支援を行っていたリアンダーだった。

 リアンダーを指揮するトンプソン船長は、暗闇の中カローデンに対して何の支援もできないことに気付き、オリエントの前に横向きになって錨をおろして停泊するつもりで前進した。

 しかしフランクリンがオリエントのすぐ前方に停泊していたため、両方を避けて通り抜ける余地はなかった。

 トンプソン艦長はフランクリンとオリエントが一直線に整列しておらず、オリエントがフランクリンの左舷船尾側に停泊していること、そしてフランクリンとペープル・スーヴェランの間に通り抜けることのできる空間があることを発見した。

 トンプソン艦長はフランクリンの前に錨を投げ入れて停泊させ、フランクリンとオリエントを同時に攻撃した。

 オリエントは右舷船首側に兵力を集結させてスウィフトシャーと戦っており、それに加えて船首正面ではリアンダーからの激しい砲撃を受け、船尾側ではアレクサンダーと戦うという状況となっていた。

ブリュイ提督の死

 ブリュイ提督はこれまでの戦闘で、頭と腕に傷を負いながらも衰えることのない毅然とした態度で戦いを指揮していた。

 そして艦橋から甲板に降りてきてからしばらく後、砲弾がブリュイ提督の胸に直撃した。

 ブリュイ提督は「フランスの提督は監視台で死ななければならない。」と言って救護室のある下層に運ばれるのではなく甲板上に放置されて死ぬことを望み、その僅か15分後に息を引き取った。

 シャイラ副司令官は後に、「ブリュイ提督は砲弾を受け、危うく真っ二つになるほどだった。」と報告している。

 貴族の家に生まれたブリュイは恐怖政治により家族や友人を多く失っていながらもそれを受け入れフランスに忠義を尽くした人物であり、その命の灯は44年で消えることとなった。

 ブリュイ提督の死は乗組員にも6番艦フランクリンに乗船している副司令官であるシャイラ少将にも知らされることは無く、ガントーム少将が指揮を引き継いだ。

 そして8時55分、リアンダーからの砲撃は続き、スウィフトシャーとアレクサンダーとも戦闘を行っているオリエントの甲板は瞬く間に炎に包まれた。

※オリエントの火災の急速な進行は、前日にオリエントの側面を塗装し、可燃性の塗料が船尾甲板に残されていたからという説がある。
ナポレオンはイギリス軍が可燃性物質を砲弾に塗って発砲し、それが引火したと主張しており、その後の調査でスウィフトシャーから可燃性物質が発見されている。船首側の火災の広がりはスウィフトシャーによるもので、船尾側の火災の広がりは可燃性塗料が原因の可能性がある。

オリエントでの3度目の火災とゲリエの降伏

1798年8月1日午後9時前後、オリエントでの3度目の火災とゲリエの降伏

※1798年8月1日午後9時前後、オリエントでの3度目の火災とゲリエの降伏

 午後8時55分、突然、「フランスの旗艦オリエントが燃えている」という叫び声がヴァンガードの甲板全体に響いた。

 ベリー艦長がこの状況を直ちにネルソンに伝えると、ネルソンはベリー艦長とともに再びクォーターデッキに現れた。

 イギリスの艦艇は依然としてフランス艦隊に対し強力な砲撃を続けていた。

 9時、ネルソンはヴァンガードからゲリエ、アキロン、ペープル・スーヴェランがジーラス、オーディシャス、ミノタウロスに攻撃するのを見た。

 数分後、ネルソン戦隊右翼の通過に耐え、ジーラスと戦っていたゲリエが遂に降伏した。

 9時10分過ぎ、オリエントの火災は急速に進行し、船体の後部全体も炎に包まれた。

 ネルソンはオリエントに乗船している多くの人命の危険に対する懸念を覚え、直ちにゴールウェイ海尉が使用していたヴァンガードに残された唯一のボートで可能な限り多くの人命を救出するよう命じた。

 ボートが使用可能な状態にあった他の艦もすぐにヴァンガードの例に倣った。

 これにより約70人のフランス人の命が救われたと言われている。

 オリエントの火災によって周囲が照らされたことにより、イギリス艦は両艦隊の状況をより確実に認識することができ、両方の戦艦旗がはっきりと区別できた。

 この時、フランクリンはイギリス艦艇に囲まれ、完全に炎上しているオリエントの風上(北西)わずか80ファゾムの位置に停泊しており、敵か炎の餌食になる以外に選択の余地はなかった。

 そしてメインマストとミズンマストが倒れ、メインデッキのすべての大砲が破壊された。

参謀長ガントーム少将によるオリエントからの避難命令

 参謀長ガントーム少将はオリエントの火災を消火しようと奔走していた。

 その時、下甲板の36ポンド砲と中甲板の24ポンド砲は砲撃を続けていたが、爆発を伴う炎がクォーターデッキの後部に現れた。

 発砲を停止する命令が出され、全員が自由に行動できるようにした。

 この時点ではまだ乗組員たちの統率は失われておらず、何とか消化するための人員を集結させることができたが、周囲は火災による熱気に包まれており、下甲板までは発砲停止の命令は届いておらず、36ポンド砲はなおも砲撃を続けていた。

 しかし人員を集めて消火しようにも消防ポンプは壊れており、斧への道は塞がれ、バケツは散乱していたため消火活動を行うことができなかった。

 ガントームは最悪の事態を避けるために火薬を海に投げ入れるよう命じた。

 しかし火災の進行は早く、ガントームは作業の途中で船内に残っている乗組員に対しオリエントを放棄して避難するよう命じた。

 この時、オリエントはもう戦闘を継続できるような状態ではなかった。

 ガントームはオリエントのカウンターの下にあったヨール型帆船に乗り込んだ。

 乗組員たちもガントームが乗船した船や手漕ぎボートに乗ってオリエントを離れた。

 帆船やボートに乗れなかった者たちは海に飛び込み、浮いているオリエントの残骸にしがみついた。

 その後もオリエントの火災はみるみる広がり、下層にまで延焼していった。

 死を免れたエタット(Etat)少佐とオリエントの乗組員達は、中甲板にまで達した火災を消すのは不可能であると確信し、助かろうと海に飛び込んだ。

※エタット少佐達はまだ炎の来ていない下甲板にいたのだろうと考えられる。

 その後、ガントームはサラミーヌに乗り込み、ヴィルヌーヴ将軍が乗船するギョーム=テルに向かったがたどり着くことができなかったため、上陸してアレクサンドリアへ向かった。

カサビアンカ親子の運命

1798年8月1日午後9時~10時、アブキール湾の海戦において炎上するフランス旗艦「オリエント」からの脱出を拒否するジョカンテ・カサビアンカ少年

※1798年8月1日午後9時~10時、アブキール湾の海戦において炎上するフランス旗艦「オリエント」からの脱出を拒否するジョカンテ・カサビアンカ少年

 旗艦オリエント艦長カサビアンカには12歳の息子ジョカンテがおり、オリエントに乗船していた。

 オリエントの火災発生時、カサビアンカは息子とともにオリエントから脱出するつもりであり、迎えに来るまで艦から出ないよう伝えていた。

 しかしカサビアンカはジョカンテを迎えに行く前に銃弾を受け、フランス国旗を手に戦死してしまった。

 父親の死を知らないジョカンテは他の乗組員の説得にもかかわらず、父の言いつけを守りオリエントに留まり続けた。

※セントヘレナのナポレオンによると、カサビアンカは息子を海に浮いているトップマストにしがみつかせ、カサビアンカ自身は国旗を手にオリエントから飛び降り、お互いを探し求めたとのことである。

アキロン及びペープル・スーヴェランの脱落とフランクリンの状況

1798年8月1日午後9時半、アキロン及びペープル・スーヴェランの脱落

※1798年8月1日午後9時半、アキロン及びペープル・スーヴェランの脱落

 午後9時半、激戦の末、アキロンはマストを外されて砕け散り、ミノタウロスの乗船隊が艦長を失って戦意を喪失した4番艦アキロンを占領した。

 同じ頃、リアンダーの右舷側からの砲撃によりペープル・スーヴェランは大きな損害を受け、さらにオリオンからの継続的な砲撃によりアンカーケーブルが切断された。

 ペープル・スーヴェランは戦列を外れることを余儀なくされ、その後、オリエント左舷方向の陸側へ漂流した。

 ペープル・スーヴェランはその後も抵抗を続けたが最終的に占領された。

 一方、フランクリンもリアンダーからの攻撃により大きな被害を被っていた。

 フランクリンは左舷側でオリオン、右舷側でスウィフトシャー、船首側でリアンダーと対峙していた。

 フランクリンのモーリス・ジレ(Maurice Gillet)艦長はここまでの戦闘で胸部に重傷を負って意識不明となり下甲板に運ばれ、指揮はマルチネ(Martinet)海尉に引き継がれていた。

アレクサンダーの突入によるフランス艦隊右翼への影響

 午後9時30分頃、トゥノンはアレクサンダーを攻撃するオリエントの砲火を避けるためにアンカーケーブルを切断した。

 オリエントの左舷後方にいたアレクサンダーは、オリエントへの砲撃を終えるとすぐに、トゥノンの船首に舷側砲を向け、激しい砲撃を続けた。

 ウールーとメルキュールもトゥノンと同様にアンカーケーブルを切断すべきであると考えた。

 この動きはフランス艦隊右翼の艦船に大混乱を引き起こし、ジェネルーがティモレオンの舵を誤って破壊するという結果をもたらした。

 ウールーとメルキュールは漂流した後に座礁し、舵を破壊されたティモレオンはヴィルヌーヴ少将にウールーとメルキュールを護衛するよう命じられて南に漂流し、座礁したウールー及びメルキュールとジェネルーとの間に停泊した。

 そしてトゥノンはギョーム・テル、ジェネルー、ティモレオンの前方に停泊することに成功した。

 アレクサンダーもアンカーケーブルを切断し、トゥノンとの戦闘で索具と帆はすべて切り裂かれ沈没しそうになっているマジェスティックの船尾に停泊した。

※イギリス戦列艦アレクサンダー、フランス戦列艦トゥノン、ウールー、メルキュールがアンカーケーブルを切断したのはオリエントが爆散した影響であるという説もある。

旗艦「オリエント」の爆散

ナイルの海戦。ジョージ・アーノルド(George Arnald)画。

※ナイルの海戦。ジョージ・アーノルド(George Arnald)画。1825年から1827年の間の作。フランス艦隊旗艦「オリエント」が爆散した場面。

 午後10時頃、フランス艦隊左翼のすべての艦が脱落した少し後、旗艦オリエントの火薬庫が炎に包まれ凄まじい爆発を引き起こした。

 この時のオリエントの爆発は2つの爆発が同時に起こったことにより威力が凄まじかったと言われている。

 爆散の波動と轟音は戦場にいるすべての艦で観測され、約3分間の死のような沈黙が続き、広大な高さまで飛散したマストやヤードの残骸が水中に落ち、燃え盛る破片が周囲の艦を襲った。

 爆発の後、ネルソンは不安と衰えることのない戦意によって多少の困難はあったものの、伏せるよう説得された。

 オリエントの前方にいたフランクリンの甲板は空から降り注ぐオリエントの真っ赤に焼けた鉄や木材の破片、火のついたロープで覆われた。

 フランクリンは4度目の火災に見舞われ、船尾と船尾甲板にまで燃え広がり、フランクリンもオリエントのように爆散するのではないかと思われた。

 しかし乗組員の奔走により、幸運にも消火することができた。

 一方、イギリス軍側も爆散による被害を受けていた。

 オリエントからの左舷側の燃え盛る破片がアレクサンダーのメインロイヤル・マストに落ちたが、それによって発生した火災はボール艦長の積極的な活動により約2分で鎮火した。

 オリエントから離れていたゴリアテでさえも消火に追われていた。

 オリエントの爆発の直後、戦闘はあらゆる場所で停止し、非常に深い沈黙が続いた。

 空は厚い黒煙で覆われ、両艦隊が壊滅の危機に瀕しているようだった。

 海はアブキール湾全体が上半身裸の死体で覆われ、まだ生きている者達の多くは浮いているオリエントの破片にしがみつき助けを求めていた。

 オリエントが爆発したことによりカサビアンカ親子の希望と恐怖に終止符が打たれた。

 このオリエントの爆発音はオリエントが爆発した地点から約180㎞離れたカイロにまで届いたと言われている。

ロゼッタからのオリエント爆散の観測

 戦場から約30㎞離れたロゼッタでもフランスの士官や兵士達がアブキール湾での海戦を見守っており、オリエントの爆散が観測されていた。

 ロゼッタにいた海軍士官は次のように報告している。

「発砲は9時15分まで非常に活発でした。夜のおかげで、何かの船が炎上していることを明らかに知らせる驚異的な光を私たちが認識したとき、その瞬間、発砲はこれまでよりも活発でした。10時に燃えていた船がものすごい音を立てて爆発しました。その後、完全な暗闇が訪れ、約10分間の最も深い沈黙が続きました。爆発を見てからその音が聞こえるまでに経過した時間は2分でした。」

ゴリアテの船員が見たオリエント爆散時の様子

 ゴリアテの砲手だった英国人船員ジョン・ニコルは、爆発後に見た光景を次のように語った。

「フランスの旗艦(オリエント)が爆発したとき、ゴリアテは船尾が吹き飛んだのではないかと思うほど揺れました。火災が収まった後、私は艦隊の状況を確認するために甲板に上がりましたが、目の前には恐ろしい光景が広がっていました。(アブキール)湾全体が切断され、傷つき、焼かれた死体で覆われ、それらの死体はズボン以外には衣服を着ていませんでした。 旗艦オリエントから脱出したフランス兵がゴリアテの船首楼の下に群がっていました。 哀れな人々! 」

爆発時のネルソンの様子

 オリエントの爆発後、ネルソンは未だ落ち着いた様子を見せずに立ち上がった。

 頭に傷を負い自分の死期は近いと考えていたネルソンは、この戦いの後にベリー艦長が派遣団とともに帰国する予定だったので、トーマス・アスターマン・ハーディ(Thomas Masterman Hardy)をヴァンガードの艦長に任命にするという委嘱書と、カペル(Capel)をミューティンの艦長に任命するという委嘱書に署名した。

 この委嘱書は、その後1798年10月2日に実行されることになる。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・James Stanier Clarke and John M'Arthur著「The Life of Admiral Lord Nelson from His Manuscripts: Volume 2」(1809)

・Cooper Willyams著「A Voyage Up the Mediterranean in His Majesty's Ship the Swiftsure」(1802)

・「Histoire des Combats D'Aboukir, De Rrafalgar, De Lissa, Du Cap Finistere, et de plusieurs autres batailles navales, Depuis 1798 Jusqu'en 1813」(1829)

・John Marshall著「Royal Naval Biography,Vol 1. Part 2.」(1823)

・Edward Pelham Brenton 著「The Naval History of Great Britain: From the Year MDCCLXXXIII to MDCCCXXII,Vol II.」(1823)

・John Ross,他著「Memoirs and Correspondence of Admiral Lord De Saumarez: Volume 2」